終章#54 愛を知らない子供たち(後編)
「出て行ってくれ。これ以上、話を聞くつもりはない」
酷く冷たい拒絶は、至極当然の反応だった。頬を引っぱたかれて顔が右側に傾くと、黒い哀しいを瞳の中に携えた来香のお母さんと目が合う。
分かっている、つもりだった。
何なら二人が来る前、殴られるかも、と話してさえいた。
にもかかわらず、頬はじんじんと痛んだ。
「お父さんッ! どうしていきなり殴るのっ?」
「……カッとなってしまった。申し訳ない。ケガをしたなら手当てはしよう。病院代を払ってもいい。だから、それが終わったら今すぐ出て行ってくれ。そして金輪際、来香に関わらないでほしい」
「だからっ! お父さんにそんなことを言う権利はないでしょ!? 別にすぐに納得してもらおうとは思ってない。それでも、話すことはできるじゃん。関わらないでとか、そんなのあたしが決めることだよ!」
何も言わない俺に代わって、真っ先に来香が吠えた。
噛みつくような勢い。きっと『関わらないでほしい』とまで言ったことが逆鱗に触れたのだろう。その声は耳を劈くほど、激しかった。
しかし、
「来香。私たちは来香のためを想って言ってるのよ」
お母さんが慈しむように言った。
「…っ、なにそれ? そんなの、子供を束縛する親の常套句じゃん! あたしは二人の物じゃない。この命はあたしのものだもん。二人の意見なんて――」
「月瀬先輩、それ以上はダメです」
「――っ」
勢い余った来香を止めるのは大河だった。
分かってもらおう、と。
同じくそう願う彼女だからこそ、来香にその先を言わせるべきでないと思ったのだろう。大河が止めなければ、来香は『二人の意見なんて関係ない』と続けていた。分かってもらうことを、あっさりと諦めてしまうところだった。
きっと、と場違いに思う。
俺ほどではないにせよ、来香も普通の家族を知らないのだろう。
月瀬家は一般家庭だ。
けれど、百瀬美緒にとってそこは自分の家ではなくて。
月瀬来香は溢れるほどの親の愛を受け取っているけれど、その中にいる百瀬美緒は、その受け取り方に慣れていない。
だから――分かってほしいと願いながら、それと相反することを容易くできてしまう。
「
「……ありがとうございます」
「けど、私や夫の気持ちも分かってほしい。知っているでしょう? 来香は私たちにとって、本当に大切な子なの」
子守歌みたいに優しい声だった。
母さんもこんな風に俺たちを想ってくれていたはずだ、と。
そう、母の愛を探してしまうほどに、優しい。
そして切実だ。
「あなたたちの関係を否定はしない。色んな関係があっていいと思う。だけど……だけどね。来香には、普通の幸せを掴んでほしいのよ」
俺たちは普通じゃない。
「普通に来香一人を愛してくれる男の人と出会って、結婚して、健康に子供を産んで。そうしてお母さんになって、お祖母ちゃんになってほしい。もう十分、大変な目には遭ってきたから」
五人で生きていく中で、乗り越えるべきものはこれからもたくさん現れる。
「あなたたちは、そうはなれないでしょう? 誰かが子供を産んだら、きっと関係は変わってしまうわよね? 関係を変えないためには、子供を産むことはできない」
俺たちはありふれたハッピーエンドを迎えることができない。そもそもエンディングを迎えることを拒んでいるのだから
「いつまでも親になることができない未来を、私は来香に選ばせたくない。来香を育てることはとても大変だったけれど……すごく、ものすごく、幸せだったから。親になれてよかった、って。そう思っているから」
「――っっっ、おかあ、さん……っ」
お母さんの優しさに来香がきゅっと唇を引き結んだ。
親になることが全てじゃない。結婚しても子供を作らない夫婦もいる。だけど、親になれることの幸せも確かに存在するはずだ。
「おおよそは妻の言った通りだ。熱くなってしまったことは謝る。君たちは満足しているのなら、その関係を否定するつもりはない」
「……はい」
「ただ私は、来香に来香だけを愛してくれる人と一緒になってほしい。その気持ちが間違いだと思うかな?」
「いえ。何も、間違ってないと思います」
本心から答えた。
何一つ、間違ってなどいない。俺が相手の立場なら、きっと同じことを考える。
「それでも、来香さんの手を離したくありません」
「……だったらせめて来香だけを選んではくれないかな」
「それもできません。誰の手も離したくないんです」
「子供のわがままだね。そんなもの、社会では通用しない。君の人生は君のものだし、君のご両親が納得しているのなら私が何か言う立場にはないだろうけれど……あえて言わせてほしい。普通になりなさい。今はよくても、大人になってから後悔するよ」
厳格な言葉がのしかかってくる。
今ではなく未来を選択するからこそ、大人になった後のことからも目を逸らすことができない。子供のまま語ることは、許されない。
「――ヤだ」
けれど来香は。
まるで子供のように言って、続けた。
「お父さんやお母さんの言ってること、多分すっごく正しい。あたしを大切に想ってくれてるからこそ反対されてるんだな、ってよく分かった」
「だったら――」
「だけど、二人の言う普通の幸せを今のあたしは楽しいって思えない。もっと楽しい関係があること、知っちゃったから」
