1章#33 好きな人ができたの、と君が言った。
SIDE:澪
『お姉ちゃん。私ね、好きな人ができたの』
そう告げられたのは、どれほど前のことだっただろう。
――私の家は、いつも空っぽだった。
ママもパパも仕事で忙しく、家に帰ってくると険悪な空気だった記憶がある。私は雫を守ろうと思った。
雫を待っている限りは、私は大嫌いな『綾辻澪』ではなく、『雫の姉』として振る舞えばよかったから。
そんな幼い私にとって歯がゆかったのは、小学校が雫と別になってしまったことだ。学歴を重視するパパは、私にも雫にも、小学校受験をさせた。でも、受かったのは私だけだったのだ。
雫は大丈夫かな。
いじめられていたらどうしよう。
毎日毎日、そんなことばかりを考えていた。
そうして小学五年生の秋頃に告げられたのが先ほどの台詞。
恋なんて物語の中でしか知らなかった私にも分かるほど、雫の目は恋する乙女のものだった。
みるみる変わっていく雫の姿はとても眩しかった。同時に私は思い知る。
雫は弱くなんてなかった。本当はとても強くて、キラキラと輝く本物だったのだ。
そのことに気付いてからの私は、周囲と上手くやる価値もさほど見いだせなくなっていた。
元々、処世術なんて雫を守るために身に着けたものだ。雫を守る必要がないのなら、誰かと上手くやる必要なんてどこにもない。
小学校程度で何を言っているんだと思われてしまうかもしれないが、当時の私にとっては周囲との繋がりがとても面倒だった。
だから中学受験をして、誰も私のことなんて知らない場所に行こうと思った。
新天地でいきなり学級委員になってしまったのは、長いこと染みついた上手くやる習慣が教室に漂い始めようとしていた嫌な空気に反応してしまったからに他ならない。
あれは運命だったのかもしれない、なんて。
そんなくだらないことを考えてしまうのは、私に続いて学級委員に名乗り出た彼のせいだろう。
彼――百瀬友斗は不思議な男の子だった。
いつもは独りぼっちで、友達が多いタイプには見えない。でも話しかけられたときには求められている以上の受け答えをして見せる。
学級委員としてのスペックもそれなりに高かった。学校行事の際にははしゃいだような姿を見せ、クラスの一員のように振舞う。そのくせ普段はクラスから外れ、輪の中に入ろうともしない。
何よりも不思議だったのは、彼が私に向ける目だ。
入学式の日からずっと、彼は私を哀しそうな目で見てくる。
一人でいようとする私への同情ではない様子だった。じゃあ何なんだ、と聞かれても分からない。ただただ、哀しそうだったのだ。
その瞳に、私は恋をした。
悲哀に満ちたその瞳だけが私を正しく映し出しているように思えたから。最愛の雫ですらも気付かないところまで、はっきりと。
……なんて詩的で素敵な物語みたいに言ってみるけれど、それ以外にも多分理由はあって。ぶっちゃけ、彼の顔は最高に私好みだ。声も、表情も、仕草も、全部が愛おしくてしょうがない。
いつもは輪の外にいるくせに大切なときだけは中心に立って皆をまとめる姿も、いざ惚れてみるとヒーローみたいに見えた。
もちろんこんなことは絶対に彼に言わない。墓場まで持って帰る所存だ。
何はともあれ、私は初恋をした。
とはいえそれを顔に出すほど私はポンコツではない。告白をしたところで叶う見込みのない恋だと思ったから、三年生になるまでずっと、心に秘め続けていた。
問題は、三年生の春に起きた。
私と彼が共に学級委員でなくなると、彼との繋がりがあっさり消えてしまったのだ。
自分で言うのは少し痛いけど、私も彼も、人と関わるために理由を必要とする面倒な奴だった。
それまでは同じ委員会の仲間という“関係”が理由になってくれた。
委員会の仲間として振る舞えば、私は『私』をやらずに済んだ。
でも、いざその“関係”を失くしたとき、私たちは関わらなくなった。
そして悟る。
“関係”がなければ私は彼と関われないのだ、と。
そんなある日。
私はその日、途轍もなく重い生理に悩まされていた。気持ち悪いし、お腹も痛いし、頭もがんがんと痛む。
耐えるつもりで四時間目まで授業を受けていたが、いよいよ我慢の限界だ。
「先生、体調が悪いので保健室に行ってきます」
これほど重い生理は未経験だったから、私は戸惑いながら言った。
じんわりと額に滲む嫌な汗が気持ち悪い。顔色も酷かったのだろう。先生は私の付き添いを保健委員に頼もうとした。
けれどもそれは叶わない。
私が嫌われていたから……ではなく、単に休みだったのだ。というか、クラスのうちの四分の一くらいが風邪をこじらせて休んでいる状況。当然のように学級委員もおらず、先生が困った顔をする。
「あ、じゃあ俺行きますよ。去年まで学級委員だったんで勝手も分かりますし」
その声を聞いた瞬間ときめいてしまった私は絶対に悪くない。
「そうか。じゃあ頼んだぞ」
「了解です。行こっか、綾辻さん」
「ん……あり、がと」
その瞬間の彼は、何故か哀しそうな目をしていなかった。
なんで……?
