第十章『ギムレットには青すぎるⅡ』

10章#01 月下美人

 SIDE:来香


 あたしの名前の由来が月下美人という花だと知ったのは、小学校の国語の授業だった。

 漢字の成り立ちを勉強する授業で、お父さんお母さんに名前の由来を聞いてみましょう、という宿題が出たのだ。家に帰って聞いてみたときに教えてもらったのが、その花の名前だった。


 それからというもの、月下美人はあたしの中で特別な花になった。


 月下美人は年に一晩だけ咲くと言われる花だ。

 まるであたしみたいだなと思ったのは、終わりと隣り合わせの入院生活のせいだろう。


 最初に倒れたのは、まだ幼稚園にも入学していなかった頃。

 それ以来、楽しそうに外で遊ぶ皆を、部屋の中から眺める日々が続いた。

 本当はずっと、皆と遊びたかった。羨ましいなって思ってた。でもお父さんやお母さんに心配をかけたくないから、誰にも言わないようにしていた。


 そんなあたしを見つけてくれたのが彼だった。

 幼稚園に入学した後。よく晴れた日にあたしが一人で遊んでいると、同い年の彼は声を掛けてくれた。


「ねえねえ。おれもいれてよ!」

「え……?」


 あたしがやっていたのは、本当に退屈な一人遊び。

 絶対に3、4歳の男の子が楽しいって思う遊びじゃなかったと思う。あたし自身、幼稚園の先生に心配をかけたくなくて、楽しいフリをしているだけだったんだから。


「たのしくないよ?」

「それはおれがきめることだよ。きみとあそんだら、ぜったいたのしい!」


 にかっと笑う彼の名前は、百瀬友斗。

 お父さんとお母さんの名前を意識したことはなかったから、それがあたしにとって人生で初めて覚えた名前だった。


「ゆーとくんっ、きょうもあそんでくれる……?」

「もちろん。きょうはなにしよっか?」

「うた! このまえ、せんせいにおしえてもらったんだ」

「うたかぁ。おれ、うまくないんだよね。みんなにわらわれるんだ」

「だいじょうぶ、わらわないよ! あたしがゆーとくんのぶんもうたうね!」


 歌ったり、おままごとしたり、積み木で遊んだり、一緒に絵本を読んだり……。

 あたしはずっと、彼と遊んでもらった。

 楽しくて、胸いっぱいで。

 恋しちゃうのは必然だった。

 お母さんと一緒に作った初めてのチョコと渡したとき、彼はすごく喜んでくれた。目の前で言われた『美味しいよ』の一言は蕩けるくらいに嬉しかった覚えがある。


 年中さんの冬。

 二度目にチョコと渡したとき、彼はこんな風に言ってくれた。


「かあさんからきいたんだけどさ。ほわいとでーにおかえしするんだって。だからおれ、きょねんのぶんもいいものあげることにするよ!」

「っ、うん! たのしみ!」


 何をくれるんだろう。

 何だっていい。彼がくれたものなら、どんなものでも宝物だ。

 そうしてワクワクしながら迎えた3月14日。

 あたしは――幼稚園に行くことができなかった。


 前日の夜に突然苦しみ始めたあたしは、緊急入院を余儀なくされた。

 目覚めたのは、だんだん慣れ始めていた病室。命を救われたなんて自覚できない子供にとってそこは、幼稚園のウサギ小屋みたいに思えた。


「やだっ、やだよぉ……あたし、ようちえんいくんだもん! ゆーとくんにあうんだもん!」

「っ、ごめんね、来香。でも無理なの。しばらくはお医者さんがここにいて、って」

「いやぁ! やだやだやだ!」

「……ごめん、ごめんね。健康な体に産んであげられなくて、ごめんなさい」


 それは、あたしが初めてこねた駄々だった。

 お母さんはぶわーっと泣き出して、ベッドに横たわるあたしを優しく抱き締めてくれる。あったかくて嬉しかったけど、その何倍も申し訳なかった。

 ハッとして、駄々を呑み込む。

 お母さんを困らせたかったわけじゃない。いっぱい愛してくれてるのは分かってるんだ。


「……ごめんね、おかあさん」


 大丈夫だいじょうぶ。

 体がよくなれば、幼稚園にはまた行ける。

 前を向いたあたしの背中を押すように、いいこともあった。入院から暫くして、お母さんが彼からのお返しを受け取ってきてくれたのだ。


 彼がくれてたのは真っ赤なヘアピン。

 宝物だった。

 心細い病室での時間も、彼がくれたヘアピンを眺めていたら自然と勇気が出た。


