4章#09 頭を冷やしなさい
「あっちぃ……」
時雨さんが指定した月曜日は瞬く間にやってきた。
生産性のない夏休みを過ごしているせいで毎日が早く感じるっていう指摘はノーセンキューで。
俺だって一応、この夏休みには色々やるべきことがあるんだぜ?
例えば、そう。
文化祭のミュージカル用の脚本とかな。
クラスで話した結果、俺は脚本をやることになった。なぜそうなったのかは未だに疑問だが、脚本を書ける奴がいなかったのだからしょうがない。いや、俺も書けないんだけどさ。
流石に脚本は企画が通ってから書くことになっているが、その前にプロットを書かなくてはならない。大筋のストーリーと、あとは曲だな。どんな場面でどんな曲を歌うかくらいは早めに伝えないと伊藤が困りそうだ。
で、そんな風に忙しい俺は。
なぜか今、生徒会室で体育着に着替えさせられていた。
「キミ~! もう着替え終わった~?」
「そんな風に声かけると色々とアレだからマジでやめて?! っていうか今着替え始めたばっかりだし」
と、生徒会室の外で待っている時雨さんにはっきり言う俺。
その他に生徒会室には誰もいない。どうやら今日は、俺と時雨さんのみが出勤だったらしい。
生徒会は夏休み、基本的に休みとなる。
これには幾つか理由があるが、主な理由はその後が馬鹿みたいに忙しくなるから。
8月中旬からは文化祭でてんてこ舞いになるし、10月からは生徒会選挙が始まる。11月中に引継ぎを終えたら、12月は冬星祭。どれも生徒会として、体育祭のとき以上に働かなくてはならなくなる。
……まぁ8月中旬は普通に夏休み真っ最中だし、あくまで前半が休みってだけなんだけどね。
だからまぁ、他のメンツがいないのは当然なのかもしれない。
これはきっと、時雨さんが単独で受けた案件なのだろう。それに付き合うくらいのことは俺だってやろうじゃないか。どうせ家にいてもプロット進まないし。
「終わったよ」
「うん。じゃあ一緒に来て」
「いいけど……時雨さんは着替えないの?」
夏服のままの時雨さんに尋ねると、真顔で質問返しをされた。
「そんなにボクの着替えが覗きたいの?」
「そんなつもりはないから! っていうか従姉の着替えを覗くほど拗らせてないし」
「ふぅん?」
挑発的に頬を緩めると、絹のような髪を耳にかけた。
露出する泣きぼくろは一番星みたいに見える。瞳はどこまでも澄んでいて、あぁ凄いな、と改めて実感した。
時雨さんはまるで幻のような人だ。
ふわふわと現実感がなくて、どうにもこうにも掴みにくい。
へっ、と笑い飛ばして、俺は軽いトーンで言った。
「時雨さんは従弟に着替えを覗かれたい趣味でもあるの? だとしたらちょっと引いちゃうんだけど」
「キミってそういうところあるよね」
「その台詞、時雨さんにそのまんま返したいよ」
クスっと微笑を零すと、時雨さんは俺に背を向けた。
「残念だけど、ボクは今日、別にやることがあるから。キミはもう一人の子と頑張って」
「……え? ちょ、待っ――」
「さぁ行くよ。早くしないと終わらないだろうし」
そこはかとない嫌な予感を抱きながら。
俺は時雨さんを、渋々追いかけた。
◇
「さて、と。これで今日のメンバーが揃ったね」
「時雨さん。どういうことか説明してほしいんだけど」
「んー? さっき、説明したと思うけど」
時雨さんを追いかけて俺が辿り着いたのは――プールだった。
うちの学校では体育の授業に水泳がないため、ここにくるのは初めてになる。一応プールがあること自体は知っていたが、卒業まで来ることはないと思っていた。
けれど、そんな俺の心情はさらっとスルーし、時雨さんはどんどん話を進めていく。
「うちの水泳部のプール開きが明日からなんだよ。それでね、水泳部と話して私たちがプール掃除をしておくことになったの」
「何故に……? 普通に水泳部でやればいいんじゃ」
「それは楽しそ――こほん。プール掃除で遊んで怪我されちゃうと困るでしょ? なら生徒会でやるべきかなって」
「楽しそうだったからって言おうとした口でよくもまぁ、そんなことを……」
絶対こじつけの理由じゃん、と視線で咎めるがやっぱり無視された。
「だいたいさ、俺と
なるべく大河の方には視線を向けずに俺は言う。
案の定と言うべきか、時雨さんの言う『もう一人の子』は大河だった。先にプールに来ていた大河は俺の顔を見て驚いていたので、きっと大河も時雨さんにはめられたクチだろう。
俺の主張に、大河は毅然な態度で追随した。
「霧崎会長。百瀬先輩に同意するのは不服ですが、私もそう思います。せめて他の方もいないと、明日に間に合いません」
「そうかもしれないね。それなりにメンテナンスはしてあるとはいえ、結構汚れてるし」
「「なら――」」
大河とハモったことに罰の悪さを感じるのも束の間。
時雨さんは、けどさ、と続けた。
「キミたちがそんな風に険悪なのに他の子を呼ぶのは申し訳ないよ」
「……っ」
「…………」
力強い時雨さんの一言。
俺は唇を噛み、大河は押し黙った。それでも時雨さんはやめようとはせず、あまつさえトドメを刺してくる。
「はっきり言って――キミたちがそのままだと迷惑なんだよ。空気が悪くなる。大変だけど楽しい空気で。それができない子はどんなに優秀でも、うちの生徒会には要らないよ」
それは暗に、終業式の日の俺たちを咎めているようだった。
いいや『俺たち』と表現するのは大河が可哀想だ。
「待ってよ、時雨さん。悪いのは俺であって入江じゃない。入江にそんな風に言うのは――」
「喧嘩両成敗がボクの信条だから。仮に大河ちゃんに非がなくとも、キミがそうなってしまうような伝え方をしたのは未熟だ。怒らせてしまった側も怒ってしまった側も、お互いに非があるとボクは思う」
「そんなの、暴論だよ」
どうしてそんな風に言うんだよ。
俺が悪くて大河は悪くない。それくらい、時雨さんだって分かっているくせに。
時雨さんは剣呑な表情を浮かべ、デッキブラシとバケツを渡してくる。バケツの中には掃除用の洗剤だか薬剤だかも入っていた。
「暴論でもなんでもいいよ。これはキミたちへの罰だから。汗を流してプールを洗って、頭を冷やしなさい。そうでもしないと――夏休み、ずっとそのままだよ」
じゃあね、と言って時雨さんはプールを後にする。
その背中を見送り、俺は思った。
もしかしたら本当は、生徒会全員で楽しく掃除をするつもりだったのかもしれない。夏休みが終われば文化祭。それが終われば――時雨さんは引退だ。
皆でひと夏の思い出を。
時雨さんならそんな風に考えたっておかしくない。
俺と大河がこんな風にならなければ、キラキラ眩しい夏の思い出ができていたかもしれないのに。
ズキズキと胸が痛む。
まただ。また俺は、やってしまった。バケツの取っ手を握る手に、自然と力がこもる。
『兄さん、ちゃんとして』
美緒の言葉が、頭の奥でずしんと響く。
何度も何度も、この夏は美緒の声が聞こえる。
美緒がいない、苦しくて永い夏休みが戻ってきているみたいだと思った。
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