2章#16 楽しかったですね
「くそっ……まさかここまであっさり負けるなんて」
「ははっ、先輩ドンマイです!」
「くぅ。勝者が敗者を慰めんな。惨めになる」
惨敗した。
二戦二敗。しかもどちらの試合も相手のミスでしか点を取れなかったという、なんとも無惨な結果に終わった。
がっくりと項垂れながら部屋まで歩く俺を、雫がくすくすと笑いながら慰めてくる。めっちゃ惨めだ。
「未経験でももうちょいやれると思ったんだけどなぁ……二人とも、強すぎるだろ。もしかしてあれか? 実は義母さんが元卓球選手で、小さい頃はピンポン玉に囲まれて過ごしてたとかそういうオチか?」
「なんですかその卓球漫画にもなさそうな設定……。別にそーいうわけじゃないですよ。ね、お姉ちゃん」
そうだね、とみおが頷く。
「小さい頃から姉妹仲がいいと、卓球みたいに二人でやる系のことで色々遊んだりするんだよ。新年には羽子板とかもやるし」
「うんうん。だから先輩より上手くて当然なんですよ」
「それ分かってて賭けをしようとか言い出すあたり、二人ともなかなかいい性格してるな」
「「てへっ」」
「雫はともかく、綾辻はそういうの似合わなすぎる」
雫の真似をして悪戯っぽく笑う綾辻に言うと、雫もこくこくと肯った。
確かに!とからかうような口調で雫が告げる。
「お姉ちゃん、今日はいつもよりテンション高いね。普段は見れないお姉ちゃんって感じがして可愛い!」
「っ……別に、そこまでじゃないと思うけど」
「先輩もそう思いますよね?」
綾辻の口元が恥ずかしそうに歪んだ。
普段は垣間見ることのできない姿のように思えた俺は、少し雫のからかいに便乗したくなった。
「そうだな。卓球にもやたらと真剣だったし、子供っぽい感じはする。綺麗ってより可愛いって感じだな」
「~~っ、そ、そう……」
きゅーっ、と耳の先っちょから朱色が伝播していく。
耳たぶをちょこんと摘まんでから、綾辻は誤魔化すように咳払いをした。
「ま、まぁ。私は百瀬にも雫にも圧勝したわけだし、気分もよくなるかもね」
「むーっ! 別に圧勝してないもん。たった四点差だったじゃん!」
「八点先取で四点差ってのは大きいと思うけど?」
「むむむっ……お姉ちゃんの意地悪!」
雫がぷいっと顔を背けると、綾辻は勝ち誇った顔をする。
そんな様子を後ろから眺めていた俺は、くすっと笑った。
あぁ楽しいな、と。
口にはしないけど、その言葉を舌の上で転がす。キャンディーやキャラメルみたいに、ゆっくりと溶かしていく。
ゾワゾワと口の中に広がる甘いくすぐったさが、どうしようもなく心地いい。
不意に綾辻がこちらを振り返った。
黄昏時みたいに儚く微笑を湛えながら、
『兄さん、楽しい?』
美緒に戻って、視線と口の形だけで言う。
5月の通り雨みたいなその表情が、ざあざあと心の奥を濡らした。美緒に返すべき言葉を見つけられていないうちに、彼女は前を向き直してしまう。
「さーて。何をお願いしよっかなぁ」
前を歩く綾辻と雫の背中に手を伸ばしかけて、俺はぎゅっと拳を握った。
◇
かっぽーん。
卓球を終えて汗を掻いた俺たちは、早速温泉にやってきていた。
父さんと義母さんは、夕食を食べてから入るらしい。風呂上がりの晩酌を楽しみにしている、と言っていた。
きちんと体を洗ってから湯船に浸かると、かなり熱めのお湯がじんじんと染みる。
セックスの後に浴びる熱湯シャワーを思い出した。
「あぁぁぁぁ……気持ちいい。流石に違うな」
他の客がいないことをいいことにしみじみとぼやく。
湯船のへりに頭を乗せると、ほぅっと気の抜けた吐息が零れた。
見上げる空は、程よくオレンジに近づいている。まだ星は見えないから夜ではないけど、昼間だと言うにはちょっぴり寂しい色だ。
――おててつないで、みなかえろう
よく聞いた曲の一節が頭によぎり、俺はなんとなく手を握った。
ちゃぽん、と水音が鳴る。
子供っぽいことしてるな、と苦笑した。
「熱っ……あ、けど気持ちいいなぁ」
「ん?」
聞き覚えのある……というか、雫の声が聞こえた。
