終章#34 バレンタインイベント(2)

 バレンタインイベントは順調に進行している。

 メッセージカードを書かせるだけなのだから簡単だろうと高をくくっていたが、意外にこちらの仕事は多い。やれ何色のペンが欲しいだの、やれ間違えたから新しい紙が欲しいだの、あれこれと注文が来るからだ。


 まぁ、それを迷惑だと断じる気にはならない。

 誰もがそれだけ真剣に想いを綴っているんだ。メッセージカードに向かう参加者たちの顔を見たら、こっちも応援したくなる。


 早々にメッセージカードを書き終えたのは、来香に唆されて参加者側に回っていた花崎だった。

 ……今更だけど、大志と花崎って両想いなのね。

 と思いつつ、我に返った花崎がスタッフ側に戻ってきてくれたので、俺は休憩を取らせてもらうことになった。


 廊下に出ると、ほあほあとした甘い匂いが鼻孔を掠めた。

 よく家で嗅ぐ香りのはずだけれど、作っている参加者たちの気持ちが想像できるからか、ほかほかと温かな気持ちになる。

 まぁ雫や澪、大河が料理しているのを見ているときも温かな幸せを感じてはいるのだが。


 そんなことを考えていると、


「あっ……友斗先輩」


 廊下で一息ついている雫と鉢合わせる。

 俺を見つけた雫の声はどうにも曖昧で、距離感を測りかねているんだろうな、と分かる。これまでならその不確かな距離に甘んじて、雫に近づくことを諦めていた。

 だけど今日は、そうはいかない。


「よう、雫。そっちも休憩か?」

「えっ……ま、まぁそんな感じです。とりあえず作業はひと段落したので」

「なるほどな」


 言うと、雫は両手で持っていた缶コーヒーをくいっと呷った。

 側面には無糖の二文字が記されている。


「雫がブラックとか珍しいな」

「むぅ……子供扱いしないでくださいっ」

「そういうことはMAXコーヒー並みに甘くするのをやめてから言うんだな」

「別にいつもそうしてるわけじゃないですもん。たま~にです、たまに!」

「かもな」


 まぁ別に、雫も甘いコーヒーばっかり飲んでるわけではない。

 ただそれでも、ブラックコーヒーを飲んでいるところはあまり見ない気がする。雫はどこか遠くに目を遣りながら、ぼそりと呟いた。


「……甘い空気ばっかりだと、それはそれで辛いですからねー」


 その呟きにどんな気持ちが乗っているのかは、多分簡単には読み解けないことで。

 雫自身も分かっていないんじゃないかと思う。

 今この場で言葉一つを解剖してみせるのは、些か無粋すぎるだろう。だから俺は、いつもの調子で軽口を叩くことにした。


「ふわふわな甘い空気の権化って感じの小悪魔がよく言うよな」

「それ、すっごく馬鹿にしてますよね?」

「まさか。甘い空気尽くしってのも嫌いじゃない、って言ってるつもりだぞ。俺は甘党だからな」

「……別に友斗先輩の話はしてないです」


 ぼそぼそっと困ったように雫が言った。

 視線は一度、コーヒーの缶へと落ちる。指先でプルタブを弄ぶと、はぁ、と一つ溜息。そして思い切るように上目遣いでこちらを見つめてきた。


「私、分かんなくなっちゃってます。何が欲しいのか、とか。本当に『ハーレムエンド』が欲しかったのかな、とか」

「うん」

「友斗先輩が欲しがってるものを、心の底から欲しい、って思えなくて。でも、私は友斗先輩にも妥協してほしくないんです。だから、どうすればいいか分からなくて……」


 カプチーノみたいな瞳が揺れる。

 その奥にある葛藤を、ほんの少しでもいいから掬い取ってあげられたら、と思った。抱きしめたい衝動に駆られながらも、ぐっと堪える。今はまだ、そのときじゃないから。


「大丈夫だよ」


 口にした声は思いのほか柔らかくて、自分でも驚いた。

 その柔らかさが愛おしさの証左ならば、納得はできるけれども。


「一回負けたくらいでヒーローは諦めたりしないんだ。知ってるだろ?」

「…っ、でも――」

「雫は雫のまま、自分の心に正直でいてくれたらいいよ。一番幸せだって思うものを選び続けてくれ」


 こんな言葉がどれだけ意味があるかは分からないけど、それでも。

 今はこれだけ伝えておけばいい。

 何も言わずに俯いてしまう雫。どうしたものかと考え、俺は雫の缶コーヒーをひょいっとぶんどり、口をつけた。


「あっ」

「苦ぇ。つーか、まだほとんど残ってるじゃんか。全部飲み切るまで休んでたら相当サボることになるだろ」

「そ、それは……」

「ま、苦いのが欲しいときもあるだろうし、いいけどさ」


 雫に缶を返しながら、ニッと笑って続ける。


「苦いのばっかり続いてもそれはそれで辛いだろ? シリアス展開ばっかのラブコメとか、『コメディをよこせ!』ってなるしな」

「それは…っ、そーですけど!」

「だからまぁ、あれだ。間接キス的な。それで甘くなるかは知らんけど」

「へ?」


 自分で言ってて、めちゃくちゃキモいな、と自嘲しそうになる。

