9章#41 短いお別れ

 雪に染まった街を歩いて、月瀬が指定したカラオケにたどり着いた。

 こんなにどうしようもなく景色が変わっても、電車は止まらず、街は動き続ける。そのことが不思議と恐ろしくて、息が詰まった。

 雪程度では、何も隠してはくれない。

 たかが天気の一つに他ならず、何かを変えてはくれない。


 そう分かってしまうのが辛くて堪らなかった。


「百瀬くん、こっちこっち。よかった……ちゃんと来てくれて」

「そりゃ来るだろ。言い出したのは俺なんだし」

「それでも、嬉しい」


 カラオケでは月瀬が待っていた。冬星祭の日のように髪を下ろしており、赤いヘアピンで前髪を留めてある。背負っているのは黒いギターケース。そういえば、カラオケってギターとかを持ち込めるんだっけか。ろくに働いてない頭でそんなことを考える。


「フリータイムでいいよね?」

「任せる」

「じゃあフリータイムで」


 言うと、月瀬は手早く受付を済ませる。

 指定された部屋に入り、上着をハンガーにかけ、ドリンクバーを取りに行く。コーヒーの苦みを感じたくはなくて、炭酸を注いだ。


 月瀬はギターケースから、冬星祭のときに使っていたのとは違うギターを取り出した。この前はエレキで、今回はアコギ。指先が弾いた弦は、あのときより優しい音を奏でる。


「それで……百瀬くんは、私に何をしてほしいの?」


 じゃららん、とぬるま湯みたいな音色。

 きゅいっと目尻を下げた月瀬の微笑に心がほどかれ、俺は口を開く。


「まずは話を聞いてくれるか?」

「うん、聞かせて」

「ありがとう。それじゃあ――」


 と言って話すのは、全て。

 今の俺にまつわる、おおよそ全てのことを打ち明けた。


 美緒との初恋はもちろん、雫や澪と義理の兄妹であることや夏の一件、それを経た秋から冬に至るまでの諸々まで。

 完全なる部外者の月瀬に話すべきではないのだろう。

 でも何故か、月瀬には話していい気がした。むしろそうすることが正解であるようにさえ、思えた。


 話はやがて、三人から持ち掛けられた『ハーレムエンド』へ。

 そして、


「俺は三人のことが好きだ。で、三人は四人でいることを望んでくれた。そういう恋をしよう、って思ってくれた」

「うん」

「でも――俺だけが主人公じゃないんだ」

「…うん」

「三人には欲しいものがある。そのために手を伸ばすことができる。本物の主人公だ。けど俺は……違う。誰かを助けることでしか、生きてていいって思えない。生きたいって思えるような強い望みが、ない」


 俺の弱さを吐き捨てる。

 あんな演奏をできる月瀬は、きっと皆と同じ主人公だ。だからこんな風に言っても理解してもらえないのかもしれない。

 そんな不安は、


「そっか」


 雪みたいなギターの音ノイズが掻き消した。

 月瀬が優しく奏でるのは、冬星祭で三人が歌ったクリスマスソング。俺の恋を始めたその曲は、鎮魂歌か葬送歌のようだった。


「三人が望む結末を受け入れられない。でも……あの三人への想いはどんどん大きくなっていく。多分俺は、この気持ちを隠し通せないと思うんだ」

「……うん」


 だから、と人魚の泡みたいに続ける。


「この気持ちが冷めるまで、月瀬に隠すのを手伝ってほしい」


 恋の微熱が冷めるには、きっと時間がかかる。

 父さんも言っていた。


『少なくとも、自分の意思で終わらせることができるものじゃないぞ。恋ってのは、絶対に燻るもん』


 と。

 だから、自分で終わらせようとしても無駄なのだと思う。

 それでも――恋の微熱は、いつか冷めてくれるはずだ。


「隠す?」

「ああ。あの三人に俺の気持ちがバレたら、きっとなし崩しで『ハーレムエンド』を受け入れることになる。だから――」

「すごく時間がかかるよね、それって」


 俺の言葉を遮って、月瀬が言った。

 言われて、自分の浅ましさを思い知る。俺はどれだけ長い間、月瀬に寄りかかるつもりだったのだろう。月瀬は困ったことがあれば呼べ、とは言っていた。だけど、それはいつまでも助けてもらえるって意味ではなくて――


