3章#26 そういうことなら任せるか
「おぉぉ……結構立派な家。ここに一人暮らししてるのか」
大河の家に着いてまず思ったことは、一人暮らしに不似合いすぎる、ということだった。
どっしりと存在感のあるその家は、二階建ての一軒家。表札には古めかしいフォントで『入江』と書かれている。
てっきりアパートかと思っていただけに戸惑ってしまう。
そもそも高校生の一人暮らし自体が割と珍しいはずだ。
俺の場合はあくまで実質的な一人暮らしだったし、今では三人暮らしになっている。
やはり何かしら事情があるのだろう。だからなんだ、という話だが。
「親戚が昔住んでいた家なんです。どうせ一人暮らしなら使っていい、と言われまして。なのでところどころ古いところもありますがご理解ください」
「なるほどな。まぁ了解」
大河に案内されるままに家にあがる。
きぃ、きぃ、と床が音を立てるがだからといって壊れそうだとは感じない。むしろ風情があって好ましいとすら思えた。
「ほぇ……いいなぁ。俺も一人暮らししたい」
「そうねぇ。けれど、一人暮らしだと家事も大変よ。ね、大河ちゃん」
「あ、はい。確かに少し大変ですね」
だろうな、と思う。
綾辻と雫の二人と分担している俺でも忙しいときにはきついな、と感じる。去年のピーク時には家事を疎かにしまくってたし。
そっかぁ、と八雲が渋い顔をする。八雲は料理ができないんだもんな。代わりに裁縫はできるという謎のチャームポイントを抱えている。
がっくしと項垂れた八雲は、しょぼしょぼと呟いた。
「けど大学入ったら同棲……」
「ふふっ、そうね。そういうことも考えましょうねっ」
「――っ、い、今のは独り言だから! まだ決めたわけじゃないし、その……」
「大丈夫よ。ちゃんと分かってるから」
……甘いよぉ。
目の前でイチャイチャを繰り広げられると本島に口の中が甘くなるんだな。尊いわぁ。眼鏡カプ尊い。如月が主導権握ってる感じがいいっすわ。
「ねぇ百瀬。口がにやけすぎてる」
「モモ先輩……」
「二人して冷たい視線を向けてくるのやめてね? 俺、凍傷になっちゃうから」
そうそう、今日は勉強会なのだ。カップルの鑑賞会ではない。
くっと頬を引き締める。
なお、雫も俺と同じことをしていた。オタク思考的には雫が一番俺に近いもんな。
そうこうしている間に大きなテーブルがある畳敷きの部屋へと辿り着く。
「ここで大丈夫ですか?」
「おう、問題ない。サンキューな」
「いえ。お手洗いは真っ直ぐ進んでもらうとすぐに見つかると思います。他に何かあったら言ってください」
なんというか、絵に描いたように勉強会向きの部屋だ。
これなら勉強も教えやすいだろう。
「さて、と。んじゃやりますか」
如月と離れがたそうにしている八雲の耳を引っ張るという古典的なことをしつつも。
勉強会が幕を開けた。
◇
――勉強って何のためにするの?
この問いは、きっと誰もが抱いたことのあるものだろう。単純な読み書きや計算だけなら、まだ日常に近しいから『役に立っている』という感覚がある。
けれどもある時期から、勉強は一気に日常から遠ざかる。小学校の高学年頃からそれは顕著になり、中学校の勉強ともなると、いよいよ『これ、必要あるんか?』と言いたくなる内容だ。
なかでも酷いのは高校数学なんじゃないか、と俺は思う。
高校数学の難易度の高さは文系学生なら誰もが実感したことがあると思う。
よく『高校数学は社会に出ても役に立たないかもしれないが、高校数学すらできない奴は社会に出ても役に立たない』的な言説を見る。だがそもそも、人を有用か否かで判断している時点でそういった言説は浅慮だと言わざるを得ない。
「くそぅ。分かんねぇよ、俺にはもう分かんねぇ」
「はぁ……分かったからやるぞ。ちゃんと教えてやるから」
と、まぁそんな感じで勉強の意味には懐疑的な俺だけれども。
何をどうしようと目の前の期末テストはなくならないし、このままでは八雲は絶対に赤点を回避できない。
そのためにも今は意味とか考えずにちゃっちゃと教えていこうと思う。
「そうは言ってもよぉ……数2はむず過ぎるって。理系の奴らと同じテストだからテスト問題も絶対むずいし」
「それはまぁ、事実だが……理系と同じだからってさほど内容は変わらないぞ? せいぜい共通テスト形式の問題が出るくらいだ」
「それがデカいじゃん! っていうか俺、大学受験したくないから高校受験頑張ったんだし!」
「はいはい、そうだな」
こうして話していると八雲がしょうもない奴に思えなくもないが、うちの学校には八雲のような考えの奴も大勢いる。
三年次までの成績が酷くなければ、
「まぁ安心しろ。うちの先生も鬼じゃないから、ちゃんと解ける問題を解けば赤点は余裕で回避できる」
