第4話 橋野おじさんの遺書と思いがけない遺産

 その二十歳くらいの金髪女性は、いきなり紙煙草を取り出した。

「普通、こういう店では喫煙禁止だけど、紙煙草なら匂いがしないからOKよね」

 まさ恵ママは頷きながら

「はい。OKですよ」と灰皿を出したあと、

「ここはゴスペル喫茶ですが、ゴスペル好きですか?」と尋ねた。

「実はね、橋野おじさんから聞いてやってきたの。

 ここに来て、ゴスペルを聞くと精神が落ち着くかもしれないよ。

 神様が宿っているからねと言われて、やってきたの」


 えっ、この人、橋野おじさんを知ってるんだ。

 私は思わず

「橋野おじさんの親戚ですか」と聞いてみた。

「まあ、遠い親戚といったところね。と言っても、会ったのは私が小学校の時以来だけどね。あっ、橋野おじさん、一週間前から顔色が悪いのよ。

 入院させようかと思うけどね、その前に行ってあげてよ」

 そう言われても、私は橋野おじさんの自宅も近所の人さえも知らないから、行きようがない。確か橋野おじさんは、誰にも自宅を明かさなかった筈だ。


 そのとき、なんと橋野おじさんが入店してきたのだった。

 沈黙のままで先に会計を済ませ、珈琲を飲んだ後、いきなり私に一通の白い封書を渡した。

「この封筒は、僕の遺書だと思ってほしい。

 しかし今、開封したらダメだよ。一週間後でなければ効力が発揮しないんだ。

 るり子ちゃんを信用して預けるよ」

 えっ、一週間後とはどういうことだろう。パンドラの箱みたいだな。

 まさか分厚い札束が入っているとも思えないし、二枚ほどの便箋が入ってそうだ。

 これは、身寄りのない独り暮らしの橋野おじさんの遺書に違いない。

 私は心して受け取ったが、無言で背を向けて去っていく橋野おじさんの背中が、やけに小さく、消え入りそうにはかなく見えた。


 翌日、私は橋野おじさんの急死を知らされた。

 もともと橋野おじさんは末期の心臓病で、常日頃からニトログリセリンを携帯していたので、私は別段驚きもしなかった。

 ゴスペル喫茶ハレルヤで会ったのが、最後だったんだな。

 私は、自宅に帰って橋野おじさんにもらった封筒を開けてみた。

 するとなんと、一千万円の小切手が二枚入っていた。

 白い便箋には

「今まで話を聞いてもらってありがとう。

 僕は娘るみ子を死に追いやった、元ホストの吉崎に復讐したいなどというお門違いの暗い思いにとらわれていたんだ。

 それは大きな僕の勘違いであり、るみ子は吉崎の知らない間に自ら風俗勤めを選び金を稼いだが、性病になりうつ病もあいまって自殺という道を選んだんだ。

 吉崎にそのことを知らされたときは、あぜんとしたよ。

 吉崎は断固として、自分はそのような人身売買のようなことはしていない。

 そこまでして、ホストクラブに来店してほしくないと断言したよ。

 僕はその言葉に、どれだけ救われたか。胸につかえていたしこりが、スーッと溶けて消え去っていくのを感じたよ。

 るり子ちゃんと出会ったことは、神の思し召しだったとしか言いようがない。

 同封の小切手、自由にお使い下さい。私からのお礼のしるしです」

 私はラッキーとは思ったが、えっこんな大金を頂いていいのかなというとまどいにかられた。

 しかし、身寄りのない吉崎が財産をもっていたとしても、サギにだまされるか、亡くなったあとは、国家に没収されるかどちらかだろう。

 それだったら、身近にいる私に遺産として残すのも、罪のないひとつの方法である。私は、橋野おじさんの好意に応えることにした。


 ふと、吉崎のことを考えてみた。

 まあ、一度でも人身売買をすれば、吉崎自身もそうされる危険性はあるだろう。

 この頃は、日本にもアメリカやタイ同様のゲイ売春というのが、輸入(!?)されているらしいが、もちろん公けにはされていない。

「人は騙し騙されながら、ますます悪に堕ちていく」(箴言)

 まさ恵おばさん曰く

「いくら金銭に困っても、いくら甘い言葉をささやかれても、私は犯罪の片棒をかつぎはしないわ。いや、その必要はないの。だって、私にはイエス様がついているんだもの」

 まさ恵おばさんはそう言ったあと、目を閉じ手を組んで「主の祈り」を唱え始めたことを明確に覚えている。

    「主の祈り」

 天にまします我らの父よ

 願わくは御名をあがめさせたまえ

 御国を来らせたまえ

 御心が天になす如く 地にもなさせたまえ

 我らの日用の糧を今日も与えたまえ

 我らに罪を犯す者を我らが許す如く 我らの罪をも許したまえ

 我らを試みに合わせず 悪より救い出したまえ

 国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり

 アーメン


 私はまさ恵おばさんの祈る姿を見て、厳かな敬虔さを感じた。

 真実の神をしり、それに向かって祈ることができるのは、なんという幸せだろう。

 私も目を閉じて、手を組んでアーメンと言うと、なんだか、暗闇に一筋の光の道が見えるような気がした。

 そしてその光の道に私は従っていこうと決心したことを、覚えている。

 神様はまさ恵おばさんを通して、私に信仰を与えて下さったのである。

 私は橋野おじさんから頂いた小切手の一部である五百万円を、まさ恵おばさんに寄付しようと思った。


 いつものようにゴスペル喫茶ハレルヤに行くと、ドアには貼り紙がしてあった。

「物価高騰価に伴い、今月からすべての商品を値上げさせて頂きます」

 時代の流れとともに仕方のないことである。

 郵便料金すらも、2024年秋からは封書110円、ハガキ85円に値上がりされる時代なのだから。今期の2023年は大赤字だという。

 いや、私にとってはハレルヤはなくてはならない、たましいの安らぐようなゴスペル喫茶である。

 数々の居酒屋や激安飲食店が休業するよりは、はるかに良心的である。

 幸い、喫茶ハレルヤは焼き肉屋やラーメン屋、唐揚げ屋のように、ガス代は高額ではないので、まだ救いがある。

 そう思って、いつものようにドアを開けると、なんと以前会った、橋野おじさんの遠い親戚だと名乗る、二十歳くらいの金髪女性がカウンターに座り、以前と同じように紙煙草を吸っていた。

 

 彼女は私の方を向いて、舌足らずのべらんめえ口調で、小指を立てながら

「私は玲奈っていうんだけどね、ねえ、あんた橋野さんのコレ(愛人)なの? そうに違いない。

 あんた、橋野さんの好みのタイプだものね」

 私はあわてて、手を振って取り消した。

「ねえ、私は橋野さんには中学卒業まで、ずいぶん可愛がってくれたものよ。

 その後、私はワル男にひっかかってグレたけどね。

 あっ、よくあるパターンだよね」

 もしかして、立ちんぼでもしていたのかもしれない。

 この頃は、立ちんぼといっても昔のように五十歳過ぎた高齢者ではなくて、ミニスカートにブーツを履いたアイドル志願のような女性も増加してきているという。

 彼女は、性病の毒がまわっているのだろうか。

 少々、頭脳が偏っているようである。

 私が昔見てきた、風俗出身の少々頭脳のこわれた女性と似た部分が見受けられる。

 そのときである。元ホスト、今は長距離トラック運転手の吉崎が現れた。

「あっ」と言ったきり、沈黙のままで店のいちばん隅のテーブル席に座った。

 吉崎は、珈琲を頼んだまま、ずっと深刻な顔をして無言のままだった。


 玲奈は吉崎に声をかけた。

「あのときはありがとう。私、あの悪質ホストクラブのオーナーにタイの風俗に売られるところだったのよ。

 まあ、私の場合、不幸中の幸いで歌舞伎町の風俗に勤めながら、ホストクラブに通ってたけどね。あっ、担当はあなたじゃなかった。あなたはその当時は、まだ新人でその場をつなぐ、ヘルプ専門だったけどね」

 吉崎は答えた。

「僕、ホストクラブのオーナーから、あなたを外国風俗に売るよう勧められてたんですよ。しかし僕は断固としてそれを断ったんです。

 ある日、オーナーも含めた五人の強面に取り囲まれ

「お前は、俺たちの悪口を客に言ったな。罰金百万円払えなどといって証書を押し付け、力づくで僕にサインをさせました」

 証書には、一週間以内に百万円支払うことを、誠意をもって確約いたしますなどと記されており、その店の顧問弁護士のサインまでしてあったんだ」

 ウェーっ、それ実話?

 私は冷静を装い、耳をすませて聞き入っていた。

 吉崎は、うわずったような声で

「僕は貧乏ホストであり、百万円なんて大金など払えるはずがない。

 僕は証書を片手に、その足で民間の支援団体に駆け込みました。すると、支援団体が弁護士を立てて、この証書を無効にしてくれました」

 玲奈は

「当たり前といえば当り前よ。どうして上司のグチを言っただけで、百万円も店に支払う必要があるのよ。

 多額の借金をかたに、あなたを自分たちの悪事に利用しようとしている魂胆よ。 

こんな無茶なことをいう店は、バックに悪党がついて金を吸い上げられてるに違いない。

 まあ、ああいう悪党は金を吸い上げることしか考えてないものね」

 玲奈はため息をつきながら言ったが、なんだか言葉の端々にうわずった雰囲気が感じられる。

「どうせバレルことだから、正直に今、告白します。

 実は私はオーバードーズだったの。

 リストカットのように、自分の身体に傷をつけることで、心の傷を癒そうとしていたの。身体の傷に集中することで、心の傷が少なくなるような気がしたのよね。

風邪薬や喉薬を大量に飲み、フラフラの酩酊状態だったの。

 胃洗浄をして何回も吐かされるという死ぬんじゃないかと思うほどの、めちゃめちゃ苦しい体験をしたけれど、結局はそれでやめられたわ」

 急にまさ恵ママは、五十年まえ流行った歌謡曲を歌い出した。

「♪身体の傷なら癒せはするが、心の傷まで癒せはしない。

 ときの過ぎゆくままに この身をまかせ♪

(「ときの過ぎゆくままに」歌 沢田研二)

 ときが過ぎるに従って、いろんな傷は消えていくわ。

 まあ、私の場合はイエスキリストを信仰することによって、いろんな憎しみから解放され、イエスキリストと共に生きていこうと祈ると、ゴスペル喫茶経営という新しい道が与えられたの」

 私はびっくりしたと同時に、疑問が生じた。

 笑顔が素敵で、誰とでも気さくに話すことのできる社交的なまさ恵ママが、憎しみを抱いていた相手とは一体誰なんだろう。

 



 



 


 


 

 

 

 


 


 

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