5章#31 あるがままに我が儘を。
雨は止んで、心は病んで、されども綾辻は濡れたまま。
お面を被せたから素顔なんて見えないけれど、涙塗れなことくらいは容易に分かった。
「やだ。やだ、やだ、やだやだやだやだ」
綾辻は、やっぱり鏡を見ようとはしない。
駄々っ子のように『嫌だ』を繰り返して、黒狐のお面の中でシクシクと泣き続けるだけだった。
あまりにもみっともなくて、弱くて、ちっぽけな少女がそこにいる。
「なんでだよ。狐を見たい、って言ったのは綾辻だろ?」
「私が見たいのは……本当の、狐。お面の狐なんて見て、喜ぶわけない……っ」
「ならどうして、あの夏祭りの日――お前はそのお面を欲しそうにしてたんだよ」
「――……ッッ! 欲しそうになんてッ! してない! 百瀬が! 勝手に! 欲しいって決めつけて! 勝手に買っただけでしょ!」
「ばっかじゃねぇのお前っ!? いつもいつもそうやって、自分の強欲から目を背けてんじゃねぇよ!」
ああいっそ、と俺は思う。
世界が鏡で出来ていたらよかったのに。
そうすれば誰も、自分を見失ったりはしないんだ。いつだって自分と向き合わざるを得なくなる。
けど、とやっぱり思い直す。
時々は目を逸らしたくなる。そんなときにも自分と向き合わないといけないことは苦しいから、世界は今のままでいいのだ。
その代わり、手鏡を差し出す誰かが傍にいてあげればいい。
「いいよ、綾辻。お前がそんなに分からず屋だって言うなら、俺たちなりのやり方でやってやる。なぁ綾辻、
「答え、合わせ……?」
「ああ。綾辻が俺を嫌いになった理由、綾辻が自分を大嫌いな理由、綾辻がこの文化祭で活躍しようとした理由」
『ねぇ百瀬。答え合わせをしようよ』
『答え合わせ……?』
『そう。百瀬が雫と関わった理由、百瀬が私と関わった理由、百瀬が私とセフレになった理由』
あの春の会話をなぞるように、俺は告げた。
綾辻があのとき俺を見つけてくれたから、今の俺がある。だからさ、俺も見つけてやろうと思うんだ。綾辻澪っていう女の子を。
「っ、何言ってるか、全然分かんないっ」
「ああそうかよ。だったら俺が勝手に話す。好きに無視しろ」
お面の向こうで、きゅっと唇を噛むのが
「まず俺を嫌いになった理由。これは簡単だよな。だって、そもそも綾辻は俺のことを好きじゃなかった。お前が好きだったのは、自分を絶対に映し出さない魔法の鏡だったんだ」
「…………」
「俺は最初から綾辻と美緒を心のどこかで重ねてたからな。『綾辻澪』を少しも見ようとしてなかった。醜い自分を映さず、『世界一美しいのはあなた』って言ってくれる都合のいい魔法の鏡が欲しかったんだ。違うか?」
綾辻が欲しかったのは『美緒』のお面でしかなくて。
だからあの夜、綾辻は俺にゲームを仕掛けた。
俺は彼女に想われてなどいなかったのだ。
「っ……それの何が悪いの? 百瀬だって私を美緒扱いしたじゃん。私が百瀬を鏡扱いんして、何が悪いわけっ?」
「悪いなんて言わねぇよ。でもさ」
綾辻に好かれてなくたっていいんだ。
好意と厚意は必ずしも等価交換されるわけじゃない。好かれてなくたって、俺は綾辻と向き合いたい。
だって、
「俺は綾辻が好きなんだ」
「は?」
雫は、大河は、溢れるほどの想いをくれたから。
あの
「なのに綾辻は自分のことを嫌い続けてる。その理由はどうしてかって考えたらさ――」
「やめて。聞きたくない」
「じゃあ耳を塞げばいい。逃げればいい。そうしないで話を聞き続けてるお前は、本当は見抜いてほしいんじゃないのか? 自分の醜さを見抜いて、大嫌いになってほしいんだろ?」
「――っ」
そうはさせない。
俺は絶対に、綾辻を嫌いになってならないから。
「綾辻が自分を嫌ってる理由は――そうでもしないと、全部を自分のものにしたくなるからだろ」
「……え」
