3章#28 頭がバカになってきました

 SIDE:友斗


 勉強会が終わったのが午後6時頃だった。あまり長時間やりすぎていても、如月や八雲の集中が持たない。如月と八雲には事前に作っておいた練習問題を渡し、テストまでに解いておくように伝えた。


 そうして家に帰り、夕食を摂り終えた俺は、自分の部屋で勉強に励んでいた。

 前回のテストでは、初めて学年1位をとることができた。綾辻と同率だったとはいえ、あの成績はかなり嬉しかった。

 ああやって、結果が数値化されるのは分かりやすくていい。今の俺は、社会一般が求める『正しいこと』『称えられるべきこと』を求めている。テストは手軽に結果を得られる、ちょうどいい機会だ。


 するすると解いていくのは国語。といっても、小説ではない。論説文や評論は、読んでいて気持ちがいい。読めば読むほど、良い人間になっていく気がする。

 論理関係を紐解き、ワークが出す問いに答えを示す。また全問正解。ひっかけようとタチの悪い問題文を出されるとムッとするが、性悪な文学よりはマシだった。


 ――こんこんこん


 不意にノックの音が聞こえた。隣の部屋……ではないだろう。


「誰だ……?」

「さあ、誰だと思いますかっ?」

「……声を出したら一発だろうが。なんだ、雫かよ」


 まぁ、実質二択だけどな。

 父さんも義母さんも、ゴールデンウィークで家族旅行をした分、今は仕事に専念している。夏休みに帰省のチャンスを得るために頑張っているのだとか。


 ドアを開けてやると、雫が部屋に入ってくる。

 ふんありとシャンプーが香って、くすぐったい。


「えへへ。ごめんなさい、急に」

「いや、別にいいぞ。勉強してただけだしな」


 こちらを見遣った雫は、髪を耳にかけながら笑った。


「それで? こんな時間に、なんか用事でもあったか?」


 既に午後11時を回っている。普段の雫であれば、寝ていてもおかしくない時間だ。こんな時間に異性の部屋を訪ねるのだから、それ相応の理由があるはず。

 見返した雫の瞳には、女めいた色が混じっていた。


「甘えたくなったんです」

「そうか」

「はい、そーです。さっきの。八雲先輩と如月先輩を見て、いいなって思ったんです。とっても幸せそうで、愛し合っていて」

「……そうだな」


 雫が俺から離れ、ベッドに腰を下ろす。欲しがるような目つきが、毒林檎みたいに甘かった。


「ねぇ先輩、私たちも彼氏と彼女ですよね?」

「そのつもりなんだけどな。雫は俺が彼氏じゃ嫌なのか?」

「そんなこと、あるわけないですっ!」


 そうじゃなくて、と雫が首を振る。

 べったりと高湿度の期待に濡れた表情のまま、彼女は手を広げた。


「きて、ほしいです」

「……ハグってことか?」

「ベッドで抱き合う男女がそれで済むと思うなら」

「……済むわけないだろ。雫は魅力的な女の子だ。男子なら誰だって、そういう欲が湧く」

「いいんですよ、そーゆう欲をぶつけても。だって私、先輩の彼女ですもん」

「それは……そうかもしれないけどな」


 雫はシたがっている。

 なに、特別なことじゃない。雫は乙女だ。だからセックスというものを知らない。痛さも空しさも、幻想で包み隠してしまっている。

 有り体に言えば、雫は夢を見ているのだ。

 ゲームみたいに、セックスで何かが変わる、って。


 そんなことはない。

 あれはただの性行為だ。凹凸をこする、気持ちよくなるための行為。それを知らない雫が暴走するのなら、知っている俺がブレーキを踏むしかない。


「ハグだけだ。R18版はちゃんと大人になってからするって決めてる」

「えへへ、先輩らしいですね。……じゃあ、きてください」


 雫は手を広げたまま、ベッドに寝転がった。パジャマがはだけて、胸元が危うくなる。ナイトブラだろうか? 俺の知る下着とは少し違う雰囲気のブラの紐がちらりと見えた。

 ベッドに寝て、雫を抱き締める。ハグと添い寝。これくらいなら全年齢版でも許されるシーンだろう。雫を抱擁する力を、少しだけ強める。


「えへへ、あったかいです」

「もうすぐ夏だぞ。暑苦しいだろ」

「かもですね。暑くて、頭がバカになってきました」

