第二章『灰被りのキス』
2章#01 責任
思い出した温もりは冷え切っていて、まるで魔女の呪いのようだった。血塗られた口づけにこもる想いを妄執と呼ぶのなら、俺の心を縛るのは間違いなくそれだろう。美緒への妄執は呪いとなって、今をモノクロに変えている。
きっと、美緒はこんなことを望んでいない。
前を向け、とあの子は言うだろう。
それか、大切な思い出にして、と言ってくれるかもしれない。
どちらにせよ、こんな風に蹲り続けていることは望まれていないはずで。
けれど、俺にはどっちでもよかった。
俺はただもう一度――。
夏の終わり、太陽と月、夜空に切なく咲く花火。
今をまともに生きていないくせに、将来の夢なんて持っているわけがなくて。
だから俺は、10年後の再会を願ってお別れすることもできないのだった。
◇
お互いの唇が重なってから、もう何分が経っただろう。
夜を一つに集めたみたいな苦さと、星空をちりばめたみたいな甘さが、舌を通して伝ってくる。
体が絡み合って、激しくキスを続けた。
ちく、たく、ちく、たく。
鳴ってもいない秒針の足音が耳の奥で鳴っている気がする。
「んっ……」
「ん…んちゅ」
キスの作法なんて知らない。
だからただ、欲しいままに唇を感じる。相手の唇を上と下の唇で挟んでみたり、歯茎を舌でなぞってみたり、欲望そのものみたいな唾液を流し込んでみたり。
いつの間にか瞼をあげていた。
その刹那、美緒とのファーストキスの記憶が波のように押し寄せてくる。唇をちゅっと触れ合わせるだけの幼気なキス。たぶん、これまでの人生で一番幸せな瞬間だった。
「ん、んっ、んむ」
俺が今キスしているのは綾辻だ。他の誰でもない。
なのに、心が錯覚する。美緒との行為の続きなのだ、と。高校生になって、いろんなところが年相応に女性っぽくなった美緒との、何百回目かのキス。甘くて熱くて、俺は興奮する。持て余していた両手で、キスをしている相手の体に触れた。
「っ!? ん、ぁっ、んんっ」
「ん、んむ……」
頬をそっと右手で撫でた。すべすべしていた。何に喩えればいいか分からないくらいだ。顔と耳の境界をなぞると、恥じらうような声が聞こえてきた。
親指と人差し指の二本で、耳の形を確かめていく。耳たぶ、溝、内側の肌、そして穴も。愛撫と呼ぶには児戯に近すぎる指遊びに、美緒はきゅっと目を細めていた。
「ぷはっ……もも、せ?」
一度唇を離すと、彼女は戸惑った様子で呟く。
その言葉は、幻に迷い込みそうだった俺を引き留めてくれた。かはっ、と一気に酸素を取り込む。すぅ、はぁ、すぅ、はぁ、息を整えようと大仰に深呼吸をするけれど、不規則にふるさい鼓動のせいでちっとも落ち着けない。
「わ、悪ぃ。今のは――」
「私の負けだね」
「え?」
「我慢しきれなくて口を離したのは私でしょ? だから私の負け。別に、キス以外をしちゃいけないなんて言ってないし」
そうだ、俺と綾辻はゲームをしていた。
火照った頬を冷やすように手で風を送る綾辻。彼女は俺をじっと見つめ、それとも、と尋ねてきた。
「文句、ある? 反則負けになりたい?」
「……っ」
そうくるかよ、と思った。
綾辻は最初から俺に委ねるつもりだったんだ。
そもそも、俺も綾辻も、キスをしながらずっと鼻で呼吸をしていた。お互いに、相手のルール違反には気づいていたはずだ。俺だって気付いてた。にもかかわらず黙っていたのは、勝ちたいのかどうか、自分でも分からなかったから。
俺が勝てば、美緒を演じる綾辻と秘密の恋人になる。
逆に俺が負ければ、ありのままの綾辻と付き合う。
百瀬美緒と綾辻澪。
どちらかを選んだら、俺はもう引き返せなくなる。
だったら……。
「俺は――」
「なんてね。今のは私の負けだよ、兄さん」
「…ッ!?」
「ズルいとは思うけど、ルールはルール。そうでしょ?」
少女は微かな憂いとあえかな魔性を纏って、ふんありと笑う。
兄さん、と。そう呼ばれたことで、俺は何も言えなくなってしまった。鼓膜を叩く甘美な響きの懐かしさに、思わず泣きそうになってしまう。
