8章#39 手紙
「それで。キミはどうして、こんなことを?」
自動車が出発してすぐに、時雨さんはそう尋ねてきた。
ぷりぷりと怒った様子に笑いつつ、俺は肩を竦める。
「言い出しっぺは俺じゃないよ。入江先輩に相談したら、ドライブに連れて行ってくれるって言うからさ」
「相談してる時点で、始まりはキミだよね?」
「まぁね。でも突然のドライブって発想は俺じゃなくて入江先輩のものだからさ。そこを勘違いしないでほしいな」
ね、と運転席の入江先輩に言う。
ちなみに、俺も時雨さんも後ろの席に座っている。助手席には大河以外を座らせる気がない、とさっき怒られた。そういうところはやっぱり残念美人だと思う。
「ドライブなら、時雨でも途中で逃げられないでしょう? だからちょうどいいと思ったのよ」
「ボクがいつ、誰から逃げたかな? 恵海ちゃんのことはいつだって返り討ちにしてあげたはずだよ」
「年下の男の子から」
「それこそ、逃げてないよ。逃げたのは、彼。だよね?」
時雨さんの目が鋭く俺を射貫く。
至極ごもっとも。俺は逃げた。
あの場で、それでも時雨さんを追いかければもっと恐ろしい何かを突きつけられるかもしれない、と怯えて。
怖くて動けなかった。
「ま、そうだね。でも今日は俺も逃げられない。車は密室だから」
「密室……そうだよ。こんな風にお出かけしたら、あの子たちがヤキモチを妬いちゃうんじゃないかな? クリスマスプレゼントだって、昨日まで忙しかったんだから買いに行けてないはずでしょ」
「そうだよ、買いに行けてない」
「なら――」
「――けど、大丈夫。どうとでもなるから」
時雨さんの言う通り、クリスマスプレゼントは買いに行けてない。
昨日までは冬星祭の準備が忙しかったのである。
だがまぁ、大丈夫だろう。今日はまだ21日だ。クリスマスまでは数日ある。ネットショッピングに頼ってもいいし、幾らでもやりようはある。
そうまでしてでも、俺は時雨さんと話したいことがあった。
今の俺には、時雨さんを助けることができない。
何故なら、まだ俺は美緒に恋し続けているからだ。美緒の死を受け止め、今周りにいてくれる人と向き合ってはいるけれど、未だに新しい恋をしてはいない。
過程や方法がどうであれ、時雨さんが守ってくれたから今も美緒を想えている。
この結果が変わらない以上、俺が持つ手札はない。
それでも、伝えたいことはあった。
だから入江先輩には少し時間を貰っている。
「ねぇ時雨さん」
時雨さんの横顔と共に、向こう側の窓を見遣った。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。雨は『小』の字の帽子を脱いで、だんだんと強くなっていく。天気予報は雨じゃなかった。この雨は通り雨なのかもしれない。或いは、ただ予報が外れただけか。
秋から冬にかけて降る通り雨を、時雨、と呼ぶそうだ。
以前、俺は晴季さんから聞いたことを美緒に自慢げに語った覚えがある。どうだ凄いだろ、兄さんは頭いいだろ、と。
そんな俺に美緒は言ったのだった。
『時雨って、涙を流す、って意味もあるんだよ』
時雨さんの涙を、俺はこの前初めて見た。
そう思っていたけれど、考えてみればその前にも一度、時雨さんは泣いていたのだ。
美緒の葬式のときにわんわんと泣いて、周りの大人を困らせて。
俺はそんなことすら忘れていた。
なのに時雨さんは、俺たちを守ってくれたんだ。
たとえそれが依存や執着だったとしても、その優しさや強さをなかったことにはしたくない。
「この前はごめん」
「何が、ごめんなの? キミは正しいことを言ってたよ」
「ううん、そんなの関係ないんだ。正しいとか間違ってるとか以前に……伝えたかったし、ちゃんと言うべきでもあったことをすっ飛ばしてた」
車内では、俺の声なんて気にしないと言わんばかりラジオが流れている。今はちょうど、音楽に入ったところだった。古臭いクリスマスソングに合わせて、入江先輩は小さく鼻歌を歌い始めた。
聞かないことにしてやるから、勝手に話してろ。
