終章#51 再会と後悔(後編)

「父さんも、それから義母さんも。今日話したいことはそれだけじゃないんです」


 暫く経って、ようやく俺は口を開くことができた。

 義母さんが目を見開く。父さんは涙をごしごしと拭き、ああ、と大きく頷いた。

 一度深呼吸をし、俺は言う。


「俺たちは五人で付き合ってます」

「……それは友斗くんが浮気してる、ということ?」

「言葉の上ではそうなります。ただあくまで五人で交際しているつもりです」

「……ハーレム。そう言いたいのね?」


 こく、と俺は頷いて見せた。

 義母さんの反応は芳しいものとは言えない。雫を看病するために修学旅行を休んだときのような、険しい表情だった。

 それでも黙るわけにはいかないから、続ける。


「俺たちは五人で幸せになるつもりです。四人もそのことに同意してくれてますが……もちろん、ただ一緒にいるだけってわけにはいかないのも分かってます」

「…………」

「五人で話し合って、将来的に俺が来香と、澪が大河と結婚して、五人で家族になろうって決めました。戸籍の上では澪や雫とは義理の兄妹のままですが、俺は四人を等しく妻だと思うつもりです。だから――今日は結婚の挨拶に来ました」


 ここまではっきりと告げるのは、初めてだと思う。

 正直どう反応されるのかは分からない。

 一瞬の静寂。その後、二人が口を開く。


「孝文は……きっと賛成、でしょう?」

「あ、ああ。反対なんかできないし――するも気もない。友斗たちが選んだ関係ならそれが正解だと思う」

「そう……孝文らしい」


 義母さんは父さんとそう話すと、再び俺を見つめた。

 何かを堪えるように唇を噛んでから、


「友斗くん、私は反対よ」


 とはっきり言った。

 俺たちが望む関係が、馬鹿げた夢物語だってことは分かる。反対されたことは初めてじゃない。入江先輩も反対だったらしいし、時雨さんにも否定された。


 だが、それでも俺は顔をしかめずにはいられなかった。

 頭ごなしに否定しているわけではなく、優しくて温かい声だったからこそ、尚更に。


「反対の理由、聞いてもいいですか?」

「そうね……少し二人で話しましょうか」


 義母さんの言葉を受けて、四人が俺を見遣る。

 心配そうなその表情に、にっ、と笑って見せる。


「いいですね。義母さんとは一度話すべきだと思ってたんです。一度外に出ます?」

「それがいいわ。ごめんなさいね。五人とも先に食べていてくれていいわよ」


 義母さんは席を立ち、そのまま店の外に向かって歩き出す。

 その後ろ姿は何故だか無性に哀しく見えて。

 どうしようもなく胸が痛かった。



 ◇



 冬の夜空は、都会でも星屑に満ちていた。

 金平糖みたいに綺麗な星の輝き一つ一つを拾い集めて口に放れたらな、なんて子供じみたことを考えてみる。

 義母さんは店の外の階段を下りることなく、踊り場から街を見ていた。


 目の前には中原街道が通っている。

 ぐぉぉぉぉぉんとトラックの駆動音が鳴ったかと思えば、ぶぉぉおんとバイクが走る。ちゃりんちゃりんと自転車が軽やかに進んだり、学校帰りの高校生の話し声が聞こえたりした。


