1章#35 初戀
最低な話を語り終えた。酷く気持ちの悪い話だ。カラカラになった喉が粘ついている。
「そっか」
美緒のように笑う綾辻は、黒いレースの下着の他には何も着ていなかった。
それは俺も同じ。
嘔吐するような告白の間、俺たちは一枚ずつ互いの服を脱がせ合っていた。何度もシてきたことだから、ちっとも手間取らなかった。
これは前戯だ。
弱さの吐露は、極上の行為をするための愛撫にすぎない。
そう言い訳することで最悪の懺悔ができている。
ちく、たく、ちく、たく。
時計の針は19時半に向けてたくさんの一秒を刻み続けている。夜を刻み、時を刻み、まるで裁断するみたいに過去と今を切り離していた。
妖艶な眼のまま、綾辻の指先が俺にそっと触れた。
「まだ肝心なことを話してないよね、百瀬は」
「……は?」
「百瀬が雫と関わった理由と百瀬が私と関わった理由。この二つは聞いた。でも、今の話には最後のいっこがなかったでしょ」
綾辻の言葉を思い出せば、何を言いたいのかは分かる。
でもその問いには答えられない。
だってそれは、この世でただ二人しか知らない秘密だから。
「答えてくれないなら、質問を変える」
「…………」
「どうして百瀬は、雫に告白されて困ったの?」
まるで真実の居場所に見当がついているみたいに、綾辻は的確な問いを口にする。
それでも、ひとまずは安堵した。
この質問への答えはきちんと用意してある。
「雫に美緒を重ねてきたからな。その罪悪感と……それから、綾辻も入れた三人の関係も、それはそれで気に入ってたんだ。その関係が壊れるかもって思った」
「あっそ。この期に及んで嘘を吐くってことは、そんなに答えたくないんだ?」
「っ、別に嘘なんかじゃ――」
「――ない、かもね。でも、それは理由じゃなくて理屈でしょ。後付けの、どうして自分が困ったのかを説明するために立てた理屈。私が聞きたいのはそれじゃない」
心臓を握られるみたいに、吐息を漏らした。
綾辻の瞳には激情が巣食っている。そいつは俺を決して逃がすまいと捕縛し、追い詰めていた。
ソファーが軋む。
綾辻の細い指が俺の喉仏を撫でる。
そこまでされても、これだけは話せない。
だって…だって……俺は美緒と約束したんだ。一生話さない、って。
『だから今日のこれは、告白じゃなくて宣戦布告です。私は、先輩が私のことを好きで好きで堪らなくなっちゃうくらいに頑張ります。頑張り屋さんですからね』
小学校の頃から面倒を見続けた、可愛い後輩の告白がリフレインする。
ふにりと唇に蘇る、あどけない感触。
俺にかけられた呪文は、今でも俺に美緒を感じさせてくれる。
『忘れないでね。兄さんと初めて××をしたのは私だから』
最愛の少女の言葉が脳裏に響く。
彼女と同じ顔をした少女が言った。
「ねぇ百瀬。百瀬の初恋って、美緒ちゃんでしょ」
「っ……!?」
「美緒ちゃんのこと、妹だなんて思ってないんだ。私とセフレになったのも、雫の告白に困ったのも、それが理由でしょ? 恋人になっちゃったら、もう美緒ちゃんと私たちを切り分けられなくなるから」
白日の下に曝された真実は、ひどく歪な形をしていた。
認めるわけにはいかない。
咄嗟に、違う、と俺は答えていた。
「突拍子がなさすぎるだろ。そんなこと――」
「――ないわけないよ。だって百瀬はイく瞬間、必ず私のことを『みお』って呼んでた。『綾辻』でも『澪』でもなくて、『みお』って」
言われて、はたと気付く。
確かに俺は、最後の瞬間だけ、いつもそう呼んでしまう。こうして指摘されるまで、自覚さえしていなかったけれど。
でも、俺が『みお』と呼ぶ声には、美緒への恋慕が滲んでいたのだと思う。
他でもない、抱かれていた張本人がそう証言しているのだ。言い訳のしようがない。
「……認めるよ。俺の初恋は美緒だ」
「…………」
「ガキのくせに何を言ってるんだって思うかもしれないけど……俺と美緒は、両想いだった。そして、兄妹がそんな風に想い合うのはいけないことだって分かってたんだ」
「っ」
綾辻が目を見開く。
