8章#40 涙時雨と恵みの雨と。

「ボクは、昔から何でもできたんだよ」


 時雨さんがそう告げたのは、ドライブが始まってからだいぶ経った頃だった。

 昼を過ぎ、ドライブスルーで買ったハンバーガーでやや遅めの昼食を済ませながら、時雨さんは思い出すように続けた。


「何でもできたから、世界がモノクロだったんだ。気持ち、分かる?」

「え、いや……何でもできたことないから分からないけど。でも、世界がモノクロだった、ってのは分かるかも」


 美緒を守る。

 その役目を得るまでの俺は、まさにそんな感じだった。


「つまらなかった。毎日毎日つまらなくて、一人ぼっちだった」

「……うん」

「そんなときに出会ったのが、キミと美緒ちゃんだったんだよ」


 ちゅるちゅるとオレンジジュースを吸い込み、時雨さんはこちらを見遣る。何を思ったのか、ポテトを一本差し出してくるので、俺は素直にがぶりと食べた。


「キミと美緒ちゃんはボクにとって、月と太陽だった。二人はいつも、二人で。色んなものに、二人で色を付けてた。二人ぼっちなキミたちの世界は、ボクが想像したことないくらいにカラフルだったんだよ」

「うん」


 その感覚は、よく理解できる。

 美緒がいる世界は本当にカラフルだった。夢も、寝ぐせも、朝ご飯も、その日の天気も、くだらない遊びも、美緒がいてくれたから楽しかった。


「だからボクは、その世界に入りたかった。二人ぼっちに入れてもらって、三人ぼっちになりたかったんだ」

「だから、お姉さん?」

「そうだね。二人のお姉さんとして生きることを決めたのは、そのとき。そうすれば二人の世界に入れてもらえると思ったんだ。退屈でモノクロームなボクの世界が変わってくれるって信じてた」


 幼い頃、俺たちはそれほどたくさん遊んだわけではなかったと思う。

 それでも時雨さんの世界は、少しカラフルになったのだと言う。


「ずっと三人でいたかった。誕生日に会えるのは、どうしようもなく嬉しくて。夏休みに遊べることが、これ以上ないってくらい楽しみで。その分、秋がくるのは寂しくて。でも冬にはまた会えるから、ボクはモノクロな世界でも頑張れた」