「本当の綾辻は、何もかも欲しくて堪らない強欲な女なんだ。そして、それを手にできるだけの才能もある。雫を含む周りの全員をなぎ倒して欲しいものを掴み取れちゃうから――だからこそ、わがままな自分を抑えるために嫌いになった。違うか?」
さっき雫と話すまで、俺も気付けていなかった綾辻の核心。
綾辻澪という女の子は正真正銘の化け物なのだ。もしかしたら、美緒や時雨さんをも凌駕するかもしれないほどに。
だから綾辻は自分を嫌い、自分以外の何者かになろうとした。
「じゃあ、そんな綾辻がどうして文化祭で活躍しようとしたのか」
「なに、言ってるの? 私は別に――」
「活躍しようとなんてしてない? それはちょっと無理筋だろ。ミュージカルの主演にミスコンへの参加。入江先輩並みの活躍だろうが」
「それは、望まれた『いいクラスメイト』を演っただけ。私の意思なんかじゃない」
この期に及んで往生際が悪い綾辻。
俺は彼女の頑固さを蹴飛ばすように言う。
「そういうことにしておきたいんだよな。そうしないと、大嫌いな自分を認めることになるから」
「違うッ!」
「違わねぇよ。お前は周囲から貰ったキャラを利用してでも自分の望みを叶えようとしてるんだ。『皆が望んでるから』って外向きの理由さえつければ、入江先輩も時雨さんも押しのけて、文化祭で一人勝ちしても言い訳ができるもんな」
「なっ……!?」
百瀬友斗は綾辻澪を見つめた。
そして、
「本当は、
「っ!?」
「わがままで、全部欲しくて、そのせいで周囲を傷つけるって分かっててもそれでも欲しがって……そんな自分が、本当は大好きなんじゃねぇのかよ?」
「っ、それ、は……」
「醜い自分を大好きになるなんていけないことだから、大嫌いだって自分に言い聞かせたんじゃないか、って。俺にはそう見えるんだよ」
場違いに思い出すのは、美緒とのやり取り。
真面目で正しかったあの子は、時に周囲から距離を置かれていた。いつもは何てことない顔をしている美緒だったけれど、時々そんな自分を嫌いになるときがあるみたいだった。
でもあの子は、言ったんだ。
今の自分が好きなんだ、と。
本当は嫌いたくないんだ、と。
だから俺は言ったんだ。
「もし澪が自分を好きになっちゃいけないって思うなら、それは違う。だって俺も澪のことが好きだからさ」
「…………」
「きっと、俺の方が澪のこと好きだよ。だって澪はわがままな自分しか見えてないだろ? でも俺は違う。わがままなところも、それ以外も、全部の澪を好きなんだ」
澪の濡れた前髪をかきあげて、見つめ合う。
「妹思いなところが好きだ」
「…………」
「和食好きなところも好き」
「…………」
「性欲強めなところも、孤高主義のくせに人と上手くやるスキルを持ってるところも好きだ」
「……っ」
「母親をママって呼んでるギャップも好きだし、皮肉屋で冷たくて毒舌なところも大好きだ。勉強も運動もできるくせに歌も演技もできちゃうハイスペックなところも、すげぇ好きだ」
「…っ」
「もちろん、強欲なところも好きだよ。あの夜、澪は欲しいもののために雫を傷つけてもいいって思ってただろ。ああいうのも、めっちゃ好きだ」
くすぐったくなって、つまりさ、と俺は話をまとめた。
「俺も澪を好きだから、澪も自分を好きでいていいんだ」
好きになれとは言わない。自分を好きになることの大変さは痛いほど分かっているつもりだ。
けれど、自分のことを好きならば。
その気持ちに嘘を吐いて、『大嫌いな自分』だなんて言わせない。
「……………………くしゅんっ」
後に残ったのは、長すぎる沈黙と、濡れすぎたことを報せるくしゃみだけ。
澪は合ってるとも間違ってるとも言わなくて。
認めるとも認めないとも言わなくて。
けれど、どこか愛おしそうに鏡を見つめて。
「百瀬のせいで、折角やったメイクどろどろ。これじゃ
そう上機嫌に、駄々をこねた。
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