どうやら、俺と美緒の秘密までは見抜けていなかったらしい。そのことが少し嬉しくて、俺は美緒と交わした約束の内容を告げていく。
「だから俺たちは決めた。秘密の恋人になる、って」
「…っ」
ファーストキスは、美緒が死んだ日の朝だった。
母さんにバレないようにこっそり部屋で口づけをして、顔を真っ赤にしながら美緒は言ったんだ。
『忘れないでね。兄さんと初めてキスをしたのは私だから』
キスをしてからはドキドキしっぱなしで、いつもは出かけるとき美緒と手を繋いでいるのに、その日だけは少し離れて歩いていた。
母さんからも何かあったのかと疑われるくらい。キスをするのは夜だけにしておこう。そんなことを考えていたとき。
――美緒は死んだ。
「俺は今でも美緒が好きだ。でも、雫や綾辻を代わりにするのは間違ってるって自覚してる。だから――」
これまでの関係は一度、リセットさせてくれ。
そう続けるはずだった俺の唇は、
「――んんっ?!」
生暖かい感触によって、塞がれていた。
頭が真っ白になる。
俺は今、何をされている? いや、そんなのは見れば分かる。目の前にあるのは綾辻の瞳、鼻、顔、そして――。
どくどくと、甘やかな唾液が流れ込んでくる。口をほぐすようにゆっくりと挿入される舌は、さながら性交そのもののようだった。
美緒としたときとは似ても似つかない、ふしだらなキス。
俺は綾辻と、キスをしているんだ。
「ぷはっ。すごい。キスってすごく気持ちいいんだね」
恍惚とした顔で舌なめずりをする綾辻。
その官能的な表情に反応して俺が身じろぐと、ンっ、と綾辻が甘やかな声を漏らした。
「ねぇ百瀬。私とゲームをしない?」
綾辻の唇は、泣きじゃくる子供のように濡れそぼっている。
ゲーム。
唐突に放たれた単語の意味を測りかね、俺はそのまま繰り返した。
「ゲーム?」
「賭けみたいなもの。私が勝ったら、私と付き合ってよ。雫の告白は断ってさ」
「は、はあ?」
それじゃあまるで、綾辻が俺と付き合いたがってるみたいじゃないか、とか。
雫の告白の答えをゲームなんかで決められるはずがない、だとか。
俺の反論を人差し指で封じて、綾辻は毒そのものみたいに言葉を吐き捨てた。
「私が負けたら、美緒ちゃんの代わりにしていい。秘密の恋人としてしたかったこと、私の体を使ってやりなよ。私も美緒ちゃんの真似、してみるから」
「っ、なんだよ、それ……」
ざざざざ、視界にノイズが走ったように錯覚する。
無茶苦茶なルールだ。
なのに……突き返せない、自分がいる。当たり前だ。だって、この提案は俺にだけ都合がいい。勝っても負けても、俺は望むものを手に入れられるのだ。
「どうして、そんなことを……」
「愛してるんだよ、百瀬のことを。始まり方は不純で、続け方は間違いだらけだけど。でもこの気持ちだけは誰にも負けないって自信がある。雫よりも美緒ちゃんよりも、私は百瀬を愛してる」
「……っ、な、ら」
「でも、私は恋人じゃなくてもいい。あなたの一番になれるならなんだっていいの。恋人でも、義妹でも、セフレでも、友達でも、クラスメイトでも――どんな関係でもいいから、私はあなたの一番でいたい。セフレのままじゃいられないなら……変わるしかないでしょ?」
綾辻はゆっくりと指を動かし始めた。
視線を決して逸らすことなく、体に触れてくる。繊細に撫でられるたびにゾクゾクと快感が体に回った。
綾辻の言葉一つ一つが甘美な毒になって体中を犯していく。
綾辻の気持ちが痛いほどに伝わってきた。
美緒とのファーストキスを上書きするような口づけは思考を蝕み、俺のタガを外していく。
『忘れないでね。兄さんと初めてキスをしたのは私だから』
再び美緒の声が頭の奥で響いたとき、俺の心は決まった。
綾辻の提案に、乗る方へ。
「ルールを聞かせてくれ」
そのときだった。
口を開こうとした綾辻を妨げるように、
――とぅるるるるるっ
リビングにけたたましい着信音が響いた。
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