 でも、と時雨さんは少し震えた声で言った。

 ドリンクをぎゅっと握ると、中の氷がじゃらと鳴る。

 うん、と相槌を打つと、時雨さんは口を開いた。


「だから三人でいられるなら、それでよかった。美緒ちゃんからキミへの想いを聞いたときも喜んで背中を押したよ。二人なら、ボクを仲間外れにしないって思ったから」

「……うん」

「でも美緒ちゃんはいなくなった。三人は二人になって、一人になった」


 それは、俺が抜け殻みたいになったから。

 美緒の代わりを探すようになり、時雨さんのことなんて気に掛けなくなった。


「そのときから、ボクの世界はまたモノクロに戻っちゃったんだよ。退屈で、生きる意味が見つからない白黒の世界」

「そっ、か」

「だから本当は、あの頃を取り戻したかった。美緒ちゃんがいて、キミがいて、ボクもいる。もう一度三人になりたかった」


 けど、と時雨さんは消えかけの微笑を浮かべる。


「取り戻せないことは分かってた。もう、ボクの世界に色がつくことはない。ほんとはとっくに、諦めるんだよ」

「――……っ」


 薄々気付いていたことではあった。

 あの頃を取り戻す。

 そのことが動機なのであれば、壬生聖夜について上手く説明できないのだ。どうして壬生聖夜の作品を読んで、危うさを感じるのか。

 それは――


「早く美緒ちゃんのところに行きたいんだ。それで、キミを待っていたい。もう一度世界をカラフルにできるように」


 時雨さん自身が生きたいと思っていないからなのだろう。


「でも、美緒ちゃんの想いを守るって約束した。それだけがボクの生きる理由」

「そう、だったんだ……」

「うん。けど、そんな風に守る必要はなかったみたいだね。キミはちゃんと美緒ちゃんの想いを大切にしてくれている。誰かが継がなくても、受け取ったキミが覚えてる」


 そうだね、と俺は小さく頷いた。

 ありがとうはもう、伝えたつもりだ。

 それでもやっぱり、俺の手は時雨さんに届いていない。


 俺は時雨さんの世界に入れてほしい。傍にいさせてほしい。

 でも、時雨さんにとってその世界は退屈で、生きる価値がない場所なのだ。

 だったらもう、今と向き合うとか、過去と向き合うとか、そういう次元の話じゃない。


「いよいよ空っぽだね。昔からずっと、そうだったけど。本当に何もなくなっちゃった。生きてる意味、もうないね」


 哀しい作り笑いが車内に流れる安っぽい冬ソングを止めた。

 どうしたのかと入江先輩の方を見て――


「あっ」


 ――気付いた。

 もう、雨音が聞こえないことに。

 空がラムネ色に染まっていることに。


「ふざけないでよ、時雨」


 優しくもあり、強くもある声が、車内に轟いた。

 入江先輩は車を止め、ドアを開けて外に出る。俺は時雨さんと顔を見合わせ、入江先輩に続く。

 そうして車の外に出ると、仄かな磯の香りがした。


「ここって」

「海……?」

「見れば分かるでしょう? 海まで来たのよ。といっても、冬の海だから流石に冷えるけれどね」


 ああ、本当に冷える。

 日はまだ高いけれど、そんなことお構いなしに吹く風がどうしようもなく冷たくて、『北風と太陽』を思い出す。


 ざぁ、ざぁ、と波の音。

 海はどこまでも広がっていた。空も、いつまでも広がっている。

 宇宙、って感じがした。


「ねぇ、時雨――ううん、霧崎時雨」


 入江先輩は時雨さんの方を向くと、びしっ、と指をさした。

 強く吹く風が、金と銀の髪を美しく靡かせる。

 向き合う二人は、芸術品かと見紛うほどに美しくて、俺は息を呑んだ。


「もう一度言うわ。ふざけないで、霧崎時雨。この私が三年間を費やして、それでもなお勝てなかった霧崎時雨が空っぽで、生きる意味がないっ? だったらっ! だったら私は、一体なんなのッ!? 中身のない容器にすら負けて…負けて……負け続けた! 惨めな女だとでも言うつもり?」

「――っ、それは……それはそれ、これはこれだよ。勝ち負けが全てじゃない。分かるでしょ?」

「分からないわよ。あなたたちの言っていることは、何一つ分からない。当然よね、何も知らないんですもの。私は霧崎時雨の過去なんて何一つ知らない。それでも私は、霧崎時雨に挑んだの。何度も何度も挑んで――ついに一度も勝てずに、終わった。勝ち負けが、私にとっては全てだったッッ!」


 入江先輩金色獅子は、強く吠える。

 時雨さんは、くしゃっ、と笑い、申し訳なさそうに答えた。


「だとしたら、ごめん。ボクは……勝てちゃうんだよ。言ったでしょ。昔から、何でもできた。恵海ちゃんがボクを凄い人だと思ってくれるのだとしたら……それは、ただの幻」

「っ、違うっ! 私は時雨を凄い人だなんて思ったこと、ない! 私は三年間、時雨をずっと見続けた! 幻じゃなくて、霧崎時雨っていう一人の人間を、見てたのよッ!」

「それは思い上がりじゃないかな?」

「思い上がりじゃ、絶対にないっっっっっ! だって私が……っ、私が、時雨を見つけたんだッ!!」


 もう堪えきれなかったと言わんばかりに入江先輩は時雨さんの胸倉を掴む。

 冷たく、後ろめたそうに目を逸らす時雨さんとは対照的に、入江先輩は目に大きな滴を浮かべていた。


「『君と迎える1月がこんなに嬉しいなんて、思いもしなかった』」


 聞き覚えのある言葉が、響く。


「『カカオの匂いで目が眩みそうな、苦い28日間。今年はもう1日おまけがあるらしくて、嫌気が差した』」

「っ」

「『12月じゃなくて、3月が本当の終わり。僕はそう思っていた』『4月――カミサマが死んだのは、この月の初めらしい』」


 5月、6月、7月、8月。


「『一人ぼっちで長い夜を眠らなくちゃいけなくて。寂しくて丸くなる僕が、9月の「9」になったのかも、と思う』」


 10月、11月。

 そして――


「『12月。それは神様が生まれた月らしい』」


 ――12月。

 聞き覚えがある、なんて次元じゃない。

 ここ最近、何度も何度も読み返した壬生聖夜の作品の一節たちなのだから。


「『カミサマに物語を捧げます』――そう言ったあなたを、世界で最初に見つけたのは私。霧崎時雨のことは知らないけれど、私は壬生聖夜のことを知ってる! ちっとも空っぽなんかじゃない、あなたのことを知ってる」

