2章#08 でもね、先輩

「お疲れ様。今日は本当に迷惑をかけてしまったね」

「ううん。あれくらいならどうってことはないよ、時雨さん」


 新入生歓迎会は恙なく終わりを迎えた。

 出し物タイムは盛り上がっていたし、歓談タイムでは新入生との絆も育まれていたように思う。参加者もかなりの数がいたし、労力に見合うだけの成果は得られたと言えるだろう。


 片付けも無事終わり、俺は時雨さんと別れの挨拶を済ませた。

 出鼻を挫くような時雨さんの不在をまだ後ろめたく思っているようだったが、その後の活躍を考えれば文句など出てくるはずがないのだ。


「俺はもう行くよ。いい時間だしね」


 そっか、と時雨さんは呟く。


「飲み物の一本くらいは奢ろうかと思っていたけれど……どうやら、今日は先客がいたらしい」


 どこか嬉しそうに顔を緩める時雨さん。その視線の先には、俺の手に握られた缶コーヒーがあった。

 糖分多めのコーヒー。校内の自販機に先日追加されたばかりのこれは、まだひんやりと冷たい。この時期はホットは売っていないのだ。


「ああ、会計クンがね」

「そっか。なんだか素敵な感じがする。お姉さんとしてほっこりするよ」


 さらさらと夕暮れの風が髪をなびかせた。

 あまりにも絵画的で物語的な優しい笑みだったから、直視するのが躊躇われる。くすぐったさを誤魔化すようににへらと笑った。


「まぁ俺もちょっと会計クンへの対応はイケメン過ぎるだろって思ったよ。さりげない気配りができちゃうところとか、男も惚れる男だろ、ってね」

「それなのに一緒に帰ろうってことにならないあたりがキミらしいけど」

「……言わないで。さっき背中を見送りながら思ってたから」


 なお、会計クンは副会長と二人で帰った。二人は仲がいいのである。邪魔しちゃ悪いだろうと思って、一緒に帰るのは遠慮したのだ。


「はぁ……いいんだよ俺は。どっちみち今日は早く帰りたいし」


 じゃあまた、と告げると、またね、と返ってきた。

 時雨さんと別れた俺は、大人しく家路につく。

 空はもう、すっかり蜜柑色だ。ほんのりと薄暗い紫も混じっており、夕方が疲れているみたいなだ、とくだらないことを思う。


 歓談タイムの最中の俺の忙しさといったら凄かった。

 料理部やお菓子研究会の料理やケータリングの数を計算し、足りなくなる前に追加で出す。基本はたったそれだけだが、何しろ人が多いので色々と考えることが多かったのだ。

 その他にもプチトラブルへの対処なども生徒会メンバーと協力して行ったので、思いのほか頭を使った。おかげで脳の疲労が途轍もない。


 せめて癒しを。

 そんな思いに駆られた俺は、コーヒーの缶をかしゅっと開けた。

 体に流し込む練乳MAXなコーヒーは、めちゃくちゃ染みわたる。やべぇ……効くわ。


「あぁ……いい。このまま露天風呂でも入りたい……」

「あっ、先輩がついに壊れた」

「なぁ、雫。脈路もなく登場した挙句、毎度の如く一言目が俺に対して割と酷いのやめないか?」


 突然ひょっこり現れた雫に言うと、頬に指を当ててむむーっと何かを考え始めた。

 誰もいない横断歩道。

 信号機の赤ライトを一瞥し、雫は待っていてくれたんだろうな、とぼんやり思う。俺に好意を持ってくれていることが分かっているからこそ、こうやって待ってくれていたことに胸が熱くなる。