 ――いいやダメだ。

 かっこつけるときは、かっこつけろ。キザすぎるくらいがちょうどいいんだから。

 ちょっぴり間抜けな雫の声に笑い返し、俺は被服室へと戻っていく。


「いや、普通にそれは痛いですからねっ!? 私たちみたいなチョロインじゃなかったらマイナスなんですからねっ!」


 背中に受けるツッコミに、うっせぇ、と心の中で反撃した。

 そんなこと、分かってるっつーの。

 面倒で最高なチョロインたちが相手だから、俺も在りたい自分でいられるんだ。



 ◇



 被服室に戻ってから十分ほど経つと、メッセージカードを書き終える参加者もちらほら現れ出した。そろそろ料理班と交代の時間だ。一度調理室の様子を見に行こうと思っていると、扉の辺りに小柄な人影が見えた。


 零れかけた笑みを堪え、来香に断りを入れてからそちらへ向かう。


「澪、どうかしたのか?」

「……別に。そっちはどんな感じかと思って、様子を見に来ただけ」

「だったら声を掛ければいいのに」

「誰かさんとは気まずいし、誰かさんは喧嘩売ってきて面倒だし。外から様子を見た方が手っ取り早いって思ったの。悪い?」

「真っ直ぐ『気まずい』って言われて、悪くないって答える奴はいないだろ……」


 堂々と返され、思わず苦笑する。

 でもそれが今の俺たちの距離感なんだろう。


「要するに様子を見に来たわけか。ちょうどよかった。俺もそっちに行こうとしてたんだよ」

「あっそ。じゃあもう終わるってこと?」

「ま、そんな感じだな。あと少しで終わる」


 あっちもこっちも、予定通りに進んでいるらしい。そこはひとまず安心する。多少は遅れても問題ないが、トラブルが起こって俺たちの予定にまで支障をきたしてしまうのは困るからな。


「…………」

「どうした? 帰らないのか?」

「ッ、帰る」

「冗談だって! もうちょっと話していこうぜ。それくらいサボっても大河は怒らないだろうからさ」

「……トラ子はあれこれ言ってきそうだけど」


 調理室に帰りかけた澪の腕を掴んで引き留める。

 別にこの場で何か具体的な話をするつもりはない。そういうのは全員揃っているときだ。だけど、ただ単純に澪と話したかった。

 来香と話した。雫と話した。大河とだって話していた。だから澪とも話しておきたい。何せこの後、生まれて初めての大勝負に出るのだから。


「今日のバレンタインイベント、澪も手伝ってくれるとは思わなかった。『めんどくさい』とか言って断りそうだろ?」

「……ま、トラ子に頼まれたから。入江先輩も捕まんなかったし」

「捕まらない……あー。明日の準備してんのか」

「たぶん。ここだと霧崎先輩に会ってからかわれるのがオチだから、ちょっと遠出していいチョコを買いに行くんだって。それで稽古を放り出すとか弛んでる」

「朝も昼も付き合ってもらっておいて酷い言い草だな」


 もっとも、澪が本気で不満に思っているわけじゃないことは顔を見れば分かる。

 それにしても入江先輩って恋してるときだけはめちゃくちゃ乙女だよな……。今もデパートかどこかで頭を抱えているかと思うと、ちょっぴり和む。


「……ね」

「ん?」


 話がひと段落すると、澪が怜悧な目でこちらを見つめてきた。


「何を企んでるの?」

「え?」

「最近ずっと部屋にこもって何かやってるでしょ」

「……気付いてたのか」

「当たり前じゃん。よく見てるんだし」


 そっか、と少し嬉しくなる。俺を見放したわけじゃないんだな。……分かっていたことだけど、やっぱり嬉しい。

 ――その目に宿っているのは期待か疑義か。

 前者であればいいなと祈りながら、笑って返す。


「なんかやってるのは事実だけど、まだ秘密ってとこだな」

「……まだ諦めてないの?」

「さて、何のことやら」

「…………」


 澪が怪訝そうに顔をしかめる。

 一度目を瞑ると、あの夜と同じような力強い視線で俺を刺した。


「――何度挑んできても、無駄だから。たとえ来香を懐柔しても、私はその未来を絶対に認めない」

「……っ」

「だから、選んで。選ばれない覚悟はできてるつもり」


 運命を真っ二つにする刀の切っ先のような声だった。

 澪の強い覚悟が痛いほど伝わってくる。

 あの夜は、真っ直ぐに向き合うだけの覚悟を持ち合わせていなかった。

 じゃあ今は――?

 胸に問いかける言葉をかなぐり捨てて、ニッ、と不敵に笑う。


「任せとけ。ちゃんと選ぶ」

「…………そ」


 刹那の儚い表情がちらちらと散り、すぐに澪はいつもの顔に戻る。

 じゃあ帰るから、とだけ言い残すと、澪は調理室に戻っていった。

 その小さい背中は寂しそうにも見えて。


 本当は孤独も孤高も似合わない彼女のことを抱きしめられる日を早く手繰り寄せたいと思った。

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