頭の中に浮かぶはてなマークは、保健室に向かうまでの道のりで私を襲う気持ち悪さによって掻き消されてしまった。
「あれ、先生がいない……。ああ、用事があるって書いてある」
ぶつぶつと彼が呟く。
「しょうがないか。綾辻さん、とりあえずベッドまで行くよ」
「うん」
よいしょ、よいしょ。
彼に肩を貸してもらい、私はベッドに寝転がった。
彼がかけてくれたブランケットからは優しさとか温もりが伝わってきて、体がふわふわと楽になっていく。
「顔色、少しはよくなったね。楽になった?」
「……少し」
「そっか」
先生が来るまで、彼は近くにいてくれるらしい。
ベッドの隣で心配そうに私のことを見つめてくれる。
会話はない。
当たり前だ。私たちは友達じゃない。もし友達だったとしても、もっと明確な理由がない限り会話はできないことだろう。
歯がゆいな、と思う。
もしも彼の妹なら、もっと素直に関われただろうか。
もしも告白したなら、何の躊躇いもなく甘えられただろうか。
そのどちらも叶うはずがない。
妹じゃないのは当然だし、彼が私を恋愛対象として見ていないことは分かっている。あの哀しそうな目は、そういう相手に向けるものではないだろうから。
――もっと利己的な関係なら
――目的だけがある関係なら
そうして頭によぎったのは、あまりにも愚かな考えだった。体調が悪く、頭がぼんやりとしているせいなのかもしれない。
あるいは生理のせいでホルモンバランスが乱れて、ただでさえ人より強い性欲が増していたからか。
気付くと私は、彼に告げていた。
「ねぇ
「は……はぁぁ? えっと、綾辻さんは何を言ってるんだ?」
ほんとそれ。
どう考えても痴女な発言をしている自分にドン引きだ。そのくせ、自分の言動を間違っているとも思っていないのだからタチが悪い。
「言葉の通りだよ。セフレ。セックスしかしない友達。私さ、こう見えて性欲が強いんだよね」
「いや、そんなこと言われても困るんだけど……っつうか、体調悪いんだよね? そんな冗談を言ってる場合じゃ――」
「――冗談でこんなこと言わない」
自分でもびっくりするくらい真剣な声が出た。
「一年生の頃から、百瀬のことはそれなりに見てきたつもり。そのうえで、百瀬とならシていいって思ってる」
やっぱり、と百瀬の目を見て思う。
百瀬は私から性を感じ取ったとき、哀しい目をしなくなるみたいだ。教室でのあれも、お腹をさすっていた私を見て、私が生理だと悟ったからだろう。
どうしてそんな風にするのかは分からないけど、今は利用させてもらう。
「お互い、シたいときに利用しあうだけの関係。百瀬にとってもメリットはあるんじゃないの?」
「……っ」
百瀬が唇をきゅっと結んだ。
揺れる瞳にこもった罪悪感すらも愛おしい。
しばしの沈黙の後、百瀬は観念するように言った。
「……どうなっても知らないからな、
「どうなってもいいよ、百瀬。セフレ相手に気を遣う必要なんてないんだから」
そして――私たちは、セフレになった。
◇
「なぁ綾辻。もう、こういうのはやめないか?」
あの日、初恋という熱病に罹った思考が狂った
そのセフレという関係が今、終わろうとしている。
ああやっぱり、と私は苦笑した。
私たちは、ただ利己的に体を求め合うことで関わり続けられていた。
けれど私たちが義理の家族として会ったあの日。最後のセックスの翌日、私は一目で気付いてしまった。
雫の初恋は百瀬なんだ、と。
『お姉ちゃん。私ね、好きな人ができたの』
頭の中で、知ってるよ、と答える。
だからこそ私は、新しい答えを見つけたの。
「それは雫に告白されたから? それとも、私を美緒ちゃんの代わりにしたいから?」
ねぇ百瀬。答え合わせをしようよ。
心のなかで、そっと呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます