終章#61 キミ

 SIDE:時雨


 本当は蛇足なのかもしれない。

 もうボクが結ぼうとしなくてもいい。

 ううん、何かすることは余計なお世話だ。


 だけど、とボクの脳裏によぎってしまう。

 彼らが四人じゃない世界もあったんじゃないか――と。


 そんな『もしも』をそのままにして。

 彼らはエンディングを迎えず、変わり続ける関係に手を伸ばそうとしている。


 変わらないものはない。

 色んなことを経験して、その度に相手へ抱く感情も変わっていく。

 それが生きることなのかもしれない。


 だけど、それってすごく恐ろしいことだ。

 どれだけ相手の心を手に入れられたと思っても、頑張り続けないといけない。

 気を抜くことも立ち止まることもできず、戦い続けないといけない。


 その在り様を本物と呼ぶのなら――。

 本物を手に入れることは、幸せなことではなくて。

 むしろ不幸せなことなのかもしれない。


「ボクはキミに幸せになってほしいだけなんだよ」


 今でも時々、夢に見てしまう。

 ずっと昔のお葬式の日。

 わんわん泣いて大人を困らせたボクとは対照的に、彼は一滴も涙を流さなかった。ただ空っぽな顔をしていた。哀しみさえ置き去りにしてしまったようなその顔がどうしようもなく痛かった。


 彼と彼女の初恋を守ることができなかったから――ボクは初恋の代替品を探した。

 それが見つかれば、あの頃に戻れるような気がした。

 世界が色づく気がした。

 ボクは他でもない自分のために、彼と彼女の初恋を取り戻そうとした。


 でも、それだけじゃないんだ。

 もっと純粋な気持ちがボクの中にはある。


 これは誰にも言えない秘密。

 過去のことだから、言っても意味のないことだけど。


 ――ボクの初恋は彼だった。


 ずっと昔に産まれた、ボクの淡い失恋。

 お互いを埋め合う二人を脅かしたくなくてしまいこんだ、古びた気持ちだ。

 今は彼を想ってはいないけれど、彼に幸せになってほしいとは思う。


 その気持ちは、恵海ちゃんと結ばれた今でも変わらない。

 時々夢に見る、あの日の彼に――ずっと笑顔でいられる未来を用意してあげたい。

 泣くことさえできなかった彼に、泣きたいとさえ思わないハッピーエンドをプレゼントしてあげたい。


 だからこそ、ボクは彼らの答えを否定する。

 美緒ちゃんと二人っきりのときはよかった。あの三人に囲まれているときも同じ。彼らの関係には確かにエンディングが用意されていて、そこに行き着けば幸せになれた。


 でも来香ちゃんが彼の前に現れてから、変わってしまった。

 殺伐とした戦争にさえ、ボクには映った。

 事実、そうなのだろう。彼らは戦い続けることを――エンディングを迎えず、いつまでも恋し続けることを選んだ。


 もちろん来香ちゃんが嫌いなわけではない。

 でも、物事には運命や順番がある。

 ボクがあのとき二人の間に割って入って『好きだ』と告げていたら、ボクらは仲良しのままではいられなかったはずだ。ボクと美緒ちゃんが彼を取り合う未来いまもあったかもしれない。


 今も同じだ。

 来香ちゃんは順番が悪かった。今の彼は、あの三人と出会ってしまった。

 それなのにその輪に入ろうとすることは、不幸せなことだと思う。


 ――もしももっと早く出会っていたら。

 ――もしも出会う前に答えを出していたら。


 彼らの『もしも』は、どちらの方向にも舵を切ることができる。

 だからこそ、正しくエンディングを迎えるべきなんだ。

 そうすることでしか『もしも』を否定することはできないから。


「お待たせ、時雨さん。……時雨さんが時間よりも早く来てるなんて珍しいね」

「小説を書き終えたから読んでほしいって言ったのは、キミでしょ? 可愛がってる従弟の書いたお話が楽しみじゃない従姉なんていないよ」

「それは普通にいると思うけど……」

「無粋なツッコミは感心しないな。少なくとも、キミの従姉の中にはいないでしょ?」


 春が近づく、3月の中旬。

 卒業式と感謝祭を明日に控えた夕間暮れに、ボクは学校近くの公園で彼と待ち合わせていた。最近はあまり着ていない制服を久々に引っ張り出してきたのは、なんとなく、先輩ぶりたかったからかもしれない。恵海ちゃんが正しくそう在るように。


