2章#17 あの人によく似てる
風呂上がり。
コーヒー牛乳を飲み干して体の火照りをとった俺は、雫とみおを待たずに部屋に戻ることにした。浴場の前で待ってるのもそれはそれで気恥ずかしいしな。
時刻は6時ちょい前。まだ夕食までは時間がある。
部屋に戻って義母さんと父さんに挟まれるのもちょっと考えものだ。雫とみお抜きであの二人と話したことってなかったし。夜中に帰ってきて軽く挨拶をするくらいのことはしてきてるんだけどな。
部屋に戻るのはやめて少しぶらつくかなぁ。
そんな風に考えている間に、もう部屋までついてしまった。こういうとき、ぼっち特有の足の速さが憎い。
つい足を止めると、見計らったかのようなタイミングで戸が開いた。
「あらあら、友斗くんじゃない。ひとりなの?」
部屋から出てきたのは義母さんだった。
こくりと頷いてから答える。
「えぇ。あの二人はまだ温泉入ってます。もしかして義母さんも?」
ううん、と義母さんが首を横に振る。そりゃそうだ。さっき、晩酌の前に入るって話を聞いたばかりだし。それ以前に今の母さんは完全に手ぶらだ。
「ちょっと外の空気を吸ってこようと思ったのよ。大自然を味わっておこう、ってね」
「大自然ってほど大自然でもないですけどね、ここ」
「も~、そういう捻くれたこと言う! 可愛いわねぇ~」
ふふふ、と楽しそうにニヤける義母さん。
事実を言っただけなのに捻くれてるとか言われてもなぁ。まぁ都会暮らしだとちょっと自然を感じるだけで田舎とか大自然とか空気が美味しいとか言っちゃうし、義母さんの言わんとしていることも分からないわけじゃない。
義母さんは一瞬だけ考え込むように俯き、そうだ、と口を開いた。
「よかったら一緒に行かない? 友斗くんと語りたかったのよねぇ」
「語るって言われても……」
「嫌?」
嫌ではない。このまま部屋に帰って父さんと二人きりになるのと比べれば、むしろ義母さんについていった方がいいように思える。
だって父さんと二人きりになったら、多分美緒と
「いいですよ。たまにはそういうのもいいですしね」
「それはよかった」
義母さんは、ふんありと微笑んでから旅館の外に歩き出す。
温泉に持っていったものを部屋に置き、俺も義母さんを追った。
◇
「んんーっ。綺麗な夕焼け」
「そうっすね。やっぱりビルがないと空が広いですし」
「ほんと! あっちの方はビルばっかりで息が詰まるもの」
義母さんは、それはもう気持ちよさそうに夕日を浴びる。
栗色の髪がさらさらと靡く。ふと見遣った横顔は、ドラマのワンシーンみたいに綺麗だった。
「本当に来てよかったわ。こんな景色も見れたし、あなたたちが仲良くできてるんだなってことも分かったし」
「ですね。俺もめっちゃ楽しかったです。忙しかったはずなのに……ありがとうございます」
「そんな風にお礼を言うことないのよ? 私たちは家族なんだもの。むしろ普段何にもできていないことを謝りたいくらいよ」
「謝る必要ないっすよ。俺もあの二人も、慣れてますから」
俺たち三人は、親が家にいない日々に慣れている。
それぞれ思うことはあるだろう。傍から見れば可哀想だと思われてしまうことだってあるかもしれない。
それでも仕事人間な父さんと義母さんのことが好きだし、誇らしいし、誰かに同情されたいだなんてちっとも思っていない。
「それにマジで不自由ない生活できてますし。先立つものがめちゃくちゃあるってだけで高校生は喜ぶものですよ」
「うわぁ可愛くないことを言うわね。そうやって照れて誤魔化そうとするところも可愛いけれど」
ぐっ……。
なまじ美人なので、相手が義母さんでも『可愛い』とか言われるとちょっとドギマギしちゃうんだよな。男子的にはそれなりに複雑な褒め言葉だから、尚更どう反応していいのか分からない。
「そうやって高校生とかに『可愛い』って言い出すのは地雷らしいです。実は俺、隠れ反抗期かもしれないですよ?」
「ん~、それはないんじゃないかなぁ。友斗くんはいい子だから」
「そういういい子ちゃんは大抵裏があるものでは?」
「たとえば雫と澪を両方とも手籠めにしたり?」
「しねぇよ! っていうか自分の娘を引き合いに出してそういうこと言うのやめましょうねっ?」
思わずヒヤっとしかけるが、義母さんが俺と美緒のことを知っているはずがない。勢いに任せて俺がツッコむと、義母さんはクスクスと可笑しそうに肩を震わせた。
そうね、と小さく呟く。
「でも……友斗くんはいい子だって思っているのは本当よ? 事故の後からずっと、お父さんに迷惑をかけないようにしてる。違う?」
「……っ」
そりゃ知ってるよな、と心の中で苦笑した。
事故というのは、言わずもがな美緒が死んだあの事故のことだろう。それ以降父さんに迷惑をかけないようにしているというのは、ちっとも間違っていない指摘だ。
図星をつかれたことが顔に出ないよう気を付ける。義母さんは、どこかアンニュイな顔をしていた。
