2章#18 私のことを教えて
夕食を終え、もうすっかり夜が訪れていた。
風呂上りの晩酌を終えた父さんと義母さんは気持ちよさそうに酔い、ついさっき布団に入った。隣り合って眠る二人を見ていると、息子ながらに嬉しい気持ちになってくる。
なんて、らしくないことを考えてるな、俺。
「んっ……すぅ。すぅ」
穏やかな寝息が聞こえて左を見遣ると、あどけない顔で美少女が眠っている。
暗さに慣れて夜目が利くようになってきたからか、可愛らしい表情の輪郭がしっかりと見えた。
すぅ、すぅ。
すやぁ、すや。
幸せそうな雫は、もう夢の中にいるらしい。
とっぷりと浸かる夢では、この子はどんなことをしているんだろう?
おとぎ話のお姫様か、それともギャルゲーのヒロインか。
どちらにせよハッピーエンドを迎えるために頑張ってるんだろうな、と思う。
ツインテールがほどかれ、長い髪が雫の体に抱かれている。
んっ、と小さな吐息。
それと共に寝返りを打つと、雫との距離が半身分縮んだ。
可愛いな、と率直に思う。
五人で一つの部屋に泊まると聞いたときは少し心配していたけれど、こんなにも無邪気な女の子の寝顔を見せられては、厭らしい気持ちなんて湧いてくるはずがなかった。
「あんまり寝顔を見てても怒られそうだな」
しょぼしょぼと一人呟く。
雫のことだ。寝顔なんて見ないでくださいよ、とか怒る気がする。寝顔だけは、努力で可愛くできるものじゃないもんな。
今の雫のかわいさは、旅先の夜の宝箱に閉じ込めておこう。
ぼんやりとそう決めて、雫に背を向けた。
「「あっ」」
と声が漏れたのは、雫とは逆側にいた少女と目が合ったからだ。
車内でそうだったように、俺は綾辻と雫に挟まれて眠っている。
俺と同じような声を漏らした
「兄さん、寝てなかったんだ」
「……っ、ま、まぁな」
不意打ちだった。
他の三人は眠っているわけだし、綾辻が美緒になるのはおかしな話じゃない。
だが、ついさっきまでそんな素振りは見せていなかったから、息が詰まった。そのことを勘づかれたくなくて、こそこそと内緒話をするような声で返事をする。
「美緒は? もしかして眠れないのか?」
「ん……ちょっとだけね。なんかふわふわしちゃって」
「ふわふわ、か」
「……子供っぽいね、ごめん。今のは美緒ちゃんっぽくなかったかな」
自分の言葉を恥じるように口元に手を添える。
そんな綾辻に、いいや、と首を振って答えた。
「美緒も旅先ではそんな風だった」
「そっか」
空に見える微かな星みたいに、綾辻は丁寧に呟いた。
僅かな逡巡の後、あのさ、と美緒に戻って言う。
「そっち、行ってもいい?」
「えっ」
「兄さんの傍にいたいんだ」
だめかな、と遠慮がちな視線が問うてくる。
普通に考えたらNOだ。今起きているのは俺たち二人だけだが、この部屋には雫たちがいる。こんな夜に一つの布団で寝るべきではないだろう。
それなのに、気付いたときにはこくりと頷いていた。
それくらい、今の俺は美緒を求めていた。
いつもなら秘密の恋人でいられるはずの一時間が今日はなかったから。
じんじんと心に染みるほど家族を感じた今日だったから。
そんな風に理由をつけている間に、美緒は俺が使っている布団に入ってくる。枕を半分こにし、頭の位置をズラす。
美緒がもう半分に頭を載せると、キスできてしまうほどの至近距離に顔が来た。月明かりに照らされて、てらてらと唇が煌めく。
「兄さん、あったかい」
「まぁな。平熱高めだし。美緒はちょっと冷たいな。冷えたか?」
「ママとお風呂に入った後、ちょっとだけ湯冷めしちゃったのかも。一回でやめておけばよかった」
「でも気持ちよかったんだろ?」
「うん。いいお湯だった。お茶もご飯も美味しかったし……なんか、とっても落ち着いた」
「よかったな」
くしゃっ、と美緒の頭を撫でる。
絹のような手触りが心地いい。子猫みたいに目を細めた美緒は、ん、と言葉にならない声を漏らす。
「ねぇ兄さん。さっきのお願い、今使ってもいい?」
「お願い……あぁ、卓球のか」
「そう。兄さんがぼろ負けしたやつ」
「言い方な、言い方」
ぺちっとおでこをはたくと、美緒はえへっとらしくない笑みを見せる。
毛づくろいをするように髪を撫でながら、いいよ、と答えた。
「で、お願いって?」
「うん……嫌じゃなければでいいんだけど。美緒ちゃんのこと、聞かせてほしい」
「美緒のこと?」
うん、と美緒が頷く。
いや、今は綾辻……なのだろうか?