咄嗟に辺りを見渡すが、当然男湯にいるはずがない。男湯と女湯を隔てる高い塀に目を向け、俺は恐る恐る口を開いた。
「あー。もしかして雫か?」
「あっ、先輩? 奇遇ですね」
「奇遇も何も、一緒に風呂まできたわけだしな……」
「ふむふむ。つまり現在絶賛私の裸を妄想してるわけですか……変態さんですね」
「違ぇよ! 勝手に被害妄想して勝手に罵るのやめてね?」
ったく、その『変態さん』ってワードのせいで逆に妄想しそうになったじゃねぇか……。
綾辻の裸を何度も見て、女の子の体を知ってしまっているからこそ、一度意識すると鮮明な妄想が脳裏によぎりそうになる。
ぱしゃぱしゃとお湯で顔を洗って雑念を払った。さもなくば、リトル入江妹にぶちぎれられるからな。
「あー、そっちは? 他には人、いないのか」
「そですね。お姉ちゃんはお手洗いに行ってから来るらしいので、まだ私一人ですよ。残念でしたね、お姉ちゃんのことは妄想できなくて」
「……っ、だから、妄想とかしてないっつうの」
妄想なんかせずとも……。
そんな考えが頭にチラついてしまい、言葉が詰まった。
パンパンと頬を叩き、話を逸らす。
「そっちはどうだ。気持ちいいか?」
「んふー。ちょっと熱かったですけど……慣れたら気持ちよくなってきました。すっごく癒されてる感じがします」
「あぁ。肩凝るとか言ってたもんな」
ぽつりと呟くと、塀の向こうで雫がぷっと吹き出した。
「先輩、今絶対私のおっぱいを想像しましたね?」
「ぶふっ――は、はぁ? べ、別にそんなことねぇし」
「うっそだぁ~。肩凝るのと私の大きめなおっぱいを絶対繋げて考えてましたよ。女の子はそういうのに敏感なんですからね」
「うっ……悪い」
連想したのは事実なので、ここは素直に謝っておく。
えへへー、と照れたような声が返ってきた。
「先輩ってば、私にメロメロですね。ちょっとずつですけど、私のことを超絶美少女として見始めているのがよぉーく分かります」
「お前、傲慢なのか謙虚なのか分からないな……」
なんて言うけれど、雫の指摘を否定するつもりもなかった。
俺は雫に惹かれている。
これはもう、はっきりと断言できてしまうことだ。そうじゃなきゃこんなにもドキドキしないし、こんなにも大切だと思わない。
それでもこれが恋心なのかは、まだ分からない。
別の、もっと醜い何かなのではないかと、そう思えてしまうから。
それに、雫を俺たちの間違いに巻き込んでしまっていいのだろうか、とも思うのだ。
雫の告白を受けることは、浮気を始めるということでもある。
本当の彼女と裏で付き合いながら、二番目の雫と表で付き合う。
俺にはまだ雫を穢す勇気が、ない。
「ねぇ先輩。今日、楽しかったですね」
「……だな」
星屑みたいに綺麗な雫の感想を聞いて、きゅ、と胸が痛む。
言葉に詰まった俺は、やっとの思いで無難な相槌を返した。
「もっともっと楽しいことしていきましょうね、先輩。色褪せない思い出、たくさん作りましょう」
可愛いというよりも綺麗な声で、じんわりと雫が呟く。
本心で答えるのが怖くて、俺は茶化すように返事をした。
「……やけにセンチメンタルだな。そういうのは物語の後半で見せるもんじゃないのか? 先輩の卒業が近づくタイミングとか」
「それ、絶対失恋フラグじゃないですか。負けヒロインになるなんてごめんです。私はハッピーエンドを迎えたいので」
そっか、とだけ答える。
罪悪感を抱きながら。
「のぼせそうだし、俺はもうあがるわ」
「りょーかいです。私はお姉ちゃんが来るまで待つので、先に部屋に帰っててください」
「はいよ。雫ものぼせんなよ?」
「のぼせたら先輩に運んでもらわなきゃいけなくなるかもしれないですもんね。気を付けます」
「そんなのは漫画の世界だけのとんでも事件なんだよなぁ……」
そうして俺は、湯船から出る。
仄かにひんやりとした空気が、ぼやけはじめる思考を冷ましてくれた。
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