「ところで……兄さんのせいで、私もそういう気分になっちゃったんだけど。責任…とってくれないの?」
「っ、み、お…っ」
「私はえっち、したいな。兄さんは……そうじゃない?」
なかったはずの時間を追い越して、美緒が甘えるような口調で言った。
着ていたはずの下着はとっくにズレて、俺も美緒も、すぐそういうことができる状態にある。どころか、体はどうしようもなくシたいと言っていた。俺のあそこも、美緒のあそこも。
「みお…美緒……っ」
「兄さんっ」
きぃ、とソファーが鳴く。
しくしくと泣いていた。
◇
「美緒。シャワー浴びに行くか」
「ん……だね。兄さんのせいで全身がべとべとだし」
行為が終わると、すぅ、と思考が凪いでいった。おかげで戻ってこられた現実は、正しいとは言い難い歪んだ形をしている。
なのに、そのことを受け入れていた。
ゲームで決まったことだから――そんな形だけの言い訳をお守りにして、俺は綾辻に美緒の代わりを押し付けたのだ。
美緒の手を引いて、風呂に向かう。
シャワーハンドルを捻ると44度の熱湯が顔を出した。美緒と二人で、熱っ、と零す。
「ねぇ兄さん。髪にもついちゃったから洗いたい」
「あー、そうだな。温度下げるか?」
「ん、お願い。40度くらいで」
「うい」
一気に4度も下げたせいか、体温よりちゃんと熱いはずの40度のお湯が日だまりのように優しく感じた。
美緒と俺の身体に纏わりつく汗を軽く洗い流してからシャワーノズルを渡すと、何故かすぐに戻ってくる。
ん……?
もう一度シャワーノズルを渡すが、美緒は首をふるふると振った。シャワーノズルを俺に握らせ、湯船の縁に腰を掛ける。
「私、疲れたんだよね」
「お、おう……まぁちょっと激しくしすぎたしな」
「そういうエッチなことを言うのは禁止」
ぱちん、とデコピンをしてきた。
いつもより少しだけフワフワした雰囲気の美緒が、だからね、と微笑む。
「兄さんが髪洗って。目は瞑っておくから」
「えっと……は?」
ん、と美緒は俺に頭を差し出した。
無防備なその仕草はとても可愛いが、今はそういうことを考える前に言うべきことがある。
「普通に自分で洗った方がよくないか? そこに座りながら髪を洗えばいいし、逆に俺がやった方が疲れるだろ」
俺の言葉に美緒は、はぁ、と溜息を吐く。
そしてからかうようにこそっと囁いた。
「兄さんって、セフレには気遣えるのに彼女には気遣えないの?」
ちょっとだけ拗ねた声。
甘えるようなその声がどうしようもなく心を満たす。
「分かったよ。でも上手くできる自信はないからな?」
「口よりも手を動かしてよ、兄さん」
「声が冷たい⁉」
美緒と雫が持ち込んだシャンプーを手に取る。男所帯の百瀬家にはなかったものだ。ワンプッシュしてから手で軽く揉みこみ、美緒の頭をくしゅくしゅと洗っていく。
「……結構洗うの上手いじゃん」
「そうか? 親戚とかの髪はよく洗ってたし、その経験が活きてるのかもな」
「ふぅん。時雨姉さん以外にも仲がいい親戚がいるんだ?」
時雨さんのことを『時雨姉さん』と呼んでくれるのも妹の一環なのだろう。細かなところに嘆息を漏らしつつ俺は答える。
「いた、だな。母さんが死んでからはほとんど会ってない」
今は夏に挨拶に行く程度になってしまったが、小さい頃は母方の親戚とよく遊んでいた。
そうなんだ、と美緒は呟く。
「今度、会いに行こっか。夏休みにでも」
「……ああ、そうだな。父さんもきっとそのつもりだろうし」
「うん。あの人たちのことだから仕事が忙しすぎて、とかありそうだけど」
「ありえそうだから怖いよなぁ……」
せらせらと笑うみたいに鳴る水音。
くつくつと笑いあう仲良し兄妹。誰かがいるときは正しく兄妹を演じて、二人っきりのときにだけ、神様にも内緒で愛し合う。
美緒と秘密の恋人を続けていたら、きっとありえたであろう瞬間。
ひたすらに心地よくて、俺はしばらく美緒の髪を洗うのをやめられなかった。
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