2章#32 クズどもの唄

 SIDE:雫


 かしゃ、とシャッターを切って、青春の時間を切り取る。

 データに残そうとするのは少し野暮だと思えちゃうくらいに楽しくて、これが『かけがえがない』ってことなんだろうな、と思った。


 先輩がいて、お姉ちゃんがいて、大河ちゃんがいて、霧崎先輩がいて。

 私も運営のためにたくさん頑張ったから、今まで経験してきた運動会よりも胸に残るものがある。


 午前の部が終わり、一時間ほどのお昼休憩も過ぎ去ると、いよいよ体育祭は午後の部に突入した。

 メイン五競技のうちの三競技は午後に行われるため、まだまだ勝負の結果は分からない。まぁ勝敗はどうでもよかったりするんだけどね。こーいうところは我ながら文化系だなぁ、としみじみ思う。


「やっほー、お姉ちゃん。応援団頑張ってるね!」

「雫……。まぁね。救護班に戻ろうとしても追い返されちゃったし、しょうがないからやってるよ」

「ふふっ、そっか!」


 応援団が待機しているスペースに向かうと、体育着の上に学ランを羽織ったお姉ちゃんがいた。

 ここ一か月ほどで少し伸びた髪を一つに束ね、運動の邪魔にならないようにしている。学ランの着方も相まって、今日のお姉ちゃんはなんだかとってもイケメンだ。


 さっきもクラスメイトに『雫ちゃんのお姉さんってかっこいいね』と言われたばっかりするのです。なーんて、こんなこと言ったらお姉ちゃんはどう思うのかな。困るのか、怒るのか。

 ちょっぴり見てみたい想いもあるけど、今はぐっと我慢する。


「ねぇねぇお姉ちゃん! 今はちょっとクールダウンしてるし、一緒に写真撮らない?」

「写真かぁ……この恰好で?」

「うん、その恰好で。ダメ?」


 こんなにも学校行事に前向きなお姉ちゃんは初めて。

 今のお姉ちゃんのことは絶対に記録に残したい。それで10年先、20年先、ううんずっともっと先。大人になったときにお姉ちゃんと笑いあいたいんだ。


 私とお姉ちゃんは姉妹。たとえどんなことがあっても一緒なのだ。


 一瞬表情を曇らせたお姉ちゃんだけど、私の顔を見て、こくりと頷いてくれた。


「分かったよ。しょうがないなぁ、雫は」

「やった!」

「でもどうするの? 流石にそのカメラじゃ自撮りは難しいでしょ」

「大丈夫! そんなときのためにスマホも持ってきてるから!」


 じゃっじゃーん、とポケットからスマホを取り出した。

 体育祭の最中、スマホを校庭に持ち込まないことが推奨されている。いちいち競技の間誰かに預けたり、どこかに置いておいたりするとトラブルのもとだからだ。

 持ってくる場合には自己責任になっているんだけど、私の場合はそこまで激しく動くことがないので常にポケットに入れてある。これならトラブルの起きようがない。実行委員は何かと連絡に使うしね。


