1章#30 私とデートしましょうよ
SIDE:友斗
俺はいつも以上に人通りの多い武蔵小杉駅で人を待っていた。
我が家のある田園調布という町は、おしゃれな町である自由が丘と高層ビルやショッピングモールの多い武蔵小杉に挟まれている。高級住宅街だなんだと言われるが、実際に地価が高いのは一部の区画で……と、そんなことはどうでもいい。
問題は、俺が休日に武蔵小杉まで出てこなければいけない理由だ。
この町には本屋もあるので、もちろん自ら来ることもある。
でも今日ここに来た理由はそれではない。
何しろ今日は、誰かさん曰く『デート』なのだから。
◇
「先輩! 私とデートしましょうよ」
土曜日の夕食時。
俺が摘まんでいた豆腐は、唐突な雫のせいで真っ二つになって落ちた。
飛び散った醤油に綾辻が顔をしかめるので、俺はさっさと台付近で拭き取った。
「はぁ……お前のせいだからな、雫」
「ちょっ、先輩酷いですよ。可愛い可愛い後輩にデートに誘われて動揺しちゃったからって、照れ隠しで私を責めるのはやめてください」
「そういうところが可愛げがないんだよなぁ……」
「またまた~。こういうところも嫌いじゃないくせに~」
嫌いじゃないのは、まぁ、事実だった。
引っ込み思案だった雫が、自らの意思で今のように変わったのだ。変わった後の雫を好ましく思わないわけがない。
けれど、先日の気付きのせいで心が膿んでしまう。
暗くなりそうな心を叱咤して、いつも通りの俺らしく尋ねる。
「で? デートってのはなんだ」
「それはね、お爺ちゃん。女の子と男の子が一緒にお出かけをすることを言うんだよ」
「なぜ介護?! デートの定義なんて聞いてない。急に何を言い出してるって話だよ」
なんだそっちですか、と白々しく雫が言う。
「ほら、私って月曜日から勉強合宿じゃないですかー」
「ああ、そうだな。ちゃんと準備してるか?」
雫たち一年生は、明後日勉強合宿に行く。
一泊二日とはいえ宿泊行事だ。それなりには準備が要るだろう。
「すぐにそういう言葉が出るあたり先輩は過保護ですねー、っていうツッコミはさておいて。実はですね、準備していたら足りないものが見つかったんです」
「ほーん。何が足りないんだ?」
「下着とエチケット袋です」
「…………」
「下着とエチケット袋ですっ♪」
「聞こえてるわッ! 色々と食事中に言うことじゃねぇから呆れてるんだよ馬鹿野郎」
ちゃんと口の中を空っぽにしてからシャウトした。
お行儀悪いのは重々承知。だが、ここはツッコむべきポイントだと思うんだ。
「エチケット袋は、まぁ分かる。食事中に言うのはどうなのとは思うが、ああいうのって行事でしか使わないもんな」
「ですです。なのでうっかり買い忘れてました」
エチケット袋とは、要するにバスや電車で酔ったときに吐しゃ物を入れる袋である。よく分からんが、多分いい感じの粉が入ってる。行事のたびに買い、使わずにどっかに置いておいて失くすのは学生あるあるだと思う。
「問題はもう一つの方だ。なんだよ下着って」
「えっ、だってお泊りですよ? 下着とはちゃんと新しくしていきたいじゃないですかー」
「なんだそれ、全然分かんねぇ……」
な? と同意を求めるように綾辻に目を遣る。
しかし、綾辻は雫に同意しているようだった。女子、分かんねぇ……。
「そーいうわけで先輩。明日、デートしましょう!」
「あー、そうやって繋がるのね。でもそれなら綾辻と行けよ。姉妹の方が選びやすいだろ、色々と」
「つまり下着を選ばれるのが恥ずかしいと」
「そうとも言うよ! 悪いかっ⁉」
後輩、しかもセフレの妹が下着を選ぶのについていくとか勇者すぎるだろ。流石にそんなことをする度胸はない。しかも今は同居中だ。変な妄想をしそうになって切腹する未来がありありと見えてしまう。
「ふふふー、悪くないですよ。そーいうところも可愛いです」
「可愛いってお前な……。綾辻、お前からも言ってくれよ」
シスコンな綾辻のことだ。
きっと俺に味方にしてくれるに違いな――
「いいんじゃない? 二人で行ってきなよ。明日は家事、全部やっといてあげるから」
――くなかった。
むしろ雫の味方をするだと……?