「こんな風に二人っきりで話すのって、いつぶりかしらね」

「ゴールデンウィークのときの旅行以来じゃないですか? 夏も年末年始も、二人で話す機会はありませんでしたし」

「確かに。……普通の家なら、そういう特別な日以外にも幾らでも話すタイミングはあるんでしょうけど。うちはそうじゃなくてごめんね」

「それ、前も似たようなことで謝ってましたよ」

「あらそうだったかしら?」


 些細なやり取りだったし、覚えていなくても当然だ。

 俺がよく覚えているのは――ただ、あれが久々の家族旅行で、心の底から嬉しかったからなのだと思う。


「あのときも、普段何もできていなくて謝りたい、って言ってました」

「そう。……まあ、今もそのときも同じように思っているんだし、しょうがないわね」

「だったら、あのときと同じように言いますよ。俺もあの二人も慣れてますし、不自由なく生活させてもらってるだけでありがたいです」


 それは紛れもない事実だ。

 あのときも今も、嘘を吐いてなんかいない。


「……あのね。私も、友斗くんたちが一生懸命に考えて出した答えだってことは何となく分かってるつもり。孝文の気持ちも理解はできてるの」


 もしかしたら、と。

 義母さんは物憂げな横顔で夕空を見上げながら、弱々しく呟いた。


「来香ちゃん、だったかしら。あの子が美緒ちゃんを名乗らなければ、認めていたかもしれないわね」

「それって――」

「ああ、勘違いしないで。美緒ちゃんだからダメとか、そういう話じゃない。ただ思い知らされたのよ。孝文の涙を見て、どうしようもなく思い知らされた」


 その声はまるで懺悔のような響きを孕んでいた。


「分かっていたことだけど…ずっと分かっていたことだけれど……孝文はまだ、由夢さんを――由夢を愛してる」

「…………」

「そこに美緒ちゃんがいるなら。じゃあ、由夢も、って。孝文がそう願ってるんじゃないかと思うと、私は怖いのよ」


 きりきりと、悲痛な音が軋む。

 ああ、と喉の奥から声が漏れた。そうだ……そう、だよな。来香を父さんに会わせるってことは、つまりそういうことにもなる。

 俺がそうだったように、父さんもこの夏、母さんの死を乗り越えはした。

 だから父さんの心の問題じゃなくて、


「好きな人が他の誰かを想っている瞬間の苦しさを、あなたたちは分かってない。他の誰かを想っている誰かが自分を想ってくれるときの罪悪感を、あなたたちは知らなすぎる」


 義母さんの心の、問題だ。

 そしてその問題は、義母さんの中で澪たちと重なるのだろう。

 自分以外の誰かを想う男に恋してしまった女として。


「今はまだ、恋の延長線上だからいいのかもしれないわ。切なさも苦しさも、恋のスパイスのように感じられているんでしょう?」

「……っ」

「だけどね、いつかそれも終わる。競争心がただの愛憎に変わるときが来るのよ」


 おそらくそれは、義母さんの後悔から産まれ落ちた言葉。

 母さんと義母さんの真実だった。


「本当は友斗くんも、分かってるでしょう? 私は……本当は赦されちゃいけないの。幼い頃の初恋を延々と拗らせて、もう由夢と結ばれている孝文を襲った」

「…………」

「あの夜のことは今でも忘れない。酔って孝文が私への想いを吐き出してくれたとき、堪らなく嬉しかったわ。夢見心地だった。けど同じくらい……虚しかった。それでも孝文は由夢を選んだんだ、って気付いてしまったから」

「……っ」

「だけど、本当に苦しかったのは私じゃない。私が苦しんでいいはずがない。だって一番苦しかったのは……由夢のはずだから」


 ――違った。

 この人は自分と澪たちを重ねているわけじゃない。

 澪たちに重ねているのは、母さんの方なんだ。


「由夢は最後まで私を赦してはくれなかった。生まれた娘に、澪と同じ名前を付けて……自分の子供を呪ってまで、由夢は私の罪を刻み付けた。いなくなった今も、由夢は私を赦してはくれない。ずっとずっと――恨んでる」


 この人は気付いていたのだ。

 母さんが美緒と名付けた、その理由を。

 俺が推測した、妄執じみた恋心を。


「大切な誰かを呪ってしまうことは、赦されないことよりもずっと苦しくて辛いことよ。だから、たとえ今は同意していても、望んでいるとしても……いつか由夢みたいに苦しむかもしれない関係を認めるわけにはいかない」


