1章#16 ペット扱いされてない?
ハンバーグをやたらとこねる謎のイベントから一夜。
昨日と同じかそれ以上に気怠い体に鞭を打って支度をした俺がリビングに降りると、ぷかぷかと優しい匂いが漂ってきた。
「ん……?」
まさか火事ではないだろう。
目をこすりながら匂いがする方を確認すると、そこにはワイシャツの上にエプロンを着けた綾辻がいた。
その日常感のある非日常の光景に、一瞬思考が停止する。
――綾辻澪が、料理をしている
その姿を見たのは初めてではない。
昨日のハンバーグの一件を抜きにしても、何度か料理をするところを見たことはある。泊り込みでセックスをした日なんかには、簡単なものだけと言って、めちゃくちゃ美味しいものを作ってくれた。
「あ、百瀬。おはよ」
「んあ……、お、おう」
急に話しかけられたせいですごい微妙な返事になってしまった。
綾辻がこちらを一瞥することなく料理の手を進めているのを見て、負けた気分になる。ぶんぶんとかぶりを振り、口を開いた。
「朝ご飯、作ってるのか?」
「ん、まぁね。簡単な和食だけど」
「和食って……もしかしてわざわざご飯炊いてるのか?」
隅にある炊飯器にスイッチが入っているのを見て、素直に驚く。
だが、綾辻はピンときていないようだった。え?と首を傾ける。
「朝ご飯なんだから、ご飯炊くでしょ。もしかしてパン派だった?」
「パン派ってわけじゃないけど。わざわざ朝に炊飯器使うんだな、って驚いて」
家を出るまではまだ1時間ほどある。だから急ぐ必要はないけれど……朝の忙しい時間帯に料理をする習慣はなかった。
綾辻は、あぁ、と思い出すように苦笑した。
「そういえば、百瀬って料理全然しないんだっけ」
「……料理はしなくても生活していけるからな」
「ふぅん。ま、いいけど。……カップ麺ばっかりの生活とか、雫は絶対許さないと思うよ」
「分かってるって。俺がカップ麺を食べようとしたら、あざとくぷりぷりしそうだしな」
「でしょ? あの子、ほんと天使だから」
少し前までは感情表現が乏しい奴だって思ってたんだよなぁ、と感慨深くなるほどには分かりやすい笑顔だった。
変なことを言って機嫌を損ねたくはない。朝食があることに感謝しつつ食卓につく。
スマホを弄るのはなんだか違う気がして、綾辻の料理姿を眺めた。
デニム生地のエプロンは、制服とよく似合っている。緑色のリボンは動きやすさのためか少し緩めてあり、第二ボタンまで外されていた。
こういうのはいいな、とぼんやり思う。
時間がとろりとろりとゆっくり流れていく感覚。シチューのようなひと時は、正しく春の朝らしい。
ふと、想像する。
二つ年下の美緒は、もし生きていたら中学三年生だ。あの子は運動以外は時雨さん並みに何でもできたから、きっと料理だって上手くこなす。母さんの手伝いをよくしてたしな。だから朝ご飯はきっと、こんな風に丁寧に作ってくれていたはずだ。
これから夢を見始める子猫みたいに、ぷかぷか浮かぶ風船みたいに。
だんだんと、意識が、微睡んで……。
◇
「せーんぱいっ。起きないと襲っちゃいますよっ♪」
「うおっっっ⁉」
「わっ」
耳朶を溶かすほどに甘い稲妻が、ぴりりと落ちた。
咄嗟のことに変な声を漏れ出ると、同じくらいにびっくりしている声が聞こえる。
きょろきょろと辺りを見渡すと、目を瞬かせている雫がいた。
「もうっ! 超びっくりしたんですけど!」
「あ、ああ、悪い」
ぷんすかと子供っぽい声で怒る雫。
はっきりしない思考のまま謝る。どうやら俺は寝ちゃってたらしいからな。起こし方はアレとして、起こしてくれたことには感謝しなければならないだろう。
いや、マジで起こし方はアレだけど。綾辻に聞かれてたらヤバそうだし。
「まったくもう。朝ご飯待っている間に寝ちゃうとか何考えてるんですか……」
「うっ、面目ない」
「本当だよ、百瀬くん。気付いたら寝てたからちょっと心配したからね」
「はい、マジですみません」
これに関しては反論のしようがない。なんかいい雰囲気だなぁとか思ってたら本気で寝ちゃったわけだからな。ここまで間抜けな行動も滅多に見られない。そういう意味ではレアだね、やった!
……アホくせぇ。
「まぁ、雫がすぐ起こしてくれたからいいけどね」
「えっへん! 先輩の扱いならお任せだよ、お姉ちゃん」
「うん、よろしくね」
「なんか面倒なペット扱いされてない? 大丈夫?」
「ペットを引き合いに出すなんて失礼なことしないよ」
「それ、どう考えてもペットに失礼って話だよなっ⁉」
綾辻と雫は示し合わせたように顔を逸らし、それから楽しそうに笑った。
美少女二人に笑われて始まる朝。俺がピエロだったなら最高のスタートかもしれない。あとドM。
もちろんどちらでもないので、なんだかとても居た堪れない。
「ゆっくりしててもあれだし、食べようか」
「うん!」
「だな」
綾辻の呟きに、俺も雫も同意した。
きちんと座ってから、いただきます、と三人で声を合わせる。ついでに手の皴も。幸せを願うことに余念がない。
朝食のメニューは味噌汁とだし巻き玉子、それからウインナーだ。ホカホカな炊き立ての白飯が、ぎゅぅぅるるると腹の虫を気持ちよく鳴かせる。
味噌汁は落ち着く味だし、だし巻き玉子はジューシーで超美味い。ふわふわなところとカリカリなところがあり、ご飯が進む。つい無言になってしまう。
「そういえば先輩」
ほとんど食べ終えたところで、思い出したように雫が口を開いた。
「今日からは一緒に登校するってことでいいんですよね?」
「え、普通にダメだけど? 前々から決まってた約束の前日に改めて確認するノリで言うんじゃねぇよ」
「えっ……ダメなんですかっ?」
心底驚いた風に目を見開いた。
箸で摘まんでいたウインナーがぽとっとお皿に落ちる。
「何故に驚く。当たり前だろ」
「えー、なんでですかー? 出発する場所も目的地も同じなんですから一緒に行きましょうよ」
「いや、ほら、あれだ。スキャンダルとか怖いじゃん? 俺ってば皆のアイドルだから、ファンを悲しませるようなことはしたくないなぁ、みたいな」
「「…………」」
「冗談だから! 温もりに満ちた食卓を凍えさせるのはやめてぇ?!」
この二人、俺がボケたときだけやたらと厳しくない?
不服の意と、ついでに賛同を求める意味もこめて綾辻を見遣る。
綾辻は、やれやれ、と肩を竦めた。
「雫。流石に初日から先輩と一緒に登校っていうのは、色々と誤解を呼んじゃうんじゃないかな。中学校は別々なんだし、猶更だよ」
「俺も綾辻に同意。いきなり悪目立ちするのはよくないだろ?」
「むむむ……自意識過剰な気はしますけど。でも一理あるのも事実ですね」
自意識過剰ではないと思う。だって相手は雫だ。綾辻に負けず劣らずの容姿を持つこの子なら、すぐに人気者になる。何かしら周囲に納得してもらえるような接点があるというならともかく、入学前から仲のいい先輩後輩関係にあると知られてしまうとあらぬ誤解を招きかねない。
「そういうことなら分かりました。一緒に登校するのは諦めます」
やけに物分かりがいい。
何か裏があるのかと疑る隙すら与えずに、雫はきゃぴっと笑った。
「た・だ・し! お昼は一緒に食べたいので、先輩はお姉ちゃんと食べてオッケーなくらい仲良くなっておいてくださいね」
「「は?」」
期せずして綾辻と声が被る。
雫は人差し指を立てて振りながら、何かを鞭撻するように続けた。
「だってほら、お姉ちゃんが先輩と一緒に食べてたら私が混ざってもおかしくないじゃないですかー。お姉ちゃんの友達ってことなら誤解も招かないですよね!」
「それはそうかもしれんが……」
「鴨も
「…………はあ。しょうがないなぁ」
綾辻が雫に甘すぎる。
だがまぁ……ここまで言われれば固辞するほどでもない。昼食を一緒に摂りたいって言われるのは悪い気がしないしな。
「分かったよ。上手いことやっとく」
「はいっ! 約束ですっ」
こういうところは素なんだよな、こいつ。
実に憎めない後輩である。
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