ぎゅっと心臓の辺りを握りしめる来香。
彼女の声が、鼓動そのものみたいに聞こえた。
「大人になったら、って考えなきゃいけないのは分かるよ。でも――未来のために今大切に感じてるものを捨てたりしたくない。あたしの心臓は今この瞬間のために、どくんどくんって動いてるんだから」
「ッ……分かった。なら、交際は認めよう。来香が満足するまでは付き合い続ければいい。だが来香にも大人になるときは来る。そのときは別れなさい」
苦虫を噛み潰したような顔で言う、来香のお父さん。
厳格でありながらも娘に甘いこの人の、最大限の譲歩なのだろう。
しかし、
「分かってないなぁ。お父さんもお母さんも、全っ然分かってない! そもそも、仮に友斗くんと別れたところで他の誰かと幸せにはなれないんだってば!」
「それはっ……分からないだろう?」
「分かるよ! だって、あたしの人生のほとんど全部で友斗くんに恋してきたんだもん。他の誰かを好きになれるわけないじゃん!」
「「――は?」」
来香の両親の声が重なる。
訳が分からなそうにする二人に、来香は堂々と言ってのけた。
「ほらやっぱり分かってない! あたしが友斗くんへの初恋をどれだけ拗らせてるか分かってる!? 幼稚園の頃からだよ! 死んじゃうかもって不安なときも、病室のベッドで寂しいときも、ずーっと友斗くんを想ってた」
「「…………」」
「それだけじゃないよ。この前、言ったよね? あたしは二重人格だった、って。心臓をくれた子がいた、って。友斗くんの妹だったんだよ、その子は」
目を見開く二人。
誇るように、愛おしむように。来香は高らかに謳う。
「友斗くんは――兄さんは! あたしたちが好きになれる、世界で唯一の男の子。もう兄さん以外を好きになれない。だからもし兄さんと別れさせても、あたしは絶対幸せになれないよ。失恋拗らせて人生を棒に振る、サイテーの織姫が出来上がるだけ」
「なっ……!?」
「ねぇ二人とも、どっちがいい?」
何とも来香らしい言い方だ、と思った。
開き直った、小賢しい二者択一。オール・オア・ナッシングを強いる、無茶苦茶な論法だ。ほとんど詐術みたいなものだと言っていい。
だけど、来香は真実を伝え続けた。
美緒の心さえ曝け出して。
だからだろう。二人の顔にも逡巡の色が見え始めている。
「少し僕の……俺の話をしてもいいですか?」
おずおずと切り出せば、二人分の首肯が返ってきた。
冬夜さんが興味深そうに口の端を吊り上げるのが見える。
「俺は妹と母を事故で亡くしました。今は父が再婚しましたけど……それまではずっと父と俺と二人っきり。父は仕事人間だったので、家族ってものに触れられずにいた時間はそれなりにあると思います」
「そうか」
「妹と母の死を乗り越えられたのも、実はつい最近です。だから、どちらかと言えば家族愛みたいなものを知らない側の人間かもしれません」
認めるべきだろう。
俺は普通ではない。欠けている部分がある。
その欠損を簡単に満たすことはできないのだと思う。
「でもこの前、義理の母と親子になれた、って感じたんです」
満たされはせずとも、触れることはできたから。
だから――。
「家族ってきっと、血の繋がりで決まるものじゃないと思うんです。血が繋がってなくても家族になれるし、ちゃんと愛していける。お二人が来香の中にいる美緒のことも愛していたように」
「「…………」」
「俺たち五人で、愛を育てさせてください。いつか産まれる子供のことも、俺たち五人で愛させてください。必ず五人で幸せになります」
血が繋がっていなくても親になれるんだ、って。
こんな俺でも、それだけは知っている。
「あーもう。分かったよ、分かった。君たちの関係を認める。認めないと来香に一生恨まれそうだしなぁ。それはごめんだ」
「そう、ね。……あなたの言っていること、信じてもいいって思った」
でも、と来香のお母さんが優しく来香に笑いかけた。
「もし愛され足りなかったら、いつでも私たちのところに戻ってきてね。私たちがめいっぱい愛してあげるから」
「お母さん……」
ぽつりと呟く来香。
彼女は首を横に振ると、あどけない表情で言った。
「愛され足りなくても、いつでもお母さんたちところに戻るよっ。二人はあたしのお母さんとお父さんだもん♪」
その言葉は来香だけじゃなく、美緒の部分からも滲んだもののように聞こえて。
寂しさと、それ以上の嬉しさが、いっぺんにこみ上げてくる。
「百瀬友斗くん。……娘をよろしくお願いします」
「――はい」
人と人は繋がっていく。
閉じた幸福を不幸せだとは思わないけれど、祝福してもらえる幸せの方が奇麗な形をしているように思えた。
来香は妹だけど、妹じゃなくて。
だからこそ繋がれたかもしれなくて。
『その『もしも』次第で答えが変わるなら、これから『もしも』が積み重なるかもしれないよね。六人、七人、八人……って。キミの答えが変わらない保証なんてどこにもない』
時雨さんの言葉を思い出し、でもさ、と胸の内で呟く。
その『もしも』がくれた素敵なものを、偽物とは呼びたくないんだ。
かけがえのない今を肯定したい。
そのために俺は――。
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