終章#32 母親(3)

 ――最初に言っておく。

 これは俺の、勝手な想像だ。真実は闇、或いは藪の中。答え合わせは決して敵わず、ヒントだけは拾い集める方法があるかもしれない、という程度の話だ。


 澪と俺は血が繋がっているのか否か。

 そんな検査をすれば分かる曖昧さよりも遥かに答えの見えない、真っ暗闇みたいな問題だと言えるだろう。

 何せ『死人に口なし』だ。

 死者の想いを決めつけることなどあってはならない。


 でも正しいかもしれない、って。そんな風に思う気持ちもあるんだ。

 だからまずは聞いてくれ。

 恋する女の物語を。



 ◇



 あるところに一人の少女がいた。

 彼女は人一倍負けん気が強く、何をするにも全力投球だった。自分が欲したものは決して譲らず、その手で掴み取ろうとする。

 ――強欲で傲慢。

 それが彼女の全てだった。


 彼女が少女でなくなり始めた高校生の頃、一人の少年と出会った。少女は彼に恋に落ち、しかし、少年は彼女以外の誰かを想っているようだった。それも、ここにはいない誰かのことを。

 少女は幻影との戦いをも全うした。

 少年の中で燻ぶる恋心を打ち破り、自身にその想いが向くように努力した。いかなるものも欲すれば最後、決して譲らない彼女にとって、恋という舞台でも同じようにすることは至極当然のことだった。


 ややあって、少女は少年の心を掴んだ。二人が結ばれる頃には少女と少年ではなく、女と男になっていた。


 大学を卒業して社会人になり、二人は幸せな日々を送っていた。

 しかしそんなある日、夫が親しくしているらしい、同僚の女と邂逅してしまう。夫が同僚と飲みに行っていることは知っていた。相手が女性であることも、聞いてはいた。知らなかったのはその相手が幼馴染であり――自分と同じく、夫を想っている、ということ。


 初めて邂逅したとき、彼女は気付いた。

 夫はその女の初恋であり、また、その女も夫の初恋だ、と。

 だってそう思ってしまうくらいに、二人の間に強固な繋がりを見てしまったから。


 だが彼女は、二人の関わりと断ち切ろうとは思わなかった。

 何故ならそれは、彼女の美学に反することだからである。

 不倫だの浮気だの、社会一般の“悪”は彼女にとってどうでもよかった。夫にとって一番好きな相手が自分なら、それでいい。そう思ってさえいた。


 やがて彼女が身ごもり、僅か数か月後、その女も妊娠したと聞いて。

 ――ああ、と彼女は思った。

 その女を呼び出し、単刀直入に彼女は聞く。


「その子、孝文の子でしょう?」


 女は答えた。


「……かもしれない。でも、確かめては、ない」

「だったら分からないままでいて。孝文にも何も言わず、その子を引き合わせようとしなければ――黙っておいてあげる」


 彼女はそう持ち掛けた。

 無論、夫がその女と一線を越えたことは許しがたい。しかし、夫の弱さを彼女は理解していた。たとえ初恋の未練が残っていようとも、自ら望んでその女とることはない。


 その女に対してさえ、彼女が抱いたのは怒りではなかった。

 悔恨に似た感情。

 好きな男をたった一晩でも奪われたことへの悔しさが彼女の胸の内にあった。その悔しさを、無粋な現実的手段で穢すことは彼女自身のプライドが許せなかった。


 その女は彼女の提案を受け入れた。

 彼女の子が産まれてから一か月後、その女の子供も無事産まれた。

 不義の子は、澪と名付けられた。


 その年、彼女は再び妊娠した。

 クリスマスの日に生まれたその子の名前は美緒。

 音を重ねたのは、彼女にとっての上書きだった。ひどく歪んだ形の、という前置きがつくものではあるが。



 ◇



「――これが俺の組み立てた仮説だ。妄想で補完してる部分が多いから完全に正しいとは思わないし、そもそも全部間違ってる可能性も大いにある。だけど俺には、母さんが真っ直ぐ歪んだ恋に殉じた人だ、って思えてしょうがない」

「……そう、ですか」


 祖母ちゃんからの帰り道。

 いつか電話をして歩いたその道を、今度は並んで話していた。語ってみせたのは、ひどく歪んだ母さんと義母さんの恋物語。我ながら、昼ドラやエロゲーも真っ青な物語に仕立て上げられたものだ、と溜息が出る。


 材料は三つだけ。

 翼さんの話と、澪と美緒の名前の一致。そして美緒を名付けたのが母さんという事実。

 これだけで全てを言い切ってしまうことは、当然ながらできない。だってもしこの仮説が正しければ、母さんは途轍もなく歪み切った魔女みたいな人になってしまう。


「正しいかどうかは、正直なところどうでもいいんだ。ただ少なくとも、母さんは恋に殉じた人だった。俺や美緒には母親として愛を向けてくれたかもしれないけど、父さんに対して向けてたのはひたすら恋心だったと思うんだよ」


