2章#34 俺の彼女は美緒だけだ

 体育祭の熱狂が未だ校庭に残っていた。薄暗がりの中心でチリチリと音を立てながら、小さな火が燃えている。キャンプファイアーほどの規模ではできないものの、やっぱりこういう時間には火が必要だ、と昔の先輩が決めたらしい。


 体育祭の結果は、俺たち赤組の勝ち。とはいえ白組が盛り下がっているかと言うとそうではなく、終わってしまえば後はとにかくはしゃぐのがうちの校風みたいな部分がある。


 色々と気にしたくなるようなことがあっても全ては後の祭りだ。なら変に気にするよりも後夜祭を楽しもう、ということなのだろう。


 或いは、そんな流れだからこそ、後夜祭における『3分の2の縁結び伝説』なんてものが生まれたのかもしれない。


 センチメンタルな気分に浸って、黄昏られたらよかった。

 そうして青春のありふれた一瞬をアルバムに収められたら楽だった。

 けれども、そんな普通の青春を送ることは、俺にはできない。


「行きますか」


 俺が向かうべきは雫のところだ。雫と約束したから、だけじゃない。借り物競争でのあの行動の意図を尋ねるためにも、俺は雫と話さなければならない。

 耳の奥に残る、黄色い声とブーイング。

 ラブコメそのものみたいな余熱を感じながら、俺は雫の姿を探す。


 定番曲と共にフォークソングを踊る者もいれば、今日の思い出を語らう者もいる。ぱしゃぱしゃと写真を撮って回っている奴だっているし、『3分の2の縁結び伝説』のためにコソコソと人目がつかないところでイチャついているカップル未満もいることだろう。


 うろうろと校庭を散策すること暫く。

 ようやく出会えた雫は、ハチマキどころか髪をまとめていたゴムをも外していた。


「いた……ってか、一人なのか?」

「はい。だって先輩と過ごすって約束しましたし」

「そっか」

「それにしては遅かったですけどねー。もうちょっと早く見つけてほしかったです」

「それは……悪い。ほらさっきまでと髪型が違うから遠目じゃ分からなかったんだよ」


 そうですか、と雫は微笑んだ。

 下ろされた雫の髪は腰のあたりまでサラサラと伸びている。まだ暗く空よりもよっぽど夜に近くて、雫の瞳がお月様の代わりのように思えた。


「ええっと。とりあえず、移動するか?」

「先輩がそうしたいならそれでもいいですけど……私はこのままでもいいですよ」

「でも、周りに――」

「気にしないですもん。むしろ見せつけちゃえばいいって思ってます」

「……雫」


 借り物競争の影響もあり、俺たちを突き刺す視線を結構鋭敏に感じていた。流石にこうもジロジロ見られていると居心地が悪いし、二人っきりになれる場所を探そうと思っていたのだが……雫は、ふるふると首を横に振った。


 見せつけちゃえばいい。

 そう告げる雫は、やっぱり俺の知る彼女とどこか違って見えた。


「先輩、怒ってますか?」

「……? どういうことだ」

「だって私、悪い子しちゃいましたから。先輩のことを騙して連れていって、皆の前でキスしちゃって……」


 罪悪感めいた表情を浮かべながらも、その何倍も『女』を纏い、雫は一歩近づいてくる。俺が何も言えずにいると、雫は溶け切ったような声で言った。


「私、ほんとは全然いい子じゃないんです。悪い子なんです。先輩に悩んでくださいって言っておきながら、こんな風にずるい騙し討ちをしちゃう子なんです」

「…………」

「でも、でもね? それくらいに大好きなんです。先輩のことが好きで! 好きで好きで好きで好きでぇっ! 悪い子になっちゃうくらい、大好きなんです」


 絶叫にも囁きにも似た雫の声。

 俺の胸に顔をうずめた雫は、上目遣いで俺を捉える。


「ねぇ先輩。今はまだ大好きだなんて思わなくてもいいです。ちょっとだけでいい。ほんのちょっとでも私を女の子として見てくれて、ドキドキしてくれて、恋人になってもいいなって思ってくれるなら……私を彼女にしてみませんか?」