 公園にやってきた彼は、大きな茶封筒を抱えていた。

 ……わざわざ印刷してきたんだね。

 専らデータでしか文章を読むことがないから、少し古風に思えて、可笑しかった。そういうところは彼らしいのかも、と思ったりもするけれど。


「それで? キミの処女作はその封筒の中に入ってるのかな?」

「うん。ま、これは二作目のつもりなんだけど」

「つまり準処女作。ようやく痛みに慣れてきた頃だね」

「急な下ネタはやめようか!?」


 食い気味のツッコミにくすくすとボクは笑った。

 今のはちょっぴり下品だったかも。でも大人のお姉さんなら、これくらいは言ってもいい気がする。余裕ぶるのは年上の特権だ。

 くしゃくしゃと困ったように後頭部を掻き、彼は言ってくる。


「できたら、これを読んでから明日の感謝祭に来てほしいんだ」

「……つまり今日中に読めってこと? それならもう少し早く渡してもらえると余裕を持てたんだけどなぁ」

「それは本当にごめん! 書き終わったのが昨日の夜なんだよ」

「そうなんだ?」


 見れば、彼の目元には薄っすらと隈があった。

 茶封筒の厚さからも、それなりの文量の作品だとは察することができる。かなり無理をしたんだろう。なら、読まないわけにはいかない。


「いいよ、分かった。明日までに必ず読むね」

「……うん」


 小さく頷いた彼から茶封筒を受け取る。

 ずっしりと重い紙の束。


『いったいキミは、どんな物語を綴ったの――?』


 そう心の中で尋ねると、


「そこには、俺なりの答えを書いた」


 彼はボクの心を見透かしたみたいに、言った。


「時雨さんは言ってたよね。俺の答えが変わらない保証はない、って。そんな関係で本当にいいのか、って」

「……そう、だね」

「俺はいいと思ってる。この関係いい。でも……そう俺が思ってるだけじゃ、時雨さんには伝わらない。俺はちゃんと時雨さんにも分かってほしいし、できたら祝ってほしいんだ」


 だから書いた、と彼は言う。


「ボクには分からないよ。たった一つの『もしも』で変わってしまう関係なのに、どうして変われるままでいることを選ぶの?」

「…………」

「それはもしかしたら、本物なのかもしれない。ぶつかって恋し続けて、本物だって証明していこうとしているのかもしれない。だけど――それはとても辛いことだよ?」


 どうしても我慢しきれなくて、ボクは言った。

 ボクら二人の影が交わる。

 春によく似た風を頬に受けた瞬間、ボクは祈るような言葉を放っていた。


「キミには幸せになってほしい。もうキミは十分に頑張った。それでも、生きていく限りはこれからも壁にぶつかって、痛い思いや苦しい思いをするんだと思う」

「……うん」

「だからせめて、頑張らなくていい人たちと一緒にいてほしい。気の抜けた等身大の自分を受け入れ合えるような――愛し合える関係を手に入れてほしいんだよ」


 うんと彼は頷くけれど。

 それでも彼は、答えを改める気はないみたいだった。


「分かってる。時雨さんの言いたいことはすっごく分かってるんだ。他の四人が親にされてたような心配を、きっと時雨さんは俺にしてくれてる。そのことが上手く言えないんだけど、めっちゃ嬉しい」

「……っ」

「でも、心配は要らなくてさ。その理由を簡単に伝えられたらいいんだけど……俺はまだぴったりの言葉を見つけられてないんだ。俺の気持ちをぜんぶ一言で表せたらどんなに楽だろうって思う。けど、そんな簡単には言葉にできないんだよ」


 優しい声音だった。

 まるで子供がお母さんに話してるみたいな声だ。


「俺の気持ちは、全部その話に込めた。まだ完結してるわけじゃないけど……きっと読んでくれれば伝わると思う。まだ拙すぎるかもしれないけど、それでも――俺たちを見守ってくれた時雨さんには届いてくれるって信じてる」

「…………」

「今は読んでほしい。俺が俺だけで手に入れられない望みがあるとしたら――それは時雨さんに分かってもらうことだから」


 ちらちらと、気の早い桜の花弁が舞った。

 まるで通り雨みたいな、本当にささやかな桜吹雪。

 それがボクには誰かの祈りのように思えた。


「――読むよ。それでも伝わらなかったら、赤を入れてあげる。キミが不幸せにならないように」

「うん。……お手柔らかにね」

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