2章#09 あの子を彼女に。
「ほんとありがとな、美緒。頼むのが急だったなって反省してる」
「本当だよ、兄さん。放課後に言われるのは流石の私もちょっと困ったし」
夕食を終えた午後9時。
俺は洗い物をしながら美緒と話していた。毎日、夕食が終わってから一時間ほどかけて雫は風呂に入る。だから9時頃までの約一時間、綾辻は美緒になる。
呆れたように笑う美緒は、冷蔵庫に軽く寄り掛かりながら紙パックの牛乳をちゅるちゅるとストローで吸っていた。
今日の放課後。
新入生歓迎会が終わってから夕食を作るとかなり遅くなってしまうことに気付いた俺は、夕食分の食事当番だけ
美緒が作る和食は疲れた頭と体にじんわりと染み、なんだかとても落ち着いた。おかげでふわふわと心地よい気分で洗い物をこなせている。
「兄さん、そういうところが抜けてるよね。中学校の頃も普段は『俺ならなんでもできる』って顔してるのに、変なところでドジってたし」
「グサグサ刺さる台詞はやめて? 分かってるし自覚してるから」
悪戯っぽく目を細めるみお。
子供っぽくむぎゅむぎゅとストローを噛む姿はとても可愛らしい。なんだか、今日の美緒はフワフワしているように見えた。
「そういう兄さんも、嫌いじゃないけど」
「……そ、そうか。まぁオタク的に考えて、兄を好きじゃない妹なんてどこにもいないからな」
「オタクの妄想みたいなことを言うね……」
「じゃあ美緒は俺のこと、嫌いか?」
「……そんなことは言ってないじゃん」
美緒はぷいりと顔を逸らし、ぼそぼそと呟いた。耳に先っちょだけが赤く染まっていて、可愛いな、と思う。
そんな会話をしている間に洗い物は無事終わる。
同居を始めてすぐの頃は洗い残しを指摘されることも多かったが、この三週間ちょいでだいぶ上達してきた。
あと二、三日で4月が終わる。
やってくるのは5月。
俺にとっては、少しだけ特別な月だ。
「はい、兄さん」
「ん……淹れてくれたのか」
美緒が渡してきたのはホカホカな緑茶だった。
ありがたく受け取りながら聞くと、きゅいっと目尻を下げながら美緒が答える。
「うん。しばらくはリビングにいるでしょ?」
まぁな、と俺は頷く。
部屋に戻ってしたいことがあるわけでもない。ダラダラとテレビを見て過ごす予定だった。
ソファーに二人で座ると、こつんと肩が触れ合う。
テーブルに湯呑を置いてリラックスしたら、自然にほぅと吐息が漏れた。
「兄さん、結構疲れてる……?」
「分かるか?」
「何となく、ね。いつも見てるから」
素朴に呟かれたその言葉がシンと身に染みる。
そっか、気付くんだな。妙な可笑しさを感じながら、まあそうだな、と呟く。
美緒の微笑がさやさやと鼓膜を撫でた。
「で、今日はどうしたの?」
牛乳をテーブルに置いたみおがこちらの表情を覗いてくる。
特に隠すことでもないので、素直に白状してしまうことにした。
「別に、何かがあったわけじゃない。ただちょっと新入生歓迎会であちこち動き回ったからな。それで疲れたってだけだ」
「そっか」
今日ほど東奔西走する機会は滅多にない。大抵は時雨さんがいるからどうにかなるので、そのサポートに回っているのだ。
「後はまぁ……ちょっと悩んだりもしててな」
「悩む?」
「雫のことを、さ」
コーヒーに口をつけながら答えると、美緒がはっと息を呑んだ。
一瞬、美緒と綾辻が曖昧になる。
彼女は自分を前者に定義しなおすように、こつん、と肩をぶつけてきた。
「答えはまだ要らないって言われてはいるけど……告白されたのは事実だから。なるべく早く答えを出したいんだよ」
「……あの子の告白、断るの?」
美緒の問いにすんなりと答えることができなかった。
意図せず浮かび上がってしまう沈黙は、下手な答えよりもよっぽど雄弁だ。美緒は口を尖らせ、ふぅん、と漏らした。
「受けるつもりなんだ?」
「……それは」
「あの子、可愛いもんね。兄さんをずっと慕ってくれる後輩の女の子……好きにならない方がおかしいよ。私だって分かる」
美緒が体の向きを変え、ぐっと俺との距離を縮めてくる。細やかな指が丁寧に首筋を這い、喉仏を撫で、そして唇をなぞった。
陽炎のように、美緒の表情が揺らぐ。
「別にいいんじゃないかな。あの子と付き合ったらいいと思う」
「…っ、でも、それじゃあ――」
「浮気になっちゃうよね。兄さんは私と付き合ってるんだし」
美緒のとろんとした瞳に魅せられる。美緒がしたように、俺も指で彼女の輪郭を撫でた。瑞々しい唇に触れると、ちゅぷり、と先っぽが濡れる。
ちゅぷり、ちゅぷ。上唇と下唇の柔らかさを感じ、息が荒くなった。
「でもさ。私たちは兄妹なんだよ。付き合ってることは絶対誰にも言えない。結婚もできないし、赤ちゃんだって生んであげられないの」
義妹とは結婚できるし、子供だって作れる。
でも綾辻は美緒なのだ。実の妹だから結婚も子作りもできない。
美緒の口から指を取り上げる。恋しげに寄越してくる視線ごと、俺はぺろりと美緒の唾がついた部分を舐め取った。
兄さん、と女めいた表情で美緒が身じろぐ。
「……あの子を振っちゃうのも可哀想だし。だから、兄さんはあの子を彼女にしちゃっていいと思う。私の次の、二番目の彼女に」
一番目だけど秘密の彼女。
二番目だけど公認の彼女。
言葉にするとものすごくシンプルで、イージーで、分かりやすい。
そうだ、簡単なのだ。
だから今は考えなくていい。それよりも俺は、美緒が欲しい。
「美緒…っ」
今は美緒との時間だ。
俺と彼女が恋人でいられる時間は限られている。だったらその限られた時間くらいは、ただ俺と美緒だけの世界を満喫したい。
目を開けながら、キスをした。
すると、視界には美緒以外が映らなくなる。美緒が嬉しそうにはにかみ、きゅっと目を閉じた。何もかもを委ねるような表情。大切にしたいような、ぐちゃぐちゃにしたいような、複雑な気持ちになる。
「んっ、んぅ、あっ……兄さん、すき」
「うん」
「大好きだよ、兄さん」
欲しい言葉が錠剤みたいに溶けていく。
愛の言葉は水溶性なのだろうか。少なくとも、理性と罪悪感は、水に溶けるらしかった。
持て余した手で、美緒の髪を乱暴に撫でる。代わりに、キスはとびきり丁寧にする。ゆっくりと飴玉を味わうように唇と舌を動かして、美緒を愛撫した。
至上の幸福に溺れながら、俺は思う。
もしも俺と美緒だけの世界で生きていけたなら、どんなに幸せだろう、って。
けれども、多分それはできなくて。
じゃあどうすればいいんだろう。幸せの流れるプールに揺られながら考えていた。
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