最終章『チルチルの花嫁たち』
終章#01 或いは、彼のプロローグ
SIDE:友斗
電車に揺られていると、世界の時間と切り離されたんじゃないかと錯覚するときがある。遅くなっているのか、速くなっているのか。ズレているような気はするけれど、遅速のどちらに傾いているのかまでは分からない。そもそもが勘違いなのだから速くも遅くもないというのが正解なのだけれど、どうにも上手く呑み込めない。
どうして電車の中で眠くなるのか、と以前テレビで解説していたような覚えがある。
なんでも車内で聞く音や車両の揺れは、赤子が母胎内で聞く音や感じる音に似ているらしい。それが安心に繋がって、うとうとと眠気を誘われるのだとか。
どこまで本当のことなのやら、と思う。実際もう少し細かく理由を説明しようとすれば、違った答えになるのだろう。
いつだって少しも違えない答えを示すのは難しくて、幾多の言葉を必要としている。
だから俺なりの答えを出し続けるにも、たくさんの言葉を拾い集めなければならないのだろう。ジョバンニが活字拾いをしていたように。
つまり何が言いたいかというと、
「帰りは流石に寝過ごしたりしないからな。来香は安心して寝ていいぞ」
ってことだった。
隣に座る来香は、心底呆れた風に顔の前で手をひらひらとさせる。
「いやいや、信用できるわけないからね? 兄さんのその自信がどこから来るのか聞きたいんだけど……?」
「そうは言われてもな。俺は美緒の兄なわけだし。つまり来香の兄でもあるわけだ」
「おっと、無茶苦茶な理論が始まってない?」
「妹を守るのが兄の役目だからな。来香が眠たいなら代わりに俺が起きるって決まってるからな」
「自信の根拠になってないってツッコミはめんどくさいからやめとくねー。とりあえずこのシスコン、めんどくさ~い」
おかしそうにきゅいっと目尻を下げる来香。
あっけらかんと笑う様が眩しくて、つい見惚れそうになる。てか、見惚れた。なんだこいつ、めっちゃ可愛いな。生意気妹もありだったか……って、そーでなくて!
「俺の扱い、色々と酷くない……? ちょっと戸惑ってるんですけど」
「昨日までみたくドロドロに甘やかしてほしいの~?」
「いや、そういうわけでもないですけどね? 生意気系妹も好きだしな」
「ふふっ、きっもー」
「うん、今のは普通にきもかったね!?」
ちょっと反論できなかったので素直に受け入れる。
が、それはそれ、これはこれ。
少しばかり態度が変わりすぎじゃなかろうか。
「来香ってそんなに毒舌キャラだったのか」
「根っこは性悪だからねー。嫌いになった?」
「まさか」
本心からそう言う。
だって変わった態度に戸惑ってはいるけど、この距離感が心地いいとも思っているから。
「あと、毒舌以前に兄さんってツッコミどころが多い生涯を送ってるしねー」
「それは自覚してなくもないけど、太宰治みたいな言い方すんのやめてくんない?」
「あー。恥の多い生涯も送ってるよねぇ」
「くそっ、何一つ言い返せない自分が悔しい!」
ふふっ、と楽しそうに来香が笑みを零す。俺もつられてくつくつ笑った。
流れていく車窓の向こうには晴れ切った空と街が広がっている。澄んだ青は清々しくて、行きとはまるっきり違う気分になった。
「まぁ、ともかく。兄さんの根拠のない自信とか信じられるわけないし、絶対に寝ないからねっ」
「そ、そうか」
「うん、そうなのだ! 今は兄さんと一秒でも長く話したいしね」
「…っ、そういう不意打ちは卑怯じゃないか?」
「魔女は卑怯な生き物だもん♪」
悪戯っぽく口角を上げる来香。
魔女――その在り方は今の来香にとても似合っているように思えた。もちろん来香が悪女や悪役だって意味ではなく、もっと奇麗な意味として。
「ところで兄さん」
「……なんだ? この流れで改まられるとめっちゃ怖いんだけど」
「大丈夫、変なこと聞いたりしないよ~?」
「……そうか?」
ひしひしと嫌な予感がするのは何故なんでしょうかねぇ。
来香に言葉の先を促すと、案の定、からかうような笑顔で言った。
「昨日みたいに出したのって、何か月ぶり?」
「ぶふっ!?」
「シてないんだろうなーとは思ってたけどさ~。あんな簡単に出しちゃったから、実はあたしに言わなかっただけで他の子にもされてそうだなぁって思ったりしたんだよね。そこんとこ、どーなの?」
「げふっ、ごほごほっ……」
とんでもないことを聞いてきたな!?