 母さんを知ろうとすれば、家族を知ることができると思っていた。

 あの人の愛を知れば誰かを愛せるようになるんじゃないか、って。

 だけど、手を伸ばした先にあったのは鮮烈な恋でしかなくて。


 しかもタチの悪いことに――俺はそんな母さんの姿を、かっこいいと思えてしまった。


 歪み切った、世界にただ一つだけの“それ”は。

 恋い焦がれてしまいそうなほど劇的だったから。


「ダメだな。……誰かを愛する方法を知りたくて来たつもりだった。歪んだやり方じゃなくて、もっと正しいやり方を。それで今度こそやり直したいって思ってた」


 大河は目を眇め、しかし、何も言わない。

 俺は落陽に手を伸ばしながら、イカロスみたいに自嘲する。


「恋をすることにばっかり心が惹かれる。劇的で歪んだ物語の方が綺麗に思えてしょうがない。家族の形は分からないままだし、愛を見つけることもできなかった」


 無駄な旅だったのかもな、と付け加えた声は思いのほか摩耗して聞こえた。

 俺は推理小説の主人公じゃない。母さんの核心に迫ることができたところで、望む結末に辿り着くことはできないのだ。


 どこに行けばいいのか、また分からなくなる。

 或いは、もうどこにも行けないのかもしれない。

 睨みつけた空は遠い。黒に染まっていくこのオレンジは、闇の上澄みみたいだった。


「私も」


 ぽつりと呟いた大河は、その場で立ち止まったる。

 俺も数歩先で止まり、振り返った。

 そして、


 ――なんて奇麗なんだろう


 と大河の真っ直ぐな眼差しに息を呑んだ。

 近づく闇夜を薙ぎ、黄昏さえ切り裂くような力強さで大河は言った。


「私も、誰かを愛する方法なんて分からないです」

「……そうか」

「分からないですし、興味もないです。だってそんなもの、言葉遊びじゃないですか」


 きっぱりと言い切る大河。

 俺は苦笑交じりに言葉を返す。


「言葉遊びじゃないだろ。恋と愛は別物だ。大河たちを愛せてなかったから、俺はまた間違えた。四人を傷つけたんだ」

「愛を知らないくせに、愛せれば間違えなかった、なんてどうして分かるんですか?」

「っ、それは――」


 言葉に詰まりかけた俺は、時雨さんの話を思い出し、口を開く。


「家族になりたいって、一緒に行きたいって願うなら……大人にならなきゃいけないんだよ。そのためには恋してるだけじゃダメなんだ」

「……答えになってないこと、気付いてますか? どうして愛があれば大人になれるのかって聞いてるんです」

「そ、れは…………時雨さんが言ってたことだから」


 口を衝くのは、心底情けない答え。

 大河は小さく溜息を吐くと、何故か少し悲しそうな目をした。


「ユウ先輩は……自信が、ないんですか?」

「――え?」

「これまでもそうでしたけど、最近のユウ先輩は特にそうです。色んな人の考えを聞いて、言葉を拾い集めて、ハリボテの答えを作ろうとしてるように見えます」


 虚を衝かれ、口を噤んだ。

 確かに、最近の俺は色んな人と話して答えを探している。周りの人に恵まれているからこそ、かっこよく生きてる彼ら彼女らの言葉を聞こうと思ったのだ。


「別に私は、周囲の人から学ぶことが悪いことだとは思いません。私だって学んでばっかりです。澪先輩も雫ちゃんも、それから月瀬先輩も……私には持ってないものを持っているから、憧れますし、見習いたくなります」


 ですが、と大河が力強く区切って、言う。


「今のユウ先輩の行動のどこに、ユウ先輩がいるんですか?」

「――っっ」

「あの夜は、ユウ先輩の声が聞こえました。五人でいたい、って。そう祈ってくれてるんだって分かりました。でもその前も後も、ユウ先輩はハリボテに見えます。まるで誰かの言葉を拠り所にしないと、自分の気持ちさえ認めてはいけないって思いこんでるみたいに見えるんです」


 それは――間違ってなかった。

 自分の人生を生きると決めた。俺の代わりに散った命に、周りにいてくれる人に、釣り合う人生でなければいけないと思った。

 だけどやっぱり、俺自身の命にその価値を見出すことは難しくて。

 再三間違え続けた俺が価値ある物語を紡ぐことができるとは思えなくて。

 だから他者の言葉を求め、拠り所にした。仲間の声を聞いて答えを見つける主人公もいるはずだ、と嘯いて。


「もうそういうの、全部捨てませんか?」


 もう我慢できない、とでも言うように。

 大河は思いっきり憂鬱や屈託を蹴飛ばした。


「恋だの愛だの、主人公だの理想だの――そんなのどうだっていいんです! そんなの全部、届かなかったことの言い訳じゃないですか!」

「…っ、そんなことは――」

「あります! だって、私を助けてくれたユウ先輩は! もっと真っ直ぐで、めちゃくちゃでした! 澪先輩や雫ちゃんのときもそうです! いつも先のことなんか知るかって顔で、がむしゃらに助けてくれました!」