 ……体育祭なのに動く気ないだろ、とか言ってはいけない。

 苦手なんだもん、そういうの。


 ちょっぴり呆れて笑うお姉ちゃんをよそに、私は撮影の準備をする。

 カメラは地面に置いちゃうと不安だし、首からかけておこう。これはこれで体育祭っぽくていい。

 お姉ちゃんをぎゅっと近づいたらほんのり頬が触れた。くすぐったいな。えへへ。


「行くよ。はい、チーズっ!」


 かしゅっ、とスマホから音が鳴る。

 ブレたり目を瞑っちゃったりしていたときのために二、三枚写真を撮り、お姉ちゃんと離れた。

 写真は……うん、いい感じ。


「見てお姉ちゃんっ! いい感じに撮れたよ」

「……ほんとだ、よく撮れてる。流石雫だね」

「えへへ~。写真撮るのは慣れてるからねっ」


 えっへん、と胸を張った。

 写真を撮るのは結構好きだ。JK的なSNS映えの写真もそうだけど、それ以上に日々を残すのが好き。

 ふとした瞬間の青空とか、大切な人の横顔とか、誰かさんのおかげでいい点を取れたテストの結果とか。

 色んなものを残しておきたい。寂しくなった夜とかに見返して、寂しさを紛らわすのだ。


「後で送っておくね」

「うん、ありがと」


 写真の中のお姉ちゃんは、少しだけカメラからズレた方を見ていた。どこを見ればいいか分からない……というより、恥ずかしくてわざと逸らしたのだろう。

 そういうところもお姉ちゃんらしくて、好きだなーって思った。


 大丈夫。私のアルバムは、空白を埋めるまでもなくいっぱいだから。


 するっと指を滑らせて画面をスワイプすると、さっきから色んな人と撮っている写真が表示される。

 まだ終わりでもないのに浸っちゃうなぁ……。


「あっ」


 やっちゃった、と思った。

 スマホの画面に表示されたのは、二人三脚のときに録った動画。

 先輩とお姉ちゃんが出場するから、これは絶対残さねば、と思ってわざわざ動画にしたのだった。ミュートにしてあるから音は鳴らないけれど、まだ会場の熱狂は耳の奥に残っている。


 グングンと、まるで二人で一人になったみたいに進んでいく先輩とお姉ちゃん。

 びっくりしちゃうくらいに速かったから、観客も放送班の人も、みんな興奮気味だった。


「……雫?」

「お、お姉ちゃん。私はそろそろ行くね! 借り物競争、もうすぐだから」

「そっか。うん、行ってらっしゃい。頑張ってきて」


 今私がどんな顔をしているのか、お姉ちゃんに見られたくなかった。

 ぱたぱたとその場を立ち去る。

 逃げるみたいだな、と嗤った。


「はぁはぁ……」


 しょうがないじゃん。

 こんな楽しい場所であんな姿を見せられたら、どうしようもなく嫉妬してしまう。ズルいな、って思っちゃう。


 だって私は……先輩とお姉ちゃんが隠れて付き合ってることを、知ってるから。


「いかなくちゃ」


 ずっと前から頭の奥で蹲っている光景とやり取りを追い出して。

 私は他の広報班の人にカメラを渡し、入場門の方へと向かった。



 ◇



 コンドームというものを生で見たのは、それが二度目だった。一度目は保健体育の授業のとき。中学校の頃、先生が見本を持ってきてくれた。恥ずかしいと思うと同時に、いつか先輩と使う日が来るのかも……なんて妄想していたっけ。


 勉強合宿から帰った日の夜。

 たまたまひっくり返してしまったゴミ箱の奥底に隠された使用済みのコンドームを見て、私は先輩とお姉ちゃんの関係を悟ってしまった。


 ああ、私って負けヒロインだったんだ。

 私が合宿でいなかった日に、あの二人はそういうことをシちゃったんだ。


 でも、二人は付き合っていることを公言しようとはしなかった。何故かは分からないけれど、秘密にするつもりらしかった。

 だから私も知らない振りをした。お姉ちゃんの恋人を盗っちゃうのはダメだけど、知らずにアプローチをするだけなら許されるはずだと信じて。


 けど、たぶんもう限界だ。

 あんな息ぴったりの二人三脚を見せられちゃったら、あの二人が固い絆で結ばれてるって誰でも分かる。知らんぷりなんて、できっこない。


「きっと先輩も、今日で終わらせるつもりだったんだろうなぁ」


 後夜祭を一緒に過ごしてほしい、と私は先輩に頼んだ。あのとき、先輩は何かを決意するような顔をしていた。きっと、この後夜祭で私を振ろう、と決めたのだ。


 だから……この体育祭が最後。

 先輩に恋する後輩ヒロインでいられる、最後の日。悔いがないようにたくさん写真を撮った。目に焼き付けた。今日という青春をいっぱいアルバムに詰め込んで、ヒロインじゃなくなった後でも先輩との青春を抱き締められるように、って。


「位置について~、よーい」


 ドンという声の代わりにパンっとピストルが鳴った。

 私が出場する最後の競技、借り物競争。割り振られている得点もそれほど高くないネタ枠だと言っていいと思う。目玉のリレーを前にした、ちょっとした箸休めだ。誰も私の活躍なんて期待していない。


 それでいい。

 私だって、体育祭で活躍したいとは思ってない。めいっぱい楽しんで、大切な初恋とともに宝箱に詰め込むんだ。

 その思ってたのに――。


『お題:大切な人』


 自分が引いたお題を見た瞬間、私の中で何かが弾けた。

 ぱちぱち、しゅわしゅわ。

 初恋サイダーを飲み干すように、ごくん、と私は唾を飲む。口の端から入ってきた汗がしょっぱかった。スポーツドリンクのCMみたいだと考えて、そんな爽やかな気分じゃない、とすぐさま否定する。