予想外の展開だが、これで二対一で俺の方が不利になってしまった。
正直ここまでくると反論しても無駄な気がしてくる。
本音を言えば、どんな顔をして隣を歩けばいいんだ、と思うところはある。自分が雫を美緒の代わりとして見ていると思い知ったばかりなのだから。
でも雫は『デート』と言った。
兄と妹で出かけるものをデートとは呼ばないだろう。雫とデートすれば、俺は美緒の代わりとして彼女を扱わずに済むのではないだろうか。
「はぁ……分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
我ながら最低な動機だ。
でも雫を大切な一人の女の子として扱いたいからこそ、しっかりしたい。
◇
そんなこんなで俺は今、綾辻の勉強合宿用の買い物に向かうため、待ち合わせをしている。いや、買い物じゃなくてデートだったな。俺自身、今日はデートだと意識するために、少しだけ身なりに気を遣っている。
それにしても、味気ないとかいう理由でわざわざ現地集合にするあたりが雫っぽいよな。雫は俺以上に恋愛モノの作品にドハマりしているタイプだから、この手のイベントに強いこだわりがあるのだろう。
そんなことを考えているうちに、待ち合わせ時間になる。
午前10時。
腕時計を一瞥したとき、聞きなじみのある声が耳を撫でた。
「せーんぱいっ。お待たせしちゃいましたか?」
呆れるくらいに雫らしかった。
くすりと笑い、俺は答える。
「ああ、超待ったわ。ざっと一時間くらい」
「けど待ってる時間が楽しかったんですね、分かります。その証拠に待ち合わせ時間より早く来ちゃってるわけですし」
「それはお前が家を出る時間をずらしたいって言うからだろ」
言いながら顔を上げると、満足げな雫がいる。
いつも通り、センスのいい服装だ。いつもより露出が少ない気もするが、それ以上に目につくところがある。
ふあん、と魔女の相棒の黒猫みたいな尻尾が揺れた。
いつものツインテールはどこへやら。
今日の雫は、可愛らしいポニーテール姿だった。
「……ポニーテールにしたのか。珍しいな」
「ふっふっふー。それだけじゃないですよ。ほらほら、先輩見てください」
「言われなくても分かってる。自分で選んだものが分からないほど馬鹿じゃないぞ」
「だからちょっと顔が赤いんですか?」
「……っ、赤くねぇよ」
嘘じゃない。
確かに、雫がつけているのは誕生日プレゼントとして以前俺が渡したやつだ。でもあれは中学校の頃の話。そんな程度でドギマギできるほど初心ではない。
そうじゃなくて、さ。
ポニーテール、シュシュ、それから日曜日の駅前。
雑誌のデート特集みたいによくできた装いだから、変に意識してしまったんだ。
――ありがとう、と心の中で呟く。
意識できてよかった。妹じゃなく女の子として、雫を見れていてよかった。
「ほら。立ち話はこの辺にして、そろそろ行くぞ。昨日言ってたもの以外にも、色々と見たいものがあるんだろ?」
「そーですね。制服に合わせられるヘアアクセとかも見たいですし、普通に本屋さんにも行きたいので」
「雫って電子派じゃなかったっけ?」
「この前先輩と本屋に行ったのが楽しかったので。本屋で色々と見てから電子をポチるのもありかなーと」
「なるほど」
「ところで先輩」
「なんだよ後輩」
「この手、なんですか?」
何のことか分からないな。
そんな風に誤魔化せるほど厚顔無恥ではない。それにこうして雫がニマニマ笑うことは予想がついていた。
それでも、まぁ、なんだ。
これくらいは紳士の嗜みだよな。
「今日の雫は綺麗だからな。流石は華のJKだ。ナンパイベントが起きたら面倒だし、最初から手を繋いでおいてやるよ」
まったく、と雫が笑った。
「そーいうとこ、嫌いじゃないですよ。むしろ一周回って大好きまであります」
「そいつはよかった」
そっと雫が俺の手を握る。
恋人繋ぎではなかった。それでも充分、雫の体温を感じられた。たった36度程度の熱が、どうしてこうも熱く感じられるのだろう。
「行くか」
「ですね。ではまずはランジェリーショップに」
「そのときは絶対手を離すからな。むしろ帰るまである」
「ありません! いいから大人しくついてきてください」
「この手をリード扱いするのやめてね?」
雫が俺の手をぐいぐいっと引っ張る。
自然と零れた苦笑は、砂糖ドバドバに入れたコーヒーくらい、甘かった。
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