 大丈夫だいじょうぶ。

 あとちょっとで彼に会える。そうしたら、ありがとう、って言おう。そう決めていた。


 けれど、迎えた年長さんの4月。

 やっとの思いで退院して幼稚園に向かったあたしは――彼の隣に別の子がいるのを見てしまう。


 それまで立っていた場所が、ぐらぐらと音を立てて崩れていく気がした。

 窓の内側から外を羨む、独りぼっちな時間に戻ってしまうんじゃないか。

 そう思ったら怖くて、悲しくて、苦しかった。


「ゆーとくんっ! あたし、かえってこれたよ!」


 あたしの場所を取らないでよ。

 ……とは言えなかったから。

 代わりに彼に声を掛けると、くしゃっとした笑みと共に、隣にいる女の子のことを紹介してくれた。


 どうやら、その子は彼の妹らしかった。

 百瀬美緒。

 最初あたしは、二人と一緒に遊んだ。彼の妹もあたしほどじゃないけれど体が強くないみたいで、外で遊びたがらなかった。


 だけど、だんだんあたしは彼から距離を置いた。

 彼があたしより妹を大切にしてるんだな、って分かっちゃったから。

 せっかく着けていったヘアピンにも気付いてもらえなくて、なのに、彼女が少しでも困っているとすぐに気が付く。


 あたしは特別じゃないんだな、と思った。

 あたしにとって彼との時間はかけがえのないものだったけど、彼にとってはそうじゃなかった。大切な彼女いもうとが幼稚園に来れないから、あたしと過ごしていただけ。

 きっとその程度なんだ。


 次第にあたしは、彼と疎遠になっていった。

 彼と同じ小学校に入学しても、あたしは彼を遠巻きに眺めるだけの女の子でしかなくて。

 一年生、二年生……と少しずつ大きくなっていった。


 成長しながら思ったのは、初恋は燻るんだな、ということ。

 幼稚園児が抱いた恋は、小学生になっても切り捨てることなんてできなかった。ずっとずっと彼に恋焦がれ、同じクラスになれれば跳んで喜び、席替えの日には隣になれますようにと祈った。


 そんな淡い片思いを抱えた小学四年生の冬。

 バレンタインデーを過ぎた頃、あたしはまた倒れた。


 幼稚園ぶり、じゃない。

 小学校に入学してからも、数度入院せざるを得ない状況に陥ったことはあった。

 でも――その冬の入院はとびきりタチが悪かった。

 本当に死を覚悟するほど苦しかった。学校に行けないことなんか考える余裕がないくらいの苦痛。たくさん呻いて、病院の人も困らせた。


 生死を彷徨っていることは自覚できた。

 自分の中の灯火のようなものが、ふぅ、ふぅ、と吹き消されそうになっているイメージ。

 月下美人の花言葉は『儚い美』らしい。

 きっとあたしはもう、咲き終わった花なんだ。この晩が過ぎれば、朽ちていくだけ。


「あたし、死んじゃうんだ……」


 ホワイトデーはとうに過ぎた。

 彼に貰った赤いヘアピンは、倒れた拍子に失くしてしまうのが怖いから、ずっと宝箱にしまっている。その箱の中には忘れ物をしたときに彼が半分こしてくれた消しゴムとか、遠足のときの彼の写真とかが入っている。


「会いたいな」


 お母さんに頼んで持ってきてもらった宝箱を見つめながら、ぽつり、と本音が零れた。

 彼に会いたい。

 本当は、遠くで見ているのは嫌だった。

 彼と話したい。友達になりたい。一緒にいたい。

 溢れだす想い月下美人のもう一つの花言葉を思い出させてくれた。


『ただ一度だけ会いたくて』


 生きなきゃ、と思った。

 いるかも分からない神様にお祈りする。


 お願いします。

 あたしはもっと生きたいんです。

 だからどうか――。


 祈りが通じたのかは分からない。

 あたしに心臓移植のドナーが見つかった。見つからなかったら早晩終わっていたかもしれない命。手術の前も後も、お父さんとお母さんはぐしゃぐしゃに泣いていた。


「いいか? 心臓移植っていうのは、命を貰うことなんだ。だから、来香は命をくれた子の分も、一瞬一瞬を大切にしなきゃいけない」


 お父さんに言われて、その通りだ、と思った。

 あたしは命を貰ったんだ。

 この一瞬を大切に。あたしは自分らしく生きることを決めた。

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