 1か月前に聞いた宣言とは丸っきり違う言葉。

 綺麗で穢れた雫は、自分の体を押し付けながら言ってくる。


「彼女らしいこと、たくさんします。手を繋いで、あーんして、いっぱい甘えて……きっと最高の彼女だ、って思ってもらえると思います」

「雫」

「体にもね、自信があるんです。男の子からの視線も感じますし。先輩のことも、頑張って満足させてみせます」

「……雫」

「私、結構人気あるんですよ? 借り物競争の後も男子がたくさんきて『さっきのは嘘だよな?』って聞いてくるんです。何一つ嘘じゃないのに」


 ねぇ先輩?

 これまで呼びかけられた中で最も色っぽく、雫が言う。


「私のこと、見せつけてください。私が彼女だ、って。いっぱいいっぱい、見せびらかしてください。……ダメ、ですかぁ?」

「っ、雫…」


 まるで、雌猫だ、と思ってしまう。綺麗な後輩をそんな風に見たくはなかったのに。

 正すべきだ。

 こういうことはダメだ、って。先輩らしく叱ってやるべきだ。

 そう頭では分かるのに、心はチグハグに動く。気付けば俺は、雫の頬を手で包んでいた。


「せん、ぱぁい」


 俺はふと、雫と過ごす恋人としての日々を想像してみた。

 毎朝手を繋いで登校する。お昼は今まで通り三人だろうか? 放課後は、用事がなければデートに行く。ちょこちょこ目撃情報が上がって、熱いカップルとして噂になるんだ。周囲からは嫉妬され、雫を好きだった男子に睨まれることもあるだろう。もしかしたら嫌がらせだってされるかもしれない。でも、それと同じくらい、祝福してくれる人もいる。父さんや義母さんとか。あと、八雲も祝福してくれるだろう。綾辻だってきっと……。


 からかわれるのも、祝福されるのも、嫉妬されるのも、秘密の恋人では起こりえないことで。

 俺は……どうして美緒とそうなれなかったんだろう、と思った。


 禁断の愛、だからなんだ?

 たかが兄妹だろ。長い歴史の中では近親相姦だ繰り返されてきた。兄妹が恋人と付き合うことの何が悪い?

 どうしてお前は……美緒との関係を秘密にしたんだ?


「しず、く……」


 後輩の名前を呼びながら、俺は美緒を想っていた。

 一番目だけど秘密の彼女。

 二番目だけど公認の彼女。

 いつか考えたことを振り返り、思う。俺は本当は、美緒との関係を秘密になんてしたくなかった。秘密の恋人だなんて関係に逃げたくなかった。公認の恋人でありたかった。


『俺の彼女は美緒だけだ』


 今朝告げたばかりの言葉が蘇る。

 ああそうだよ、俺の彼女は美緒だけだ。表も裏も、美緒だけでいい。


 頬を挟むように顎を掴んで、クイっと目線をぶつけた。

 1秒、2秒、3秒。

 俺が『3分の2の縁結び』を始めると、雫の体は僅かに緊張した。


 そんな雫の姿に、記憶の果ての初恋を重ね合わせる。

 誰も美緒の代わりにはなれない。顔がよく似た綾辻でさえ、身体能力や性格は美緒と異なるのだ。そんなこと、最初から分かっている。

 だからどうした?

 現実なんて知ったこっちゃない。俺が思えばなのだ。


「俺と付き合ってくれ」

「~~っ」


 4秒、5秒――。

 そして、3分の1の縁が結ばれる。


「……っ、はい。もちろんです」


 俺たちの声までは、周りの奴らにも聞こえないだろう。

 それでは困る。周囲に俺たちの関係を示すように、雫の腰に腕を回した。と強く抱き締めると、んっ、と雫が声を漏らす。


「先輩?」

「見せつけてやろうぜ、俺たちの関係。……嫌か?」

「いいえ。むしろウェルカムです。たくさん私のこと、見せつけちゃってください」


 えへへ、と雫が体重を委ねてくる。

 後夜祭の終わりが近づくまで、俺は雫が恋人だと知らしめるように、抱き締めていた。

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