1章#36 もし電話に出たら

 ――とぅるるるるるっ


 鳴り響く着信音が、ぐちゃぐちゃになっていた思考に冷や水をかけた。

 綾辻と視線がぶつかり、すぐに目を逸らす。フローリングに転がったスマホ画面をソファーから一瞥すると、そこには今一番見たくない名前が記されていた。


 綾辻雫。

 綾辻の妹であり、俺に恋愛感情を抱いてくれている可愛い後輩が電話をかけてきていた。


 刹那、俺は冷静になる。

 何がゲームだ。こんな非倫理的なことが許されていいはずがない。どれだけ過ちを繰り返すつもりなんだよ。これ以上、間違え続けるわけにはいかないだろうがッ!


 今の俺たちの行動を知ったとき、雫はどれほど悲しむだろうか。

 綾辻姉妹の絆はどう変わってしまうのだろう?


 そんなことを考えれば、ここで終わりにする以外の選択肢は見当たらない。


「なぁ綾辻。もうこういうのは終わりにしよう。ゲームなんてくだらないものはやめだ。雫からの電話、無視するわけにはいかないだろ?」


 綾辻は何も言わない。俺は体を捻り、ソファーからスマホに手を伸ばして拾い上げる。

 電話に出さえすれば綾辻だって冷静になるはるだ。綾辻が雫を大切に想う気持ちは決して偽物ではないはずだから。


 なのに、


「もし電話に出たら、雫に全部バラす」


 綾辻は力強く拒絶した。


「なっ……。どうしてだよ! 雫は大切な妹だろッ?」

「だからこそだよ! 雫は世界で一番大切な妹だからっ! この瞬間を逃したらもう、私は何もできない! 百瀬に『愛してる』って言えなくなって、関わり続ける理由すら失くしちゃうのッッ!」


 悲痛な叫びが着信音を掻き消した。

 きぃ、とソファーが軋んだ。まるで誰かの心みたいに。


 ぽとん、と。


 綾辻の瞳から冷たいが零れちる。

 着信音が虚しくて寂しげに止まった。不在着信の四文字が画面に浮かぶ。


 今から掛け直せばまだ何とかなる。雫はきっと、勉強合宿の合間に電話をかけてくれたのだろう。時間的に考えて、今は夕食が終わった頃。入浴まではしばらく自由時間だったはずだ。

 早く掛け直そう。飯を作ってたから、とでも誤魔化せば――。


「お願いっ。私の提案に乗ってよ。それが私の、最後のお願いだから」

「み、お……っ」


 綾辻澪が、或いは百瀬美緒が、シクシクと泣いていた。

 二人の姿が、否が応でも重なってしまう。美緒を失った日の苦しさが、スマホに手を伸ばす手を放棄させた。


 やめてくれ。

 美緒の顔で泣かないでくれ。

 その顔で泣かれたら、拒否できなくなる。

 

「ゲームの説明、してもいい?」


 左側のブラ紐がぽろりと肩から落ちる。

 拒否なんて、できるはずがなかった。


「……分かった。もう後戻りはしない。ルールを教えてくれ」


 うん、と色っぽい声が返ってくる。

 もぞもぞと腰を動かしながら綾辻は言った。


「ルールは単純。今からもう一度、私とキスをして。それで……先に息ができなくなった方の負け。もちろん、鼻呼吸は禁止だよ」


 それは、言ってしまえばただの息止めで。

 けれどキスが介在することで、その意味は大きく変わる。


「セックスじゃ、ないんだな」


 空白ができてしまうのが怖くて、考えている間に口を開く。

 綾辻は、うん、と頷いた。


「最初はするつもりだった。だから脱いだし……脱がせた」


 でも、と綾辻は続けた。


「百瀬とのキスは――気持ちよかったから。セックスなんてもうしなくてもいいかもって。そう思えるくらい、幸せな気持ちになれたから。だからキスがいい」


 ジン、と舌が熱くなったような錯覚を受ける。

 口先からどんどん溶けていってしまうんじゃないかと心配になるくらい、綾辻の言葉はドロドロと理性を溶かした。


 もう言葉は要らない。

 俺が勝てば、綾辻は美緒の代わりになる。

 俺が負けたとき、俺と綾辻は恋人になる。


 そういうゲームだ。


「分かった。やろう、そのゲーム」

「うん……来て?」


 愛と哀の境界線をクレヨンで曖昧に引いてしまえたらよかった。

 綾辻と美緒の境界線を、今の俺は引けていない。


 俺がこれからキスをするのは綾辻か、それとも美緒か。


 重なった唇の感触で確かめるには、美緒とのキスが浅すぎたことを知った。

 


