4章#08 キミはそういうの、ない?

 田々谷大学は、色んな大学の中でも特に文系方面が強い。文芸サークルはそれなりに有名で、毎年出版社やそれに類する業種に就職する学生は多いのだそうだ。

 そんなこともあってか、田々谷大学の図書館はびっくりするほど充実していた。


 まるで本の森みたいだ、と思う。

 或いは『まるで』と『みたい』を取り除いても違和感を抱かないほどに。


 本の匂いが心地いいと思ったのはいつからだろう、と考えてみる。

 少なくとも最初からそう思うほど文学少年ではなかった。父方の実家にはたくさん本があったけれど、そもそも本の匂いを嗅いでみるなんてこと自体、俺はしていなかったから。


 じゃあいつか――なんて、そんな問いの答えはすぐに出てくる。

 本の虫だった美緒に本を一冊、薦められたときだ。紙の匂いと、仄かなカビの臭い。古い本のその香りを知ったとき、本に匂いがあるのだと気付いた。

 それからだったな。本にしろゲームにしろアニメにしろ、物語に惹かれるようになったのは。


 図書館を出たら、今度は当てもなく敷地内を歩き回ってみた。

 大学は凄い。

 高校の何倍も大きくて、一つの街みたいになっている。誰もがそれを当然のように受け入れているけれど、俺にはちょっとだけ不思議なことのように思えた。


 校舎を包み込む緑。

 青々と茂った植物は、何て名前なんだろうか。

 ほんの少しファンタジー世界みたいだ、と思いつつ。

 現実なんだよな、とも強く感じる。


「どう?」

「……どう、って言われてもね。広いな、とか。それくらいかな」

「そんな感想じゃ、感想文は再提出だよ」


 指でばってんを作った時雨さんは微笑を浮かべた。


「そう言われてもなぁ。大抵の高校生が大学に抱く感想って、こんなものじゃない?」

「そう? ボクは色んなことを思うよ。たとえば――」


 目を瞑ってみて。そう時雨さんが言う。

 言われるがままに目を瞑ると、時雨さんは寝物語を言い聞かせるように言葉を紡ぎ始めた。


「大学に入って、ボクには今とは少し違う友達ができるの。変わり者で、おかしくて、けど素敵な人たち。そんな人たちと毎日楽しく笑って、時には愚痴も零して、そこの学食で『あんまり美味しくないね』『けど安いからいいじゃん』って言うんだ」

「……大学、あんまり関係なくない?」


 言ってみるけど、時雨さんは取り合わない。

 ワクワクした調子で時雨さんは続ける。


「20歳になったらお酒を飲もうかな。飲みすぎちゃった友達を家まで連れて帰って……その帰り道に、ふと空を見上げてみるんだ」

「もはや大学ですらない気が」

「お酒臭くて。『お酒飲めても大人にはなれてないね』なんて言い合って。そのまま、普段なら恥ずかしくなるような将来の夢を話すんだ」

「…………」

「どうせお酒で忘れちゃうって思ってるから、たくさん喋りすぎちゃって。けど意外と忘れてなくてね。でもそれがきっかけで、少しだけ夢が目標に変わる。『言ったからにはやってみよう』って思って、未来に向かって頑張ってみたくなる。そんな大学生活が送りたいな、ってここにいて思うよ」