「……雫?」

「布団、被りましょっか」


 雫は片付けるのが面倒だからとベッドの隅に追いやっていた冬用の布団を引っ張り、ふぁさっと俺と自分を覆った。途端に暑苦しさが増す。

 薄暗いのに目が慣れると、今度は火照ってバカになってる雫の顔が視覚を独り占めした。嗅覚は汗とシャンプー。だんだんと前者の匂いが増していく。いやらしかった。


「先輩。別に、全年齢版ってそーゆうことをシないわけじゃないですよね? 事後のシーンまでスキップされるだけですよね?」

「…………」

「ねぇ。先輩は私のルート、入ったんですよね? 私、先輩の彼女なんですよね? ならそろそろエッチなこともシないと、もったいぶったシナリオだって言われちゃいますよ」

「落ち着け。雫は八雲たちに中てられてるだけだ」

「知ってますよ。でも、人の影響を受けるのって当然ですよね? 上手くいってる人を見て、自分も、って思うのは悪いことじゃなくないですか?」

「……物事には順序があるだろ?」

「ありますね。その順序も、ちゃんと踏んでます。付き合って、手を繋いで、キスもしました。次はエッチですよね?」


 ブレーキが故障していた。雫の、じゃない。俺のブレーキのことだ。雫が乱暴に扱って、俺のブレーキを壊していく。事故を起こせと言わんばかりだった。


「ひゃぅっ!? せ、先輩……!」


 ちろりと舌を出せば、雫の首筋に当たった。


「もっと舐めてください。私、汚いから。先輩に綺麗にしてほしいんです」

「任せろ」


 生え際をちゅぷりと吸う。汗の味がした。舌を這わせ、やがて耳元にたどり着く。あからさまなリップ音を鳴らすと、雫の体が緊張した。

 唇を離す代わりに、舐め取った部分を指でなぞる。唾を塗り広げるように指を動かした。今日の俺はたくさん正しいことをした。爽やかな青春と清い教養。両方を摂取した俺の唾なんだから、綺麗に決まってる。浄化してあげるのだ。マーキングみたいな下品な行為と一緒にされたら困る。


 もっと下卑た行為だ。


「キスするよ」

「はい」


 くちゅ、唇を合わせる。

 この前、どうして上手いんだ、と責められたことを思い出す。俺はあえて下手な振りをして、乱暴に舌を潜り込ませた。雫の目が喜色に染まる。

 今俺はどこを舐めてるんだろう。分からなかった。考えてなかったから。雑に雫を貪る。初めての彼女との夜。つい我慢ができなくなった男子……みたいなイメージで。


 やがて雫の方も舌を絡めてきた。丁寧で懇ろな動き。勉強を教えているときみたいに舌で導く。

 雫の股に脚を滑り込ませる。付け根の部分に膝を押し付け――ようとした、刹那。


『忘れないでね。兄さんと初めてキスをしたのは私だから』


 美緒の声が蘇る。

 俺は口を離し、ぷはぁ、と酸素を取り込んだ。


「先輩?」


 雫が哀しげに首を傾げた。

 せりあがってくるものを堪えながら、彼女の頭を優しく撫でる。


「ごめんな。こういうことをするって想定してなかったから……用意してないんだよ」

「……?」

「ったく。このヒロインは察しが悪いな……ゴムだよ、ゴム」

「あっ」


 嘘はついてない。


「中途半端じゃ止まれなくなるだろうから……ちゃんと用意してるときにシたいんだ。雫のこと、大切にしたいからさ」

「っ…女の子をダメにすること言いますよね、先輩って」

「彼女を大切にするのは当然のことだろ?」


 布団を剥いで、ベットから起き上がる。

 最後にもう一撫ですると、雫もベッドから降りた。


「そ、そーゆうことなら……今日はおあずけされてあげます。据え膳を食べ損ねたこと、後悔しないでくださいねっ」

「顔を真っ赤にしながら言うことじゃないからな、このうぶ」

「うぅぅぅぅ~! 年上の余裕かましやがってぇ~!」


 わちゃわちゃと、いつもの雫らしいやり取りに戻る。よかった。ほっと胸を撫で下ろすとともに、雫を部屋まで送り届ける。


『忘れないでね。兄さんと初めてキスをしたのは私だから』


 今一度美緒の言葉を反芻しながら、俺は小さく溜息を吐いた。

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