「そうだけどよぉ」
「だけども何もない。ほら、まずは初歩から。この問題を解いてみ?」
「う、うす。頑張る」
とんとん、とワークの問題を指でつつく。
八雲は意外にも素直で、大人しく解き始めた。
ふむ……。
何とか解けそうなのを確認し、他のメンツにも目を向ける。
「澪ちゃん……ここはどうすればいいのぉ」
「ん? ここは……解いて見せるから、分からないところで止めて」
「うぅ、分かったわ」
綾辻たちも俺たち同様、数学に取り組んでいるみたいだ。
但しあっちは数B。数列に取り組んでいるらしい。階差数列とか漸化式は俺もやや不安だし、後で応用問題を解いておこうかな、と思う。
「あ、ちょっと待って。それってどうしてこうの?」
「ん。それは――」
「……なるほど。じゃあここはこう?」
「そう。けどここに――」
ふむ。
あっちは順調だな。教えるんじゃなくて見せるってスタイルは実に綾辻らしい。綾辻が手取り足取り教えてるのはピンとこないしな。
「ん……」
「ここは――」
「お、さんきゅー。っていうかまだ何も言ってないのによく分かったな」
「あぁ。これくらいはな。それよか、さっさとやれ。数2は初日なんだから」
「うす」
多少のよそ見くらいで勉強を見る能力が落ちるほど俺は間抜けじゃない。
雫相手のときほどノータイムでさくさく進めるのは難しいが、無駄な時間を作らなくて済む程度にはやれるつもりだからな。
さて、じゃあその雫たちはどうだろうか。
雫と大河の方に目を遣る。
「…………」
「…………」
「……あ。ねぇ大河ちゃん、ここってどうすればいいの?」
「えっと……あぁ、そこは――」
「あ、そっか。ありがと」
「ううん」
「「…………」」
俺たち二年生より遥かに真っ当に勉強をしていた。ったく、八雲と如月はあの二人を見習えよ……。
まぁ雫にしろ大河にしろ、相当な努力家だからな。普段は頑張るベクトルが違うだけで。
「ふぅ」
するする、するする、かり。
しゅー、ん、すらすら。
排泄される勉強の音は、いつもよりも少し騒がしい。
けど俺は、不思議なくらいに集中していた。
学生の本分は勉強だ。それをしている間は、他のことに意識を割かずに済む。
無機質な数式、問われる登場人物の気持ち、よく知らない歴史上の人物の名前……。知恵を蓄えるのは気持ちがいい。自分が正しくなっていくような気がする。
昔は、そんな現実逃避のために勉強をしていた。もちろん、父さんを心配させたくない、って気持ちもあったけど。
じゃあ今は?
こんな正しく青春みたいな勉強会で、俺は何を感じているんだろう?
「友斗、どーかしたのか?」
「ん、いやなんでもないぞ」
小さく首を振って答えると、八雲は勉強に戻っていく。
俺は勉強をする五人を眺めながら、
――楽しいな
と口の中でだけ、呟いた。
◇
「だぁー! 疲れた!」
勉強を始めて四時間ほどが経ち、とうとう辛抱できないとばかりに八雲が声を上げた。
流石に他のメンツも集中力が切れ始めていたらしい。
視線がこちらへと集まった。
「もう2時過ぎか……思いのほか没頭したな」
ぎゅぅぅ、と腹の虫が鳴る。
そういえば勉強に集中していて昼食を摂るのも忘れていた。
「ちょっと遅いけど、昼飯食うか。皆もそれでいいよな?」
約二名の歓喜に満ちた声と、他三名のいつも通りの声が返ってきた。
それぞれに勉強道具を片付け始める。俺はぐいーっと伸びをしながら言った。
「昼はどうする? あれなら俺が買出し行ってくるけど」
「でもここからだとコンビニは結構遠いですよ?」
「あー、そっか。駅の方までいかなきゃないよな」
駅までは徒歩10分強といったところ。微妙に遠いのは事実だ。
「あの。おにぎりとかでよければ、私が作りましょうか? 少し時間はかかりますけど、その間は休憩時間ということで」
「えっ、いいのか? ただでさえ場所を提供してもらってるんだし、そこまで気を遣わなくてもいいんだぞ」
思わぬ提案に俺が答えると、大河は首を横に振った。
「別に気を遣っているわけではないです。おにぎりくらいならそれほど手間でもないですし……それともモモ先輩は、私の作ったおにぎりは嫌だ、と言いたいんでしょうか」
ふてぶてしいのか優しいのか分からない奴だなぁ。
ぐるりと視線をスライドさせるが、反対している奴はいない。ここで俺だけが固辞しても意味はないだろう。
「そういうことなら任せるか。じゃあ俺は自販機で飲み物買ってくる。八雲、付き合え」
「おー、りょーかい」
全員分の飲み物のリクエストを聞いた俺は、八雲と共に家を出た。
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