 それは、特別なことじゃなかった。

 ありふれた、けど多分現実からは程遠い話。時雨さんが語るような彩のある大学生活は滅多になくて、本当のところはもっとずっとモノクロームなのだと思う。


 でも、ううん、だからこそ。

 時雨さんの語る未来は絵本みたいに素敵で、夏に語るのにぴったりに思えた。


「キミはそういうの、ない?」


 目を開くと、時雨さんが聞いてくる。

 力なく俺は頷いた。


「ないよ。就職とか、勉強とか、考えなきゃいけない現実ばっかりが頭に浮かぶ。捻くれてるからね」

「そっか」


 儚げな泣きぼくろが優しく見えた。

 この話はおしまい。

 そう告げると、時雨さんはお腹をさすりながら言った。


「お腹空いちゃった。ご飯行こっか」

「……だね」


 あっという間にもう昼過ぎだ。

 流石にあの会話をした後に学食に行くのも違うように思えたので、俺たちは近場の時雨さんのおすすめ店に向かった。



 ◇



「食べよっか。いただきます」

「いただきます」


 時雨さんのおすすめのお店はパスタ屋さんだった。

 俺のところにナポリタン、時雨さんのところにカルボナーラが届いたので、二人で合掌し、食べ始める。

 俺が粉チーズでナポリタンに雪化粧をしていると、時雨さんはクスクスと笑った。


「キミは本当にチーズが好きだね」

「まぁね」


 昔さ、と時雨さんは懐かしむように言って続けた。


「キミがナポリタンにたくさんチーズをかけてて。それで怒られてたよね。美緒ちゃんに」

「そんなことも、あったかな。昔のことすぎて覚えてないよ」

「そうやってすぐバレる嘘をつくのはお姉さん感心しないなぁ」

「…………覚えてるよ、鮮明に」


 俺が美緒のことを忘れるなんて、そんなのありえない。

 だって今でもまだ囚われているのだから。世界一大切な子だ、と今でも断言できるのだから。


 クルクルとパスタを巻きながら、時雨さんはそっと口を開いた。


「キミは美緒ちゃんによく叱られてたよね。『ちゃんとして』『迷惑かけちゃだめ』『危ないことしないで』って」

「それだけ聞くと、俺って結構悪ガキだね。二つ年下の妹に叱られてるとか……」

「今更?」

「真顔はやめてぇ……」


 へなへなと声を漏らすと、時雨さんは楽しそうに目を細めた。

 もぐとパスタを咀嚼するその姿は、実に様になっている。口元についたカルボナーラのソースすら、時雨さんを彩っているように見えるから不思議だ。


 チーズ塗れのナポリタンを頬張ると、ピーマンの苦みを最初に感じる。

 そういえば小さい頃はピーマンも食べられなかったよな。好き嫌いがなかった美緒は、俺に『ちゃんと食べて』って言ってきた。

 俺はつくづく美緒に叱られていた。叱られることでちゃんといられたし、叱られたくてあえて無茶をしたときもあったっけ。


「叱るのにも色々あるよね」


 と、時雨さんが言う。


「色々?」

「そう。理不尽なお説教もあるし、真っ当で事務的なものもある。あとは……愛の鞭、とかさ」

「愛の鞭って言うのは、大抵の場合パワハラの言い訳だったりするけどね」

「もう。またそうやって捻くれたこと言って」


 しょうがないじゃないか。

 時雨さんが何を言おうとしているのか、何となく分かってしまったから。

 この話にはそれ以上触れたくないって、そう思っているから。


 なのに時雨さんはやめてはくれない。

 こっちのことなんてお構いなしに、言いたいことを言う。

 それは大河と同じように見えて真逆の、呆れるほどに自由な在り方だ。


「美緒ちゃんのあれは、きっと愛の鞭だったと思う」

「……そんなこと、言われなくても分かってるよ」

「なら同じようにさ。大河ちゃんも、キミに愛の鞭を振るったんだって思えないの?」

「……っ」


 時雨さんには何も話していない。

 それでも俺と大河を見て、何があったのか察したのだろう。

 大河が俺のことを想って、説教をした。それは、俺たちのことを知っていれば容易に想像できることだろう。


「そんなの……分かってる」

「なら――」

「だからこそ、入江とはもう関わるべきじゃないんだよ」


 時雨さんの言葉を遮って言う。


「何があったのか、話してはくれないの?」

「時雨さんには関係ないことだし、そもそも誰にも話すつもりはないよ」

「そっか」


 残念そうに俯く時雨さん。

 フォークに巻いたパスタをはむりと食べ、時雨さんは呟いた。


「話さない方が困らせちゃうことだってあるんだよ」

「…………うん」


 それは、以前時雨さんが俺に言ったことだった。

 時雨さんはあのときも今も、何も知らなくてある程度知っている。

 そんな時雨さんの言葉が突き刺さるのは、それだけ俺が脆くなっている証なのだろうか。


「けどやっぱり話せないよ」


 あのときは結局、澪の強さに甘えてしまった。

 そうして美緒について話したことをアヤマチだと断じるつもりはない。が、大河に対して同じようにしていいとは決して思えない。というか、思ってはならないのだ。


「そっか」


 時雨さんはそれから先、そのことには触れなかった。

 パスタと共にその話題ごと飲み込んだみたいに、けろりとした顔で別のくだらない話をしてくれる。


 その気遣いは優しさなのか、それとも失望なのか。

 時雨さんの霧みたいな笑みは答えを包み隠してしまっていた。



 ◇



「今日はありがとうね」

「ううん、こっちこそ。意外と参考になったし、楽しかったよ」


 帰り際、俺たちはそんな風に言葉を交わした。

 参考になったと感じているのは本当だ。元々田々谷大学に進学するつもりではあったが、より推薦を取れるように頑張ろうとも思えた。


 時雨さんを家まで送ると、あっ、と時雨さんが何かを思い出したような声を上げる。


「言い忘れてたけど。来週の月曜日って空いてる?」

「え? ん、まぁ空いてるけど」

「じゃあ生徒会の仕事だから来てね。持ち物は体育着。分かった?」

「え、あ、うん……体育着? なんで?」

「内緒」


 夕日が作る影みたいに、時雨さんがふっと笑った。


「はいはい、もう帰って。さもなくばお父さんとお母さんがキミのことを大歓迎しちゃうけど」

「うっ……帰るよ。帰るから呼ばないで」

「ボクが言っておいて何だけど、ボクのお父さんとお母さんのことを嫌いすぎじゃない……?」


 別に嫌いってわけじゃないよ?

 ただノリがうちの父さんと義母さんより凄いんだ。今二人と話す体力はない。


「じゃあ、また」

「うん。またね」


 時雨さんと別れ、俺は西日を背に歩き出す。


「生徒会、か……」


 夏休みの仕事はほとんどない、って思ってたのに。

 ふと思う。

 もしもブロックを解除したら、あいつからメッセージが届くのだろうか。

 もう見限って、メッセージなんて一通も送ってきてはいないのだろうか。


 スマホを取り出して試しそうになって、すぐにやめる。

 大河が来ないといいな、と。

 卑怯に俺は、そう心から祈った。

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