終章#35 たった一つの冴えたやり方
SIDE:澪
どこまでも征けることを願った夜があった。
果てしなく飛べることを信じた夜があった。
轟々と燃える決意の火種に触れた、あの日。私は全てに手が届くかのような全能感に酔い痴れていた。
――わがままな
そんな私なら離れていってしまう誰かさえ捕まえて、私たちを守り続けられる。何の疑いもなく、そう信じていた。
入江先輩を無理やりにでも倒した私は、自分の殻を破ることができたのだと思う。
あの日以来、綾辻澪という存在の行き届く範囲が広がったように錯覚している。
だけど、或いは、だからこそ。
見据えてしまった。私たちが
来香のことは嫌いじゃない。
美緒と以前の来香が混ざったって聞いたときは、なんだそれ、って思ったこともあったけれど――相対して、何となく理解した。
混ざるとか混ざらないとか、多分そんなことは些細な問題で。
『澪にも負けない、最強無敵の女でしょ?』
『ふぅん。――ま、熱くはなれるかもね』
彼女はずっと“女”を隠していたのだと思う。
私にも友斗にも、もしかしたら彼女自身にさえも。
それは彼女たちが共有している部分でもあって、二人が重なったとき、ようやく“女”がお目見えした。まるで大切に育てられてきたお姫様みたいに。
朝と昼、毎日ように来香と稽古をしていれば否が応でも分かる。
彼女はいい女だ。……私でさえ、惚れ惚れするほどに。
だから来香のことは嫌いじゃない。むしろ好感さえ抱いている。もちろん雫への姉妹愛やトラ子への恋愛感情とはまったく別物だ。
きっとこれが好敵手に向ける類の感情なんだろう。
この感情を持ったまま一緒に生きていけたら、とは思う。
それは理想的な在り方だろう。友斗が望むのも分かるし、私だってその未来に焦がれた瞬間があった。
だけど、トラ子の弱音を聞いたあの日から――心のどこかで気付いてしまっている。
どれだけ理想を謳おうと、一緒に生きるためには繋がりが必要なんだ、って。
『来香じゃなくたっていい。明日、私たちの誰かが生死を彷徨うことだってある。そんなの友斗が一番分かってるはずでしょ。そのとき、選ばないせいで何もできなくていいわけ?』
心の繋がりだけで十分なら、友斗と美緒は離れ離れになってない。
現実はいつも理不尽で。
その理不尽さに友斗が傷つけられなくて済むように、今ここで大人になっておかなきゃいけないんだと思う。
『理想だけじゃ生きていけないんだよ。だから、友斗が理想と心中するつもりなら、私はそれを許さない』
本当は理想に手を伸ばしてほしかった。
ようやく友斗も見つけたんだな、って。雪の降るテラスで悟ったときは、嬉しくて抱きしめそうになったくらいだ。
でも、現実を
友斗に立ちはだかる現実に
誰にも分かるもんか。
来香に拒絶されてる友斗を力いっぱい抱いてあげたかったことも。
寒空の下で凍えるあいつに寄り添って、温めたかったことだって。
だから、
『冗談だって! もうちょっと話していこうぜ。それくらいサボっても大河は怒らないだろうからさ』
友斗に引き留められたとき、期待しそうになる自分がいた
何故かいつもの調子を取り戻した友斗は、私を
『何を企んでるの?』
友斗が何かをやっているのは知っていた。それが何なのかは分からない。けど、仕事に逃げて何も考えないようにしているときとは明らかに違ったし、今の顔つきを見れば明らかに『企んでる』って言葉が適切だと思える。
『……まだ諦めてないの?』
『さて、何のことやら』
諦めない、って目が言ってた。言葉なんか交わさなくても、視線を合わせれば分かっちゃうんだ。
心がふあふあと浮足立つ。そんな自分を律するように私は言った。
『だから、選んで。選ばれない覚悟はできてるつもり』
『任せとけ。ちゃんと選ぶ』
――そして今。
トラ子に頼まれて手伝っていたバレンタインイベントも終わった。
あっという間に、呆気なく、終わった。
「入江会長! 今日はありがとね。すっごく助かったよ。うち、お菓子作りとかNGな家でさ~。でもどーしても手作りを渡したかったんだぁ」
「そう言って頂けると嬉しいです」
チョコペンでクッキーを飾り終えた参加者がトラ子の周りに集まり、本当に嬉しそうにお礼を言っていた。
普段から真面目な方ではあるけど、生徒会長としての顔を見るのは少し新鮮に感じる。大人っぽい……ってのはちょっと不服だけど、大人びて見えるのは事実だろう。白雪ちゃんから聞いたことだけど、生徒会室で仕事をしているときは眼鏡もかけているらしい。いっそう大人に見えるんだろう。
「トラ子、お疲れ」
「澪先輩、お疲れ様です。すみません、片付けをお任せしてしまって」
「別にいい。絵を描くアドバイスはどうせできないしね」
「あぁ……絵、お下手ですもんね」
「下手に『お』を付けると一気にムカつくな……バカにしてる?」
「バカにはしてないです。だいたい、『お』を付けなくても怒るじゃないですか」
「当然じゃん。私、絵が下手なわけじゃないし。印象派なだけだし」
「それこそ絵が下手な人の常套句では」
「うぐっ……」
「大河ちゃん! お姉ちゃんをいじめないの! 絵が下手なのと色々小さいのは割と本気で気にしてるんだから」
「雫の言葉が一番刺さってるからねっ!? 下手じゃないし、小さくもないから!」
「「それは無理があるんじゃ」」
「二人とも……覚えときなよ」
ぐぬぬと唸れば、雫とトラ子がぷっと可笑しそうに吹き出す。
私がいじられキャラみたいになるのは業腹なんだけどなぁ……と思いつつ、もしも、といらない想像をしそうになる。
もしもここに来香がいたら、どうなってただろう?