 それから私は、真っ先に本部の方へと駆け出した。


「せーんぱいっ! 忙しかろうと何だろうと私と一緒に来てもらいますからね。これも赤組勝利のためです!」

「は? あ、いた別にいいが……お題は?」

「ついてきたら教えてあげます。でも先輩じゃなきゃダメなんです」

「はぁ……さいですか。じゃあ行くよ。勝ちたいしな」


 優しいのにちょっぴり呆れた感じの顔で先輩は頷いた。私は先輩の手を引き、校庭のど真ん中を走っていく。

 お姉ちゃんみたいに足が速くはないから、先輩と息ぴったりってわけにはいかない。

 でも、でもね? 私だって先輩のことは知ってるんだ。

 たとえば……先輩が今みたいになった理由、とか。


 一つ下の学年の子が事故に遭ったって言われていたから。先輩のことを見た先生たちが憐憫と同情にこもった目をしているのを、子供ながらに見ていたから。


 先輩の大切な妹さんが死んじゃった日から、先輩はずっと進めていない。

 哀しくて、けど同情はされたくなくて。

 一生懸命意地を張っていたことを、私は知っている。。


 そのことを知ったのは、私が先輩から変わる勇気をもらった後だった。だから私は、ずっと先輩を笑顔にしてあげたかった。哀しみなんて吹き飛ばせちゃうくらいに、私の元気で笑顔になってほしかった。


 手を繋いだまま、私と先輩はゴールテープを切る。

 ぱんぱんっ。軽いピストルの音が鳴った。私たちが一着。他の人のゴールを待ってから、持ってきている借り物がお題に沿っているかを皆の前で確かめることになる。


「ったく……ネタ競技にしても、お題がやりすぎだろ」


 四着、三着と下から順々に発表されていくお題を聞いて、先輩は可笑しそうに頬を緩める。借り物競争と言いつつ、一つだって『物』をお題にしているものはなかった。先生とか、クラスで一番うるさい男子とか、そういう青春っぽいお題。


「で、雫のお題はなんだったんだ?」

「ふふーん、まだ内緒ですっ♪」

「えぇ……」


 悪戯っぽく笑ったのに、先輩はちっとも私を疑っていなかった。まるで私は絶対に『悪いこと』をしない良い子だ、って安心しきってる顔だ。


 でも、本当の私は……ちっとも良い子じゃない。すごくすっごく悪い子なんだ。

 だってね。だって私は――。


「さあさあ、それでは1位の方のお題チェックに移りましょう! 綾辻雫さん、あなたが引いたお題はなんですかっ?」

「大切な人、ですっ♡」

「なっ……!?」


 躊躇いなくマイクに向けて私が答えると、どっ、とグラウンドが湧いた。

 当然と言えば当然。

 異性の先輩を連れてきて『大切な人』と言ったら、もうその意味は一つしかないわけで……。


「おおっ! それはつまり……?」

「はいっ♪ ちゃーんと後夜祭も一緒に過ごすって約束してるんです! 私にとって先輩は……大大だーい好きな先輩ですから」

「っ、ちょ、雫!」


 さしもの先輩も、今ばかりは本気で焦っている様子だった。

 やめろ、冗談だと言え、と先輩が目で訴えかけてくる。私はその視線をあえて無視して、ぎゅっと先輩に抱き着いた。

 クラクラする。

 ずっとクラクラしてる。

 あの日、コンドームに残ったものを舐めたときから……私はずーっと酔っている。


「ね、先輩」

「…っ。おい、落ち着けって。今の雫は場に流されてるだけだ。こんなの、雫らしくない」

「キスしますね。異論はノーセンキューです♪」


 別にいいよ、『借り物』だって。

 先輩のエッチな体液も、ちょっとかさついた唇も、ぜーんぶ『借り物』でいい。

 手に入らない負け犬には、絶対になりたくないもん。


「んんっ、んん~」

「んむっ、あむ……せんっ、ぱい♡」

「おおおおおおおおおお!」


 延々と流れ続けるBGMを掻き消して、歓声と悲鳴が体育祭を塗り潰す。

 体勢を崩した先輩にしがみつき、私は全校生徒に見せびらかすようにキスをした。



『あしひきの やまのしづくに 妹待つと

 我れ立ち濡れぬ やまのしづくに』

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