 ◇


 SIDE:雫



「電話、出ないなぁ……」


 夕食が終わってから、もう30分ほどが経った。

 一度目の発信から20分と少しが過ぎている。お風呂に行く前にもう一度電話を掛けてみようと思ったんだけど、やっぱりスマホ画面に表示されるのは、応答なし、の四文字だけ。


 うーん……どうしたんだろう。

 昨日、私は先輩に宣戦布告した。これからあなたを落としますよ、って。絶対に好きにさせてみせますからね、って。


 ちょっとだけ早まったかな、という思いがないわけじゃない。今の先輩が、私を後輩としてしか見ていないことは何となく分かっていた。私がどんなに拒否しても、あの場で答えを告げられていた可能性だってないわけじゃない。


 それでも告白を急いたのは、ひとえにお姉ちゃんのためだ。

 クラスメイトと一つ屋根の下で暮らす、というのはあまり気分がいいものではない。好意を持っていない相手との同居生活だなんて、不安を拭えるはずがないのだ。たとえ私の知り合いだとしても、それは変わらないだろう。


 けど、お姉ちゃんは周囲と上手くやるのが得意な人だ。友達は作らないけど、他人とは無難にやり過ごすタイプ……って、なんか先輩みたいだなぁ。

 先輩が色々と自分で抱え込みやすいのと同様、お姉ちゃんだって不満を全部自分のうちに貯め込んでしまう。私が『話して』なんて言ったところで変わらないだろう。


 じゃあ私には何ができる?


 見つけ出したのが、このタイミングでの宣戦布告という道だった。

 今ここで私が先輩に好きだと告げ、お姉ちゃんにも私の好きな人が先輩だと教える。

 そうすれば、お姉ちゃんにとっての先輩はただのクラスメイトではなくなる。“妹の想い人”、という立ち位置に変わるのだ。それは先輩から見ても同じだろう。


 先輩もお姉ちゃんも、立ち位置や関係性をやたらと意識するきらいがある。

 だから“妹の想い人”と“自分を好いている後輩の姉”になれば、少しはお姉ちゃんの不安も減るんじゃないか。

 私は無い頭でそう考えた。


 ……ギャルゲー脳、とか言わないでほしい。確かにちょっとそういうオタクカルチャーに毒された方法な気はしちゃうけど。


 それに……先輩の妹のままでいるべきじゃないとも思う。

 だって、先輩には――。


「二人とも、仲良くなってくれるといいんだけどなぁ」


 先輩だけではなく、お姉ちゃんもさっきから未読無視が続いている。

 ほんの少し不安だけど……何だかんだ仲が良さげな雰囲気だったし、私がいない間に打ち解けてくれたら後輩&妹として嬉しい。


「雫ちゃん、そろそろお風呂いこうよ」

「あっ、うん! 行く行く!」


 ともあれ、いつまでも先輩たちに気を取られてもしょうがない。

 私の頭は今、中学校では縁遠かった古文単語のパレードで疲れ切っている。本は好きだけど、古文はなんか受け付けないんだよね。


 友達と一緒にお風呂場へと向かう最中、何故だかさっき授業で習った和歌が頭をよぎった。

 私の名前が二回も登場して、ついでに『妹』という字も紛れてる。あれが妹を意味する言葉じゃないのは分かってるけど、やっぱりなんだか私の歌のように思えてしまった。


『あしひきの やまのしづくに 妹待つと

 我れ立ち濡れぬ やまのしづくに』


 まぁ、待ちぼうけになんてなってあげないんだけどね。小悪魔系後輩は主人公にぐいぐい行くものだと相場が決まっているんだから。



 ぽつぽつ、ぽつ。

 少し前から降り始めた天気雨の音がちょっとだけ哀しく聞こえたのは……きっと気のせいだろう。

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