 涙が伝うみたいに流れ星が煌めいた。

 夜に近い空に浮かぶ月は欠けていて、足りない何かを探しているように見える。勝手にそう見ているだけなのだけれど。


 彼女の言葉は優しく、哀しく、そして痛ましい。

 知らなかった。そんな罪悪感を抱えていた、なんて。

 隠していたのだろうか。それとも、来香の存在がしまいこんでいた心を引き出してしまったのだろうか。


 澪たちはそれぞれに複雑な気持ちを向け合っているし、俺の四股って言葉で括れるような単純な関係じゃない。

 だけど、彼女の抱く心配を払拭することはできない。

 俺は結局のところ、想われる側だから。


「――違うよ、ママ。それは違う」


 哀しい静寂を塗り替える花火のように、彼女は咲き誇っていた。

 俺たち二人の間に割って入る一人の少女。

 綾辻澪が現れた。


「澪……どうして――」

「なんとなく、ママが何を考えてるのか分かったの。その誤解を正せるのはきっと私だけだから、お腹空いてるの我慢してついてきた」

「……誤解って、どういうこと?」


 問われて、澪は一瞬目を瞑った。

 まるで黙祷みたいに、と思う。死者の心を語ることへの敬意を示しているかのように。

 ふっ、と。

 彼岸花が咲いた。


「確かに、あなたのことは好きじゃなかった。好きな人の初恋の相手だよ? 好きになれるわけがない」

「っ、澪……?」

「違うよ、ママ。今だけは――由夢」


 夢が揺蕩う。

 此方と彼方の境界が曖昧になり、彼女の存在もまた、混ざりゆく。

 澪は母さんのことを知らない。俺でも知らないのだ。だから澪がいま演じているのは、澪が創り上げた存在に過ぎない。

 それでも、澪は。

 誰かのために百瀬由夢を演じていた。

 美緒を演じることで俺を救ってくれたときみたいに。


「ゆ、め……ごめんなさい。私…私は…っ」

「謝らないでほしいなぁ。謝られることはない。私がいるはずだった孝文の隣にあなたがいることは少し癪だけど……あなた以外がいるよりはマシ。あなたのことは好きじゃないけど、認めてはいたから」

「――っ、そんなはず…ない……! 恨んでるはずでしょッ?」


 ふるふると由夢みおが首を横に振る。


「恨んでなんか、ない。私のことを甘く見ないで。あなたは私にとって、今も昔も、恋のライバルだよ。そんな相手を恨んだら――孝文に恋する資格ごと失くしちゃう」

「じゃあ……だったらどうしてっ、あの子に澪と同じ名前を付けたのッ? 美緒ちゃんを呪うようなことを……なんで……ッ」

「呪う? そんなことするわけないよ。孝文と産んだ大切な子供を通して恨みを晴らそうだなんて、陰湿すぎるでしょ? あの子の名前に込めたのは呪いじゃなくて、愛」


 寿ぐように由夢みおは続ける。


「澪ちゃんと同じ音にしたのは、確かに少し意地悪に思えたかもしれないね。でも……孝文に呼ばせてあげたかった。澪ちゃんの名前をね」

「――っ」

「孝文は澪ちゃんのことを知らない。もしあなたとのことに気付くときが来ても、優しい孝文はきっと気付かないふりをする。気付いたら誰も幸せにならないから」

「…っぐ」

「だけど、澪ちゃんも孝文の子だもん。呼ばせてあげたい。だから音は澪ちゃんと同じに名前にした。もちろん、美緒のことを軽んじたわけじゃない。だから美緒の名前は、私の大切な人から貰った」

「……大切な、人?」

「まだ気付かない? 琴。あなたから一字貰った付けた名前なんだよ」

「――っっっ」

「私の愛おしいライバルの――初恋に殉じて精一杯恋をした、好きにはなれないけど心の底から認められる人の名前から一字貰ったんだよ。美緒が私やあなたのように、全力で恋できますように、って祈って」


 ああ、それは――。

 それは救いのある解釈かんけいだ。

 正しいかは分からない。死者の想いは結局のところ推測でしか語れないから。

 だけど、俺が触れた想いよりもずっと綺麗で祈りに満ちている。

 あの優しい美緒の母親らしい答えだと思えた。


「ねぇ美琴。もしあなたともっと早く、それこそ高校生の頃に出会えていたら……生涯の大親友になれたかもしれないね」

「っ、由夢……」

「それか、不倶戴天の敵? どっちにせよ、もっと仲良くなれたと思う。答えが出る、その前に出会えてさえいたら――同じ人を好きになった親友として、喧嘩したり笑い合ったりできたと思うんだ」