「はいそうです、とは言えないわよね。男の子なら。ううん、いいのよ。別に友斗くんに何かを認めさせたいわけでもないし、友斗くんに踏み込もうとしているわけでもないから」
ただ、と義母さんがひっそりとした声で続ける。
「友斗くんのお父さんは、友斗くんが思っている以上に友斗くんのことを心配してるし、大切に想っているのよ。それだけは分かってあげてほしい」
「…………」
どんな意図の発言かを察することができたから、言葉に詰まってしまう。
紡ぐべき言葉を探して視線を泳がせると、ぷかぷかと空を浮かぶ雲が幾つも目に入った。ふわふわと曖昧な雲のうちの一つに、スゥゥと長い飛行機雲を見つける。
「流石は再婚したてのラブラブ夫婦っすね。父さんのこと、よく分かってます」
「ふふふっ。それはもっちろん。こう言ってはなんだけど、私はあの人のこと大好きなのよ? きっと友斗くんの想像の何倍も、ね」
にへらっと誤魔化すように口の端をつり上げると、義母さんもふにゃふにゃと惚気るような顔になった。
「幼馴染なんでしたっけ? 父さんと」
顔合わせの日、父さんがチラっと話していたのを思い出す。父さんと義母さんは幼馴染で、母さんとも知り合いだったらしい。
「ええ、そうよ。小学校の頃から同じクラスでね? 高校に進むときに家の都合で引っ越したのだけど……職場で再会したときは驚いたわ」
「……へえ。まるでドラマみたいですね」
「エロゲ、とかでもいいのよ?」
「息子にそういうこと言うのやめましょうね」
「ふふっ、それもそうね」
からかうような口調の割に、義母さんの表情は随分とアンニュイだった。
茜色。昼と夜の間を分かつ夕暮れに似合う、大人の女性がそこにいた。
「あの。訊いてもいいですか?」
「うん? 何かしら」
「えっと……父さんのどこがよかったのかな、と思いまして」
ふと聞いてみたくなったのは、俺自身が探しているからだろう。
恋とそれ以外の境界線を。
そうねぇ、と迷った素振りを見せる義母さんだったけれど、答えはすぐに返ってきた。
そんなの決まってる、と言わんばかりに。
「すごく優しくて強くて、その何倍も弱いところ……かしらね」
「弱い、ですか」
「えぇ。由夢さんが亡くなってからしばらく、あの人は『恋なんか絶対にしない』って感じだったでしょう?」
「それは……はい」
数年前までの父さんは、まさしくそんな感じだった。
母さんの死を嘆き、美緒の死を哀しみ、独りでも強く在ろうとしているように思えたものだ。今は義母さんのことを深く愛している父さんだけど、まだ母さんへの愛は冷めていないだろう。
そうでなければ――我が家には、仏壇が置かれているはずだ。
俺が美緒に対して抱くように、父さんも母さんに対して執着に似た愛情を抱いている。
「昔からそうだったわ。あの人はずっと、優しくて強かった。でもその優しさや強さで、弱さを隠そうとしているだけだ、って気付くとね、もう堪らなく愛おしくなるのよ」
「母性本能みたいなやつですか?」
「かもしれないわね。哀しみを受け止めてあげたい。笑顔にしてあげたい。そんな風に思ったから、私はあの人を好きになったのよ」
遥か昔のアルバムのページをめくっているみたいに、義母さんは言葉を結ぶ。
真っ直ぐにそう言い切られてしまうと、茶化すような言葉さえ出てこない。
ゾワゾワとせり上がってくるくすぐったさを溜息に変えて、大自然に放出する。都会よりずっと木が多いんだ。俺が吐いたCO2は、すぐにでも光合成に使ってくれることだろう。
「あぁ~、なんか語りすぎちゃったかなぁ。ごめんなさいね、らしくなかったかも」
「いや、全然。父さんは果報者だなって息子ながら思えました。なんかありがとうございます。父さんのこと、好きになってくれて。俺たちと家族になってくれて」
西日が眩しいのだろうか。義母さんはすっと目を細めた。
「そんな風に言えるなんて……やっぱり友斗くんは、いい子で、強い子だわ。あの人によく似てる」
そんなことはないですよ。
そう口にするより先に、義母さんがくるりと踵を返した。もう旅館の中に戻るつもりらしい。
「あ、そうそう。私からも友斗くんに聞いていいかしら」
「いいですよ。俺も変なこと聞いちゃいましたし」
振り返った義母さんは、置き土産みたいに聞いてくる。
「澪のこと、好き?」
「……いつものからかいですか?」
「真剣な質問だって言ったら、本当の気持ちを答えてくれる?」
「…………親と恋バナなんて嫌ですよ、絶対に」
義母さんの質問の意図がイマイチ見えない。
どちらにせよ、答えられるはずがなかった。たはっと冗談めかして答えると、義母さんも可笑しそうに笑う。
「つれないわねぇ~。私と友斗くんの仲じゃない~!」
「そんなに会話したこともないですよね!?」
多分、俺にはまだ見えないことがたくさんあるのだと思う。
橙色の空に引かれていたはずの飛行機雲は、呆気なく溶けていた。
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