5章#30 鏡を見ろよ。
氷みたいに秋雨が降り注いで、体の
哀も、愛も、相合傘の中にしまい込んで、そっと手を繋がせてあげられたら。
そう思うけれど、もう傘を差すのも億劫なくらいにシャワーを浴びていて、IとYOUの境界すら曖昧になってしまっていた。
「リハーサル、始まったな」
「ん」
「雨、ちょっとだけ弱くなってきたな」
「ん」
「カバ、口でっけぇな」
「ん」
益体のない言葉を交わすのは、言葉がまとまっていないからだった。色んなことを言いたくて、頭がぐちゃぐちゃになっている。
だから言葉は出ないのに、それでも綾辻と話していたかった。
「折角来たならパンダも見たかった。綾辻は見たか?」
「ん」
「今いるのって何て名前だっけ。リンリン? シンシン?」
「知らない」
「名前も知らないパンダを見たわけか。まるでアイドルの区別がつかないのに音楽フェスを見てるジジババだな」
綾辻はこちらに一瞥もくれない。
膝に顔を埋め、濡れネズミの如く丸くなるだけ。
「なにその喩え。意味わかんない」
「比喩の意味くらい読み解けよ、学年1位」
「不適切な比喩の読解とか無理だから。痛い脚本家の比喩ならなおのこと」
「リハをばっくれる最悪の女優には言われたくねぇよ。業界じゃ一回でも嫌われたらおしまいだぞ」
「しょうがないでしょ。狐が見たかったんだから」
「狐がいる動物園への行き方すら分からないポンコツが何言ってんだか」
「慣れてないだけだし」
青がアイから出でるなら、その“アイ”は愛だろうか、哀だろうか。
藍色よりも暗くなった綾辻と俺のジーンズを見て、ふと思う。
あぁ寒い。どうやら本格的に秋が近づいているらしい。なのにどうしてだろうな。この状況には、ちっとも飽きがきていない。
「俺たちどう見てもヤバい奴らだよな。ほら見ろ、カバが『何やってんだこいつら』みたいな顔してるぜ」
「私は違うから」
「いいや、一緒だから。むしろ綾辻のが先だから。お前、カバに馬鹿って思われてるぞ。前代未聞で笑えるな」
「笑えないし。馬鹿なのはそっちでしょ」
たぶん、こうしているだけで心地よかった。
拒絶されてるって分かってるんだ。なのに綾辻とこうして話せていることが、泣きそうなくらいに嬉しい。
「馬鹿って言う方が馬鹿だぞ、とか水掛け論で対抗してやろうか?」
「要らない。なんで雨に濡れながら水掛け論なんてしなくちゃいけないわけ」
「……お前、今ちょっと上手いこと言ったなって思っただろ」
「…………そっちこそ、さっきからドヤ顔してるのが見え見えなんだけど」
「こっちこそ、綾辻がムスッて不細工な顔してるのが分かるぞ。美緒に似てるけど、美緒よりよっぽど不細工な顔」
本当に不思議なことに、俺も綾辻も、もうお互いの顔を見る必要なんてないんだよ。
体の染みの数も、ほくろの位置も、気持ちいい場所だって知ってるから。
目を瞑ってても分かる。
「……で。百瀬は何しに来たの?」
「言っただろ、それくらい分かれって」
「っ。リハのためなら、もう遅いでしょ。帰りなよ。百瀬、学級委員長じゃん」
「副委員長だろ、綾辻も」
ま、うちのクラスは俺が実行委員として動く分担だけど。
「クラスの皆にだって信頼されてるじゃん」
「主演女優への信頼の厚さに比べれば、俺なんて全然だぞ」
「文化祭明日だよ。なんかあるんでしょ、やらなくちゃいけないこと」
「あるよ、山ほど」
「なら――」
「綾辻がいなきゃ、そんなの全部意味がない」
「っ……」
「雫がいて、大河がいて、俺がいて、そこに綾辻もいてくれなきゃ、俺はちっとも楽しくない。楽しくないことのために働くなんざ嫌だね、俺は」
「私なんか、いてもいなくても関係ないでしょ。もう私は美緒じゃないんだから」
拗ねるように綾辻が言う。