「だからっ、それは! ヒーローになることに縋ってただけだって――」

「そんな風にややこしく考え始めたからダメなんです! 自分が複雑で難しい人間だとでも思い上がってるんですか!? そんなわけ、ないじゃないですか!」


 ずん、と踏み込まれた一歩は大きくて。

 彼女に口付けられた、あの黄昏に似ていた。


「ユウ先輩は馬鹿です、大馬鹿なんです。霧崎先輩にはなれないんですよ。だから、霧崎先輩みたいに難しく考えたって意味ないんです」

「っ」

「大馬鹿なユウ先輩にできることなんて、最初から一つしかありません」


 吠えるように、噛みつくように。

 大河は言った。


「――何もかも無茶苦茶にしながら体当たりするんです」


 今までやってきたことが走馬灯みたいに脳裏によぎる。


「自信がないなら、これまでのことを思い出してください。私たちを見てください。ユウ先輩が体当たりしてくれたから、私たちはこんなにあなたを好きになれたんです。何度傷つけられても絶対嫌いになれないのは、無茶苦茶にされちゃったからなんです」

「――っっっ」

「そんな私たちのユウ先輩を、後付けの理屈で貶さないでください――ッ!」」


 熱に満ちたその言葉に心が揺れる。

 今までの俺を肯定してもいいのかも、って。

 間違いだと決めつけなくてもいいのかも、って。

 だけど雪夜の後悔を思い出し、くっ、と唇を噛んだ。


「でも……それじゃあ、ダメだろ。独りよがりな望みで皆を傷つけたのは事実だ。これまでは馬鹿でよかったかもしれない。だけど、この先に進むには……恋してるだけじゃ、足りないんだ」


 ぶくぶく肥えた裸の王様を許していいはずがないのだ。

 俺が返した言葉を聞いて、大河は呆れたように嘆息を漏らした。


「これまで散々傷つけておいて、今更あの程度で挫けるんですか?」

「っ、当たり前だろっ!? 何度も傷つけたからこそ、もう傷つけたくない。傷つけちゃいけな――」

「私たちは、傷つけられたくない、なんて思ってません」

「――っ!?」


 今度は怒りにも似た感情を携えて、大河は言った。


「傷つけられたくないって思うなら、そもそもユウ先輩みたいな人を好きになりません。つけられた傷も愛おしいって思えるから、今もあなたを想ってるんです」

「…っ」

「本気で五人揃った『ハーレムエンド』が欲しいなら――たった一回届かなかったくらいで、すぐに挫けないでくださいッ! 何度だって挑戦して、何十回だって傷つけてくださいッ! それくらい歪んでボロボロな方が、私たちにはお似合いです」


 それにっ、と大河が息を切らす。

 はぁはぁと肩で呼吸をしながら、それでもなお、言葉を止めようとはしない。


「それに……っ! ユウ先輩の望みは、独りよがりなんかじゃありません」

「なわけないだろっ? 誰も五人でいることなんて望んでなかった! だったらこんな望みなんて――」

「私もっ! 私も五人がいいですッ!」

「……は?」


 予想だにしないその言葉に、腑抜けた声が漏れる。


「あのとき、ユウ先輩を庇うことができなくてごめんなさい。だけど、まだ自信が持てなかったんです」

「…………」

「だけど考えて、答えが出ました。私はまだ月瀬先輩のことを知りません。でも月瀬先輩の気持ちが私たちと同じだってことは痛いくらいに分かりました」

「……っ」

「だから時間をかけて知っていきたい、って。そう思うんです」


 それはきっと、独りよがりな望みだった。

 同じくらい、気高い望みでもあるけれど。


「五人がいいって望みは……独りよがりなんかじゃないです」

「二人よがり、か」

「――はい。今度は私も望みます。だからいつもみたいに滅茶苦茶なやり方で、二人よがりな望みを叶えてください」


 二人ぼっちを四人ぼっちにしてみせた誰かさんみたいに。

 独りよがりを二人よがりに塗り替えてくれた。


 ちりり、ちりり、と心が灼ける音がする。

 灼けて、焦がれて、燃え広げて。

 この熱が叫ぶままに何もかも無茶苦茶にしてやれたら――ああ、そいつは最高に楽しいだろうな、ってほくそ笑む。


「なぁ大河」


 にやーっと口角が吊り上がっているのを自覚する。


「いっこだけ。この状況を全部ひっくり返せる名案を思い付いたんだ。俺たちだからできる、俺たちの望みを叶えるパーフェクトプラン」


 いつかの焼き直しのように言えば、大河もくすくすと笑い、大きく頷いた。


「聞かせてください。大馬鹿野郎なユウ先輩は、どんな妙案を思い付いたんですか?」

「ああ、あのな――」


 たとえ歪んでいようとも、恋に殉じた母さんを美しく思ったんだ。だったら俺も、とことん歪んでみてもいいのかもしれない。

 どうせ俺も彼女たちも、どこかおかしいんだから。

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