私とトラ子のお決まりの言い争いに割り込んできて、話が明後日の方向に飛んでいってたかもしれない。雫まで張り合い始めて、ツッコミ役が不在になったり? 後から来た友斗が大変じゃん。
――って。
こんな妄想、どうしようもないのに。
私は現実を演じると決めたし、そもそも、来香がその未来を望んでないんだから。
調理室に友斗と来香が入ってくるのが見えた。もう片付けが終わったらしい。こっちはまだ人が残っているので、手伝いに来てくれたのかもしれない。
益体のないことを考えていたせいか、二人の姿を見た途端に口が重くなる。
はぁ、と溜息が沈むのを自覚していると、
「あっ、ちょうどここに三人いるじゃん」
「月瀬ちゃんもいるし! ねぇ、四人に聞きたいことがあるんだけど!」
と同学年の女子に声を掛けられた。
「え、えっと……あたしにも?」
「うん、そう! 来て来て!」
来香が手を引かれ、私たちが集まっていたところに連れてこられた。
友斗が流した噂のせいか、自然と調理室に残っている人たちの視線が私たちに集まる。
ふと視界の入り込んだ友斗は、何故か笑っていた。……なんで?
心の中に浮かぶはてなマークをよそに、私たちを取り囲む女子が聞いてくる。
「友達からこれが回ってきたんだけど、これってマジな話?」
「えっと……」
どうやら、それは新聞部が発刊している校内新聞の写真のようだった。
号外と書かれたその新聞には、
【第四の三大祭! 感謝祭・開催決定!】
【これが本当の『後の祭り』だ!】
とデカデカと書かれていた。
……なにこのくそダサい打ち出し方。何か知っているだろうかとトラ子の顔を見遣ると、ついさっき見た覚えのある表情をしていた。
――誰かさんと同じ、不敵な笑み。
「はい、もちろんです。私から新聞部の方に告知していただけるよう、お願いしたんです。公約に打ち出していたことでもありましたから」
「じゃあじゃあ! こっちの話もマジなんだ!?」
テンション高めに言った彼女は、画面を拡大してある一点を見せてくる。
トラ子以外の三人が覗き込むとそこには、
【スリーサンタガールズvs月瀬来香】
【対バンライブ開催決定!】
と記されていた。
その後には冬星祭の写真が添付され、当時の私たちや来香のステージのことがつらつらと綴られている。
「なにこれ!?」「……へぇ?」
雫が驚いたような声を、来香が険のある声をほとんど同時に漏らす。
意味が分からない、というのが正直なところだった。
対バンライブ、つまりは対決バンド。
一般的な対バンライブにどれだけ対決のニュアンスが含まれているかは分からないけれど、新聞記事は間違いなく対決を煽る形で書かれていた。
「大河ちゃん? これ……知ってる?」
「あたし、色々と聞いてないんだけど~? 感謝祭だってこのタイミングで告知するなんて知らなかったし」
「……トラ子」
「この件については知りません。私が知っているのは感謝祭のことだけです」
――嘘だ、とすぐに分かった。
トラ子は何かを知っている。そのはずなのに、あえて知らないふりをしていた。
「でも、こうして出てしまった以上……私としては、三人に出ていただきたいと思います。感謝祭は私が公約の目玉として打ち出したイベントなので、なるべく盛り上げたいんです」
その物言いは、トラ子らしくなかった。
出てしまった以上はやるしかない? そんなはずがない。いつものトラ子なら新聞部に訂正文を出させるなり、生徒会として声明を出すなり、幾らでも対応を取れるはずだ。
そうしないのは、なし崩し的に私たちに「やる」と言わせるためだろう。
「「なるほどね」」
と二人の声が重なる。
私と、それから来香。
少し遅れて、雫もこの件の主犯に気付いたようだった。
こんな絡め手をトラ子一人で思いつくはずがないし、仮に思いついても実行に移すとは考えにくい。それに
「はぁ。こーゆう小賢しいやり方を考えつくのとか、一人だけじゃん」
「ここまで意味わかんないことをするのなんて……一人だけですよね」
「トラ子じゃないことは分かってるから。とっとと白状したら?」
来香と雫の言葉に追従して詰め寄れば、トラ子は嬉しそうに破顔した。
さっきまで抱いたはずの『大人っぽい』という印象は呆気なく散り、代わりに瑞々しい無邪気さが弾け出す。
くすくすと笑いながら、トラ子はからかうように言った。
「だそうですよ、ユウ先輩」
「予想通りの反応だな。どうだ、最高に卑怯で頭が悪いだろ? これが俺の――百瀬友斗のやり方だ」
私たちが向けた視線の先で友斗は、まるで子供みたいに最高の顔で笑っている。
ああ、それでこそ。
私のお兄ちゃんだ、と幼気な期待が胸に染み出そうになり、唇を噛んで堪えた。
「――話をしよう。俺たち五人の話を、な」
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