 流れ星が、もう一筋。

 その光に願うように、


「少なくとも私は、そんな私たちかんけいになりたかったよ」


 と遺した。


「っ、ぐ……ゆ、め……私も。私も、由夢と友達になりたかった。由夢から奪い取るようなやり方じゃなくて、正々堂々、孝文を取り合いたかった」

「うん」

「ずるいやり方をして、ごめんなさい。そんな卑怯さすら認めてくれて、ありがとう」

「うん」

「終わらせないから。これからも、孝文の中の由夢と戦う。私だけを見てもらえるように、って」

「……うん」

「それから、次は……負けない。また会えたらそのときは、最初から最後までずっと、孝文を渡さないから」

「うん、望むところだよ」


 俺にも澪にも、二人がどんな関係だったかは分からない。親しかったのか、ほとんど話したこともなかったのか、それとも……。

 だけど俺たちは二人の物語のメインキャラクターではないから。

 その全てを知ることもできないのだろう。


 ぐずぐずと嗚咽を漏らしていた義母さんは、こほん、と咳払いをした。

 ハンカチを取り出して涙を拭い、ふぅ、と深呼吸をする。


「……恥ずかしいところを見せたわね。でもありがとう、澪」

「ううん。私は誰かさんの創った役を演じただけ。ちょっと私なりの解釈は加えたけど」

「えっ」


 澪がこちらを見て言った。

 もしかして……大河から聞いたのだろうか。俺が組み上げた母さんの話を。


「ま、そうじゃなくてもさ。私も美緒も、この名前が呪いだなんて思わないよ。顔も名前も似てたからこそ、私は友斗と出会えたんだし」

「……そうだな。俺が言っていいのか分からなくて黙ってましたけど、澪と同じ気持ちです。俺の母親が、自分たちの恋を大切にしてくれる人でよかった。そのおかげで最高に幸せな関係を手に入れられたんですから」


 義母さんは何か眩しいものを見るかのように目を細めて、そう、と呟いた。


「そこまで言うなら、認めてあげるわ。私と由夢がなれなかった関係にあなたたちが辿り着けるのかは分からないけど……信じて見守ることも、親の仕事だものね」


 清々しい笑みを見た瞬間、俺は本当の意味で彼女と親子になれたような気がした。

 義母さんは俺たち二人の頭を優しく撫でると、さあ、と吹っ切れた表情で言う。


「戻りましょうか。澪も、お腹空いてるんでしょう?」

「うん。演技したから更にお腹ペコペコ」

「ほんと、ブラックホールみたいな体だな……」



 ◇


 SIDE:雫


「聞いてもいいかな」


 お母さんと友斗先輩がお店の外に出て、お姉ちゃんが二人を追いかけて行った後。

 残った四人でお寿司を食べていると、お義父さんがそう切り出した。来香先輩に話しかけているのかと思ったけど、お義父さんが見ているのは私の方だ。うんと頷き返すと、お義父さんは言った。


「男の俺はどっちかと言うと友斗と同じ立場でさ。美琴にも苦労をかけてるからこそ思うことなんだけど……不安だったり辛かったりはしない?」

「えっと……?」

「友斗は雫ちゃんのことも好きだし、二人のことも、澪ちゃんのことも好きなんだよね? そういうのは女の子として……辛いとは思わない?」


 おそらくそれは、父親として娘を心配する言葉だった。

 だけど不器用で、おっかなびっくりしてて、なんだか友斗先輩に似てるなって思う。

 お父さんとは違う優しさだった。

 あの人は優しかったし心配してくれていたけど、それは別の何かの裏返しだったから。


「辛いなんてちっとも思わないです。そもそも、こーゆう関係がいいって言い出したの、実は私なんですよ」

「そう、なのか」

「ですです。そのときはまだ来香先輩と仲良くはなかったんですけど。お姉ちゃんのことも大河ちゃんのことも好きで……皆で同じ人を好きになれるって、奇跡みたいじゃないですか。だから皆で友斗先輩を取り合ったりシェアし合ったりしたいなーって」


 そうか、とお義父さんは複雑そうに呟いて俯く。

 何か考え込んでいることは分かるけど、その先は分かんない。それでいいと思った。


「ともかく、私はすっごく幸せです。皆でこれからもずっと仲良くラブコメしていく所存ですっ♪」


 私たちには私たちの、お義父さんたちにはお義父さんたちの物語がある。

 その二つは交わらないけど、交わらないなりに繋がってるはずだから。


「だから、お義父さんもお母さんとずーっと仲良くしてくださいねっ? 二人が別れちゃったら、私たちは家族になれないんですから」

「――そうだね。任せてくれ、美琴のことは絶対に離さないよ」


 流石お母さん、いい人選ぶじゃん。私たち、男の人の趣味が同じなのかもね。

 やっぱり親子は似るんだろうな、って。

 そんな素敵なことを思った。

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