「あっ、勘違いしないでね! 別に長い時間がかかるのはめんどくさいとか、そーゆーことじゃないよ」


 そういうことじゃなくて、と月瀬は続ける。


「その間ずっと、百瀬くんは自分を責め続けるんでしょ? そんなのヤだよ。私は百瀬くんに、幸せでいてほしいもん」

「そう…かもしれないけど。でも俺が自分を責めるのは当然なんだよ。全部、俺の弱さが悪いんだから」

「知らないよ、そんなの。私は百瀬くんに自分を責めてほしくない。それに……そのやり方じゃ、いつか限界が来る。百瀬くん、澪とか雫ちゃんと一緒に暮らしてるんだよね? 家にいるときは、私だって協力できない。どうやって隠すの?」


 何も言えなかった。

 その通りだ、と思ったから。


「じゃあ、どうすればいいんだよっ!? この気持ちの終わらせ方を知ってるなら、俺だって終わらせる。けど、できないんだ。どれだけ劣等感を抱いても、好きって気持ちだけは消えないし消せないんだよ」


 八つ当たりみたいな叫びのみっともなさに辟易した。

 自分がどんどん主人公じゃなくなっていく。

 理想からかけ離れた、なりたくないと思っていた自分にばかり近づいてしまう。


 クリスマスソングが止まる。

 月瀬は、小さく溜息を吐いた。

 失望されただろうか。呆れられただろうか。

 情けなさに目を瞑りそうになった、そのとき。


 ――ちゅぷり


 と、彼岸花みたいに切なく生々しい感触が唇に咲いた。

 全身の血が感電し、思考がピリピリと麻痺する。


「なっ、何を……!?」

「久々だけど、やっぱりキスって恥ずかしいね」

「はっ? 久々って、何を言って――」


 何を言っているのか、理解できなかった。

 だけど唇に捧げられた祝福が愛おしい初恋の記憶を手向けてくる。


 それはどこか献花のようであり、ウェディングブーケじみてもいた。


 きゅいっと目尻を下げて、彼女は言う。


「私だよ、兄さん」


 ありえないはずだ。

 初恋みおを幻視するなんて、どうかしている。美緒はもう死んだんだ。心臓だけが移植されて、誰かの中で生きている。


『でも私、あんまり体が強くなくて。日常生活を送る分にはいいんだけど、プールとかアクティブな遊びは避けるように言われてるんだ』


『あと入院生活が長かったから、ゲームは結構やり込んでるのですよ』


『自分の気持ちとか、誰かの気持ちとか』


 大切なアルバムの中で、そこにだけ付箋を貼り付けられているみたいだ。

 今になって思い出す。

 俺を勇気づけてくれたサンクスレターの差出人は同い年だった、と。


「ありえないよね。信じられないよね。だけど――来香が奇跡を起こしてくれた。だから私は、あの子の分も兄さんを守ってみせる。それがあの子にできる唯一の恩返しだから」


 運命の糸であやとりをするように、俺は彼女の言葉を飲み下す。

 誰かに美緒を重ねるなんて間違っている。

 その結果があの夏の過ちだったんじゃないのかよ、と自分を責める声が耳の奥で響く。


「美緒……本当に、美緒なのか……?」

「うん、そうだよ」

「――っっっ」


 つん、と鼻の奥が痛む。

 目の奥がじゅわっと熱くなって、口の奥がからから渇いた。


「っ、美緒、俺は…俺は……」


 何を言えばいいのか分からなかった。

 心の奥はぐちゃぐちゃで、その奥の奥で彷徨っている。

 拠り所のない俺の体は、


「――ただいま、兄さん」


 お月さまみたいな彼女に抱きしめられた。

 ああ、そうか。そうだよな。まず言わなくちゃいけないことは決まってる。


「おかえり、美緒」


 それはきっと、時の魔法。

 ぎゅっ、と。

 抱擁らしい抱擁の感触が俺を包む。


「会いたかった。ずっと会いたくて……」

「うん」

「ごめん。こんなかっこ悪い俺で、ごめん…っ」

「ううん」


 つーっと雫が頬を伝う。

 流れる大河の如く緩やかに時間が過ぎていく。

 抱きしめてくれる美緒は、居場所を教えてくれる澪標だった。




「ねぇ兄さん。――私を選んで?」



 ◇



 ラブソングを唄うなら、その責任を取るべきだ。

 愛を奏でる対価を払い、恋を誇る分だけの想いを示さなければならない。

 さもなくば、愛を恋で上書きされ、恋を愛で塗りつぶされてしまうから。


 伸ばした手が誰かの大切なものを壊すかもしれない。

 そんな当たり前のことに気が付かないなら、ラブソングなんか唄っちゃいけないんだ。


 だからあの子の分も、私があなたの聞きたくない高鳴りをかき消してあげる。

 ――ここからは私があなたの悪役ヒーローだ。

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