雨音が掻き消してしまいそうな呟きなのに、虹みたいにはっきりと聞き取れる。哀しい七色を塗り替えたくて、俺は言い返す。
「俺は綾辻がいなきゃダメって言ってるんだよ」
「…………百瀬が何を言ってるかなんてどうでもいいし」
会話を続ける意思はなく、綾辻は会話をぶつりと断ち切ってしまう。
雨脚がだんだん弱まっていく。
もう雨で何かを覆い隠してはやらない、とでも言いたげに。
眩しさから逃げるのは許さない、ときっぱり告げるみたいに。
「なあ。どうして動物園に来たんだ?」
「…………狐が見たかった」
「狐がいない上野に来て?」
「うっさい。知らなかったんだよ」
「んじゃ、雨でずぶ濡れになってた意図は?」
「…………暑かったから」
「涼もうとして、ってか? こんなに冷たくて震えてるくせによく言うよ。こんなんじゃ風邪ひくぞ」
「うっさい、うっさい、うっさいっ」
声は大きくなるくせに、語調はだんだん弱まっていく。
雨と同じように思えた。
天気雨はいつまでも続いてはくれない。
雫よりも滴と呼びたい雨粒たちは、お前たちが傷ついてるのは俺のせいじゃないぞ、と言っているみたいだった。
「帰ろうぜ、綾辻。皆が待ってる」
「やだ」
「なんで?」
「狐、見てない」
「狐を見たら帰るってのは本当なのか?」
「さあ知らない。どうでもいい」
「知らないってお前なぁ……もう、6時近いぞ。今から学校に戻ったって7時だ」
「戻ればいいじゃん、百瀬だけ」
そんなことを寂しそうな声で言う彼女は、誰がどう見たって拗ねる駄々っ子でしかなかった。
掠れるような弱雨を受けながら、こつん、と頭を後ろに傾ける。
後頭部がぶつかって、綾辻の髪が暖水を伝えてくる。どんなに冷え切っても、体温は他のものより温かくて、シャワーよりちょっと低い程度なんだよな。
そう思ったら、冷たさ、なんて言葉が滑稽に見えてきた。
「本当に、狐を見たら帰るんだな?」
綾辻の首が微かに動いた。肯定の意。
ちく、たく、ちく、たく。
ぽっけに突っ込んできただけの懐中時計が、そんな風に時を刻んでいる気がした。
時計がなければ、人は定量的な時を気にしたりしない。
一秒、一分、一時間、一日、それから一週間と一か月、おまけに一年。
全ては時の澪標なんじゃないか、なんて。
意味のない言葉遊びを頭の中で膨らませながら、俺はバッグを漁った。
「ったく……そんなに狐と会いたいなら会わせてやる。こっち向けよ、わがまま娘」
「何言ってんの、馬鹿馬鹿しい」
「ほんと世話が焼けるよな、綾辻は」
ならもう、と思って綾辻と背中を離す。
綾辻の前に回り込むと、独りぼっちみたいに膝に顔を埋めていた。
「ハッ……ただでさえちっちぇのに、そんな風に縮こまってどうすんだよ。バッグにでも入る一発芸やるか?」
「やらないし、そんなに小さくないし」
「だったらせめてこっち向けよ。お望み通り、狐を連れてきたんだから」
「っ。いちいち、うっさいなぁ……ッ! 狐なんて――なっ」
いい加減耐えきれなくなった、とでも言うように。
綾辻が顔を上げる――その刹那。俺はバッグから取り出していた黒狐のお面を綾辻に被せた。
「――っ、何言ってるの……!?」
「いいからとっとと見ろよ、この馬鹿女! 強欲狐はすぐ近くにいるだろッ!」
黒狐のお面と共に持ってきたとあるもの――即ち、鏡――を綾辻に向けて。
「もう……鏡から目を逸らすのはやめろよ! 狐なんて見に来なくたって、鏡を見ればいるだろうが――ッ!!」
すっかり空は晴れて、ぽつぽつと小雨だけが居残っている。
出来合いの狐の嫁入りが終わって、俺はようやく綾辻澪と向き合った。
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