やっと冷めたかと思っていたほとぼりがぶり返す。堪らずげほげほと咳き込む間も来香はどうなの?とこちらを覗き込んでくる。
その瞳は、魔女の水晶のようでもあった。
「…………誰にも言うなよ?」
「どーしよっかなぁ」
「俺の沽券に関わるから頼む」
「兄さんに気にするべき沽券とかある?」
「あるよ? 多少はあるからねっ?」
「じゃあ秘密にしてあげるね。あたしと兄さんだけのひ・み・つ♪」
「~~っ」
それはそれでグッときてずるいな……。
居た堪れない気持ちになりつつ、俺は白状してしまうことにした。黙ってるのもフェアじゃない気がするしな。
「10か月ぶりとかだよ。ギリギリってことはあったけど、あそこまでいったのは本当に久しぶりだった」
「ふ、ふぅん」
最後にシたのは、4月に澪とキスをしたときだろうか。部屋で一人で……なんてのもできてなかったので、本当に久々だった。
「どうして止めなかったの?」
「……やめてくれとは言ったと思うけどな」
「だけど、もっと強引にやめさせることもできたじゃん」
「…………まあな」
事実、雫に迫られたときはそうした。だってあのときの雫にはそうしないといけない気がしたから。
ならどうして昨日は――。
その答えは、考えればすぐに転がり落ちてくる。
「奇麗だって思ったんだよ。俺を恨んで、でも、同じくらい愛してくれてるのが」
「なにそれ?」
「少なくとも、あの一線を越えても来香は壊れないって思った。むしろあの一線を越えたから来香を知れたって思う」
だから雫よりも来香の方が魅力的だってことじゃない。二人にとって超えるべきじゃない一線が違ったってだけの話だ。
――ぐちゃぐちゃにしてやりたい。
そんな来香の激情が奇麗だったから俺はそれに溺れた。
「小綺麗な言い方してるけど、あたしの魅力に理性が負けたってことでオッケー?」
「い、いや……言い方ってあるじゃん?」
「そーゆうまどろっこしいのは今は要らないの!」
きっぱりと来香が切り捨てる。
ま、要約すれば来香の言ったとおりだ。超えちゃいけない一線があったところで、その前で止まることもできたわけだしな。そうしなかった自分を否定することはできない。
「あといっこ、聞いてもいい?」
「ひたすら嫌な予感がするんだが……ま、いいぞ。今は俺たちしかいないしな」
「じゃあ遠慮なく。……気持ちよかった?」
「……………………」
「えと。気持ちよ――」
「聞こえてる。聞こえてるから言わなくていい。あと、そこで恥ずかしそうにするのも反則だからな」
「しょ、しょうがないじゃん! まだ生娘なんだから!」
「生娘とか言うんじゃねぇよ!?」
生々しすぎるだろうが!
つか、恥ずかしそうな来香が可愛すぎる。よしよし~って撫でたい衝動をぐっと堪え、代わりに来香の質問に答えた。
「……さっきの沈黙が答えってことで許してくれ」
「うわ、そこで誤魔化すんだ」
「誤魔化さなかったら俺たち二人とも自滅すると思わないか?」
「……………………」
「ええっと。誤魔化さなかったら俺たちふた――」
「あーもう、いい! 繰り返さなくていい! 分かったから! 兄さんの気持ちはよぉ~く分かったからっ!」
ぷいっ、と来香がそっぽを向いてしまう。耳の先っちょが苺みたいに赤く染まっているのが可愛らしくて、恥を忍んで答えた甲斐があったかもな、なんて思えてくる。
とはいえ、俺は俺で恥ずかしいのは事実なわけで。
「「…………」」
と、二人揃って黙りこくる。
気まずくて、でも、嫌じゃなくて。
心の優しいところをくするぐような時間がとても愛おしい。
喋ったり喋らなかったりしながら、俺たちは東京へと帰っていく。
まだ終わったわけじゃない。むしろこれからなのだ。俺も、来香も。
だから俺も考えなきゃいけない。
百瀬友斗の物語の、次なるページに綴る一行を。
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