1章#32 こういうのはやめないか?
月曜日、昼休み。
俺は独りぼっちで屋上にいた。
ぼっちなのはいつものことだ。誰かのことをきちんと掴んでいられない俺は、数えきれないくらいに薄くてか細い『さよなら』を繰り返してきた。
だから慣れている。慣れてしまった。
昨日、俺は雫に好きだと告げられた。
その後、特筆すべきことは何も起きていない。普通に夕食を食べ、風呂に入り、駄弁り、そして眠った。
朝になると、雫は勉強合宿だから、と少し家を早めに出た。顔を合わせるのは気まずいが、それで逃げるのは流石に不誠実すぎる。綾辻と一緒に、ちゃんと見送った。
それからはずっと、延々と雫のことを考えている。
綾辻は今日、少し用事があるらしい。雫がいない以上わざわざ一緒に昼食を摂る必要性もないし、俺も一人になりたかったから、今日はバラバラの昼休みを過ごすことにした。
だから俺は今、こうして一人で屋上にいる。
こんな状況を『独りぼっち』などと表現するのは、些か烏滸がましすぎるだろう。今の俺はただ、女々しく孤独なふりをしているだけだ。
雫の恋愛感情に全く気付いていなかったわけではなかった。
雫が今のようになったことに、少なからず俺は関わっているだろう。でも、雫はその恩返しだけで俺に関わろうとする女の子ではない。というか、恩返しの必要自体がどこにもないのだ。
ちょこちょこデートに誘ってくれて。
時折思わせぶりなことを言って。
ボディータッチもほどほどにしてきて。
でも俺のふとした言葉で素に戻って赤らむ。
そんな姿を見ていて、それでも恋愛感情に気付かないのだとしたら、そいつは人の心が分からないサイコ野郎だろう。
それに、本来ならば雫が告白してくれたことを俺は喜ぶべきなのだ。男として純粋に可愛い後輩女子から告白されたってだけでなく、美緒の代わりとして見做さずに済むって意味でも、雫の気持ちは歓迎できることのはず。
今すぐ付き合うってわけにはいかないかもしれない。先輩後輩として接する時間が長かったし、一応今は義兄妹っていう関係でもあるわけだし。その辺を考えながら、ゆっくりと恋人になっていく。
誰が考えても、それが正規ルート。
なのに、遠い日の記憶が頭から離れてくれない。
長い間忘れることができていたはずの感触を、雫の告白が呼び起こした。
『忘れないでね。兄さんと初めて××をしたのは私だから』
俺は…俺は……。
――ぶるるるるっ
記憶に呑み込まれそうになる俺を引き戻したのは、ポケットに入れていたスマホのバイブレーションだった。
かはっ、と慌てて息をする。呼吸を忘れていたことに、呼吸ができるようになってから気付いた。あと少し遅かったら、きっと俺は堕ちていた。
ぶるぶると頭を横に振り、我に返る。まずは通知を確認しなくては。
もしかして、雫だろうか。あっちも昼休みなのかもしれない。俺のことを好いてくれているのなら、RINEをしてきてもおかしくはないだろう。
そう思ってスマホを一瞥し、はっとした。
RINEの通知だったのは予想通り。但し、送信主は予想と違う。
送信主は綾辻だった。
【MIO:ABC DAY1930】
アルファベットと数字を並べただけのメッセージ。
その意味を知っているのは、この世界で俺と綾辻以外にいない。
何故ならこれは、俺と綾辻がセックスをしたいという意思表示のために使っていた秘密の暗号なのだから。
◇
古い漫画がある。
俺が生まれるよりずっと前に連載開始し、テレビアニメも放送されていた作品だ。俺がその作品を知ったのは、中学三年生の頃に新しくアニメ映画が公開されるという話を聞いたことがきっかけだった。
その主人公は危険な仕事を依頼されるのだが、彼に依頼をするために必要なのがとある三つのアルファベットだった。
俺と綾辻がセフレになった頃。
SNSで繋がるべきではないと考えた俺たちは、双方ともが知っていたこの作品の暗号を真似して、『ABC』という最初三つのアルファベットを暗号とした。
ルールは簡単だ。
シたくなったときには、相手の机に『ABC』の文字と日時を指定する暗号を書いた紙を入れる。セフレだった俺たちの、ちょっとしたじゃれ合いみたいなものだった。
当日ならTODAYの『DAY』、翌日ならTOMORROWの『MOR』、それ以降の場合は赤字で日付を記すルールだ。大抵の場合は『DAY』か『MOR』だったわけだが。
つまり、先ほどのメッセージはこう読むことができる。
『今日の19時半、セックスがしたい』
別に驚くことではない。
むしろ、よく持った方だと思う。数か月前までは月に三、四回は少なくともシていたのだ。同居生活が始まってから二週間ほど。雫がいるからシてはいけないと分かっていても、どうしても性欲に駆り立てられていた。
このタイミングなのか、と歯噛みしたくはなる。
同時に、このタイミングでよかった、とも思った。
雫と恋人になるなら、すぐにでも綾辻との関係を清算する必要がある。セフレなんて関係に区切りをつけて、クラスメイトに戻るべきなのだ。
午後の授業が終わって家に帰ると、綾辻は涼しい顔でテレビを見ていた。
着替えてリビングに戻ってもそれは同じこと。
さっきのメッセージについて話そうとはせず、他の雑談を交わそうともしない。
雫がいないからだろうか。俺と綾辻の間には明らかな距離があり、ぽつぽつと静寂が部屋を満たしていた。
時刻は午後7時。そろそろ夕食を作り出す時間だ。俺がキッチンに立とうとすると、綾辻がこちらを一瞥した。
「今日は雫いないし、ピザでも注文しない? 百瀬、一人じゃ料理できないでしょ」
「雫に教わったんだからそれなりには料理できるぞ? 別に一人でできないなんてことは……」
「いやいや、まだ百瀬一人じゃ無理だよ。そもそも料理って献立考えたり買い物に行ったりするところからだったから」
「うっ……ごもっとも」
確かにそうだ。これまでの俺は雫に献立を考えてもらい、足りない食材があるときには一緒に買いに行ってもらっていた。
……ヤバいな。テキトーに家事に手を出して奥さんに怒られる旦那みたいじゃないか。
はぁ、と綾辻は小さく溜息とついた。
耳たぶをちょこんと摘まみながら口を開く。
「それに正直なところ片付けも面倒くさいんだよね。これから
「……っ」
綾辻の口ぶりには、恥じらいも躊躇いも見られない。
淡泊でフラット。
義母さんと父さんが再婚する前の俺たちはこんな風だった。
俺たちはセフレ。
セックスもするフレンド、ではない。
セックスしかしないフレンド、なのだ。
今更ながらに思う。俺たちは酷く不健全な関係だ。こんなものは早く終わらせるべきだった。というか俺たちが家族になると知ったとき、本当はその話をしなければならなかったのだ。
『なぁ綾辻。今後どうする?』
俺はあのとき、セフレ関係をどうするのか尋ねたつもりだった。
綾辻もそのことは分かっていただろう。分かったうえで綾辻はあえて呼び名の話をした。
その気持ちは正直嬉しい。それだけ俺とのセフレ関係を大切にしてくれているということだから。でもこのままズルズルとこの関係を続けることは許されない。
だから俺は、
「なぁ綾辻。もう、こういうのはやめないか?」
世界で一番大切な人の顔をした少女に、さよならを告げた。
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