「美緒ちゃんのことを知りたいなって思ったの。そうすれば、もっと近づける気がして」
「今でもしっかり美緒になれてる」
「そうだけど……もっと特別でいたいの。兄さんを幸せにしてあげたい。兄さんの哀しみを、全部受け止めてあげたい」
ちょこん、とパジャマの袖が摘ままれた。
「だから、ね?
綾辻は美緒を全うしながら尋ねてくる。
弱々しい口調が、かつての美緒とダブった。
『兄さん、一緒に寝て?』
『お化け……怖い』
『食べられちゃったらどうしよう』
まだ小学校に入る前。
美緒に甘えられたことを思い出す。あのときの俺はどうしたんだっけ? 考えて、すぐに答えが出る。そうだ、抱き締めてあげたんだ。
あれから時が過ぎて、俺たちは大人に近づいた。
けれど、俺が美緒を抱き締めちゃダメな理由なんてどこにもない。だって俺たちは恋人なんだから。
「分かった。でも話せって言われても、何を話せばいいか分からないしな……」
「なんでもいいし、ゆっくりでいい。どうせまだ眠れないから」
「そっか」
寝物語をねだられているような気分になった。
天井を見上げ、真っ暗な虚空に美緒との思い出を浮かべてみる。
「まずは……そうだな。美緒と行った家族旅行の話でもしようか」
「うん」
「美緒はちっちゃい頃からちゃんとしてたんだけど、苦手なものが幾つかあってさ」
「うん」
「お化けとかも超苦手だった。まぁちっちゃかったから、っていうのもあるんだろうけど」
「それは私も。ホラーゲームとか苦手だし」
「へぇ、そうなのか」
また一つ、美緒を見つけた。
そのことに罪悪感を覚えてすらいない俺は、きっと最低だ。
それでも、綾辻が美緒でいてくれるなら。
今はそのことを、素直に喜びたいと思った。
「旅行とか、小さい頃も言ったんだよ。母さんが温泉とか好きだったってのもあるし、普通に母さんの方の実家が田舎だったりもしたから」
「うん」
「そんでさ。寝る間際までは全然平気そうな顔をしてるんだけど、いざ部屋の電気を消すと怖くなるらしくてな。いっつも一緒に寝てあげてた」
「今の私みたいに?」
「だな」
頬を手の甲でさすると、美緒はくすぐったそうに身じろいだ。
甘やかな吐息が耳奥で溶けていく。
あえかな熱を確かめるように美緒の手を握れば、新月みたいに微笑み返してくる。
「兄さん。私はここにいるよ。ずっと、傍にいる」
「美緒……ありがとう」
だんだんと瞼が重くなっていく。
……なんて、嘘だ。
本当はさっきから、ぼやけた睡魔を感じていた。それでも寝まいとしてたのは、このまま眠ったら美緒がいなくなってしまう気がしたから。
でも、今ならその心配はない。
美緒は俺の胸の中にいる。消えたりしない。
「おやすみ、兄さん。バレないように、明日は早く起きないとだからね」
「そうだな。もし起きれなかったら、起こしてくれるか?」
「まったくもう……しょうがないなぁ兄さんは」
そういえば、あの頃も何だかんだ俺が先に寝ちゃってたんだっけ。
抱き締めながら寝るものだから美緒は寝にくいらしくて、翌朝、抗議されたものだ。
それでも最後には『一緒に寝てくれてありがとう』って恥ずかしそうに言ってきて、それがまた可愛いんだ。
気付くと俺は、みおの体温に溶かされていくように、ゆったりと微睡んでいた――。
◇
SIDE:澪
愛している人の寝顔が目と鼻の先にある。
なんて綺麗で、可愛くて、かっこいい顔なんだろう。お腹の奥の方がきゅんきゅんと疼いて、ちゅっと口づけしてしまいたいという欲求に駆られる。
綾辻澪には、その悪徳は許されていない。
でも、百瀬美緒には、許されている。眠った彼に不意打ちするように、ちゅっ、とキスをした。緑茶の味がほんのり残っている……ような気がする。
甘えるように、私は彼の胸に顔をうずめた。
いい匂いがする。
温泉とシャンプーと、それからほんのり汗の匂い。
それから、彼の話を思い出す。
聞けば聞くほど、私は美緒ちゃんに近づくことができる。今はもういない彼の初恋の相手。美緒ちゃんを演じれば演じるほど、私は私で在らずに済む。
ずっと、こんな日々が続けばいい。
彼の胸に抱かれながら、そんなことを思った。
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