そんな合図のように思えて、俺は話を続けた。
「――ありがとう、時雨さん。こんな最高の青春をくれて」
「…え?」
「もちろん、時雨さんのおかげってだけじゃない。でも時雨さんがいなかったらこんな楽しくて忘れられない1年にはならなかったと思うんだ」
4月からずっと、俺たちは間違い続けた。
そのせいでたくさん傷ついて、傷つけて、一歩間違えば全てが終わっていたかもしれない。
それでも俺たちはここにたどり着いた。
多分、俺たちだけで進むよりもずっと強くなって。
「この1年だけじゃない。時雨さんはずっと俺を守ってくれた。空っぽだった俺がヒーローになれるのは、時雨さんがくれたもののおかげだよ」
「…………」
「それから――俺と美緒を守ってくれた。それが時雨さんの望みを叶えるためだったとしても、俺たちが守られたって事実は変わらないんだ」
だからさ、と呟く。
「ありがとう、時雨さん。でも俺は…俺たちは……もう大丈夫」
くぉぉぉぉん、と駆動音が続く。
景色はみるみる移り変わり、都会から離れていく。濡れた窓からひんやりとした空気が滲む。今日はとても寒い。備え付けの暖房は、車内を温めるには少し機能不足らしい。
「……キミは本当に、美緒ちゃんの死を乗り越えたんだね」
ぽつり、時雨さんが寂しげに呟いた。
「どうしてキミは、そんな風に前を向けるの? あの頃を取り戻したいって思わないの? 取り戻せないことに絶望しないの?」
そう尋ねられて、どうしてだろうな、と首を捻る。
思えば夏休み以来、美緒の死を考えることは少なくなったように思う。あれから我が家にも仏壇があるけれど、毎日線香を焚いたりはしなくなった。
「キミにとって、あのキラキラした時間はもう過ぎたものだから? もしそうなら……そんなのってないよ。それじゃあ、美緒ちゃんの想いが可哀想だ。今のキミに傷跡も残せていないなんて――」
「違うよ、時雨さん」
多分、何も言われなければ時雨さんが言ったような答えを出していた気がする。
澪や大河、雫が俺の周りにいてくれる。
だから今を生きるんだ、って。
でも時雨さんに言われて、そうじゃないんだ、と気付いた。
「美緒の心臓を受け継いだ子からの手紙を読んだんだ」
時雨さんも、美緒が心臓移植をしていたことは知っている。
もちろんサンクスレターのことも。
「その子がさ、この瞬間を大切にしたい、って何度も書いてたんだよ。で、本当に大切にしてるんだ。初めの一歩を踏み出すときの不安とか、好きな人に話しかけられない情けなさとか、そういうの全部――いいことも悪いことも、大切にしてた」
口にしていて、自分でもびっくりするくらい腑に落ちた。
そっか。
あのサンクスレターの送り主に、俺はたくさん勇気をもらってたんだな。
「だから俺も、そう在りたいって思う。美緒が繋いだ命みたいに、俺だってこの一瞬を大切に生きていきたい。生きていかなきゃ、美緒に怒られるよ。『あの子は一生懸命頑張ってたのに』ってさ」
でも、と俺は続ける。
「これは俺の話。俺が勝手に抱いた希望で時雨さんの哀しさとか絶望を上書きしたりなんかしないよ。しちゃいけないって、この前思った」
「……そうだね。そういうのは凄く迷惑。ボクの生きてる世界とキミが生きてる世界は違うんだから」
そうだ。
俺には三人がいるけれど、時雨さんはそうじゃない。
時雨さんの世界には、自分しかいないのだと思う。そんな寂しい世界で今を見たって、哀しいだけだ。
「――それでも、傍にいさせてよ。せめて、雨の終わりが見えるまで。その
「……っ」
「向き合わなくてもいい。俺のことなんて見なくてもいい。ただ、時雨さんの
「っ、キミ、は――」
車は、ぐん、ぐん、と走り始める。
気付けば車窓は、都会より地方と呼んだ方がしっくりくるような景色を切り取っていた。まだ雨の終わりは見えていない。されど、光に近づいているという実感だけはあった。
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