「あ、分かりました。じゃあ……せーんぱいっ♪ どうしても会いたくてぇっ、先輩のこと待ってましたっ。えへへっ……今日も先輩はかっこいいいですね♪」

「ぶふっ」


 端的に言って、吹いた。

 水しぶきと化す激甘コーヒーたち。

 雫はけらけらとそれはもう愉快そうに肩を震わせている。


「もう先輩、汚いですよ~。ちゃんと飲み終わってから口を開かないと」

「誰のせいだと思ってるんだ、誰の!」

「えっとぉ~、私、分かんないです♡」

「お・ま・え・な!」


 もちろん悪いのは雫である。

 いつもの数十倍は甘ったるい声でわざとらしく甘えてきた雫には、絶対俺を笑わせるつもりしかなかった。流石にあれはあざといとかではなく、確信犯だろう。

 ぎょろりと俺が睨むと、雫は惚けるように口笛を吹く。

 ひゅーひゅる、ひゅーひゅる。

 小鳥の囀りみたいな口笛は妙に上手かった。


「元はと言えば先輩がケチをつけてきたのが悪いんですよ?」

「くっそ。反論したいけど反論したらもっとヤバいのを投下されそうだから黙っておいてやる」

「やーい、先輩のチキ痛っ!」


 チキンとか言おうとした雫を遮ったのは俺のデコピンだった。

 それほど強い威力にはしてないはずだが、雫は大げさにおでこをすりすりと撫でる。


「酷いです! 暴力です! ドメバイです!」


 だからドメバイじゃなくてDVな。

 そんなツッコミは、信号が青になったのでやめておく。分かっててわざとやっているんだろうし。

 横断歩道を渡ると、雫もトテトテとついてきた。置いていくのも可哀想なので歩くスピードを合わせ、コーヒーを一口呷る。


「よくそのコーヒー飲めますよね。私、前に試してみたんですけど無理でした」


 コーヒーを見ながら雫が呟く。

 割と特徴的なので、このコーヒーは色んな作品で登場する。その流れで雫も試したのだろう。何を隠そう、俺もそうだった。


「俺も日頃から飲みたいかって言われると別だけどな。あれだよあれ。女子がタピオカ飲みたがるようなものだ」

「一時期の女子は普通にタピオカを常飲してましたけどね」

「マジかよ。それなのに今や廃れ気味なわけ? 堪え性なさすぎだろ……」

「タピオカで堪え性の話をされても」


 雫は苦笑った。

 缶を振って残りを確かめてから、話を変える。


「まぁそれはそれとして。今日はお疲れさん」

「え、ああ、はい。確かに思ったより疲れましたね~」

「あー……色々声かけられてたもんな」


 思い出すのは歓談タイムの雫の様子。

 今日までジワジワ噂になりつつあった雫の可愛さは、ついに上級生の知るところになった。雫と仲良くなりに行く奴らも多かったし、きっと次の『可愛い女子ランキング』では上位に入ること間違いなしだろう。

 ちなみに、今日の歓談タイムを使って上級生の男子が一年生の男子を例のグループに招待していた。俺はまだ招待されていない。ぐすん。


「そーですね。ああいうのはやっぱりちょっと鬱陶しいです」


 うへっ、と雫が疲れた顔を見せる。

 絡んでいる奴の中にはちょっとばかししつこい奴もいた。入江妹が番犬のように傍にいたおかげで特に厄介なことが起こらなくて済んだが、俺が行こうかと思う場面もチラホラあった。


 お疲れさん、としみじみと呟くと、雫は小さな吐息を漏らす。

 まぁ、と気を取り直すように続けた。


「あんな風に来てくれるってことは私がそれだけ可愛いってことですしね。推しヒロインが人気になってると思うと悪い気はしませんでした」

「お前そういうところはほんと凄いな⁉ 労って損したわ」


 そりゃそうだよな、と苦笑交じりに思う。

 あの場で好意を持って近づいてくる奴は、大半が容姿で雫を判断しているはずだ。まるでそれは悪いことのように聞こえるけれど、可愛い子と可愛くない子を比べれば前者と仲良くなりたいと思うのは当然のこと。


 それは酷くルッキズムに偏った考えなのかもしれない。でも俺は、雫が自分磨きにかけている労力を知っている。

 毎朝早起きしてメイクをしていること、風呂上りにはケアを欠かさずしていること、体重管理と健康的な食生活を心がけていること。


 それら全てが雫の魅力だし、見えない努力の結晶が雫の今の容姿だ。

 努力を誉められるのが好きな雫からすれば悪い気はしないに決まっている。


「でもね、先輩」


 ふと、雫が足を止めた。

 夕暮れすぎ。温もりとも肌寒さとも言いにくい微妙な空気が肌を撫でる。

 小悪魔とも天使ともつかない顔で雫が真っ直ぐ伝えてきた。


「こうやって私の時間を独占できるのは先輩だけなんですよ。一緒にいるときも、そうじゃないときも、先輩は私のことを独占しちゃってるんですから」

「……っ」


 西日よりもずっと、雫のことが眩しく見えた。

 可愛いとか綺麗とかそういう感想よりも先に、キラキラしているな、と心から思う。

 早まる鼓動とその感情に名前を付けるにはまだ足りないものが多すぎる。せめて少しくらいは誠実でいたくて、顔を背けそうになった自分を叱りつけた。


「俺は振り回されてるだけなんだよなぁ……」


 俺がヘナヘナと呟くと、雫はくすっと笑った。或いは、笑ってくれた。


「でもそういう私が好きなんですよね、先輩は」

「俺がMみたいな言い方するんじゃねぇよ。いや、小悪魔系後輩に振り回されたくないオタクとかいないんだけどね?」

「分かります!」

「当人が同意してんじゃねぇよ!」


 笑いながら、再び足を動かす。

 しゅるると弱い風が頬を撫で、雫のツインテールを僅かに揺らした。


 せめて、と思う。

 一緒に歩いていたら車道側を歩けるような。

 そういう関係では在り続けたい。

 そういう想いではあるんだと、自信を持っていたいのに。

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