「……ッ、あれは! 全部、美緒ちゃんに捧げて――」

「ならどうして、WEBに投稿したの? それは読まれたかったからでしょっ!?」

「違――わ、ない……けどっ」

「壬生聖夜に作品には、希望があった。ハッピーエンドもバッドエンドもメリーバッドエンドもあって、楽しかったり哀しかったりしたけど――全部、楽しみながら書いてるって伝わってきた!」


 だから、と叫び、入江先輩はぎりりと時雨さんを睨む。


「何もない、わけがない! 書くことが好きなんでしょう!? そうじゃない人間が何百万文字も書けるわけがない! 物語を舐めるなッ!」

「……っ、でも……! でもボクは――」

「それでも足りないなら、生きる意味が見つからないなら!」


 時雨さんの言葉を遮って、入江先輩は言葉をぶつける。


「ずっと私の傍にいなさいっ!」

「……へ?」

「あなたのことが好きなの! 壬生聖夜のことしか知らなくて、霧崎時雨のことは全然知らない。それでも……私は時雨を、愛してるの! だから、私の傍にいなさいよ。私の傍にいてくれる限り、私が時雨の人生を照らしてみせるわ」

「め、恵海ちゃん? いったい何を言って――」

「時雨のことが好きだって言ってるの」


 幾度と打ち寄せる波が、ざあざあと泣く。

 天を仰ぐと、もうあっちの方でも雨は止んでいた。やっぱり、さっきの雨は通り雨だったらしい。


「最初は勝てなくて悔しいだけだった。けど、いつからか時雨の隣に立ちたい、時雨に見てほしい、って。そう思って、何度も時雨に挑み続けた。まだ時雨に勝ててはいないけど――それでも、時雨の人生を照らすって誓う」

「……何を、言ってるの? ボクのことが好きって……急に、なに?」

「っ、告白してるのよ文句ある!? 人の恋をあれこれとかき回しておいて、私の気持ちは無視するわけ?」

「そ、そういうわけじゃ、ないけど…………ねぇキミ。これ、キミが考えたの?」


 戸惑った様子の時雨さんがこちらを一瞥する。

 が、俺としては肩を竦めるほかない。


 入江先輩が時雨さんを恋愛的な意味で想ってることには、今回の件を相談する電話でようやく気付いた。

 けど、その前から薄っすらと勘づいてはいたのだと思う。

 実の妹である大河が『好きだから』とか言って俺に踏み込んできたんだしな。この姉妹、実は生粋の恋愛脳なのだ。


「時雨さん。この一瞬を大切に、だよ」

「――っ」


 頑張って、と祈るように告げる。

 頭の隅で、いつかのカミサマと少年の物語を思い出していた。

 あのときも、カミサマは迷ってたんだっけ。手を取っていいのか、って。それは、依存する対象を変えるだけじゃないのか、って。


「……恵海、ちゃん」

「何かしら?」

「あの、あのね? まだ分からないんだ。色んなことが分からなくて、迷子になった気分だよ」


 初めて聞く、たどたどしい時雨さんの言葉。

 でもね、と続けるその声は、嬉し涙で水浸しだった。


「何も解決してない、のにっ……今のボクには、世界がキラキラして見えるよっ」

「それはよかったわね」

「うんっ、よかった。だから…だから……少しだけ、時間をください。どんな存在として傍にいたいか、考えさせてほしい」


 ぽとり、ぽとり、と降る時雨なみだ

 昔、思ったことがある。

 涙を流すって意味の名前だなんて哀しそうだな、と。

 でもそんなことはなかった。涙にはちっとも悪いことじゃない。

 悲しい涙を流せるのは優しい証で。嬉しい涙を流せるのは幸せの証で。


 そんな心の恵みが、いつか海になって。

 そうして、空の青さを映し出すから。


「――えぇ、待ってるわ。時雨の傍で、待ってる」


 ざぶん、と波の音が聞こえる。

 あの海は、この瞬間を憶えてくれるだろうか? 何億年も先の世界にまで、二人の幸せを運んでいってくれるだろうか?


 海には期待できないから、その分俺が憶えていようと思う。

 こんなにも綺麗な世界を、絶対に忘れない。

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