1章#17 女の子の話(SIDE:澪)

 SIDE:澪


「すぅ…すぅ……」


 彼がゆっくりと舟を漕ぎ始めたのを横目で捉えて、私は苦笑とも微笑ともつかない笑みを零す。無邪気で可愛らしい顔だ。何度か彼の寝顔を見たことがあるけれど、こんなにも穏やかに流れる時間の中で見るのは初めてだ。


 いつもは、セフレだった。

 セックスフレンド。セックスしかしない、性欲を満たすためだけの友達。

 誰が聞いても不純だ、淫らだ、と思うことだろう。けれども私や彼からしてみれば、セフレじゃない友達の方がしっくり来ないんじゃないかと思う。


 ま、別にセフレじゃなくてもいいんだけど。

 友達って、なに?

 恋人には、おおよその形がある。夫婦は契約で繋がっているし、家族はもっと分かりやすい。でも友達は違う。そこには明確な理由がなくて、不確かで曖昧で、どこか嘘臭い。


 私も彼も、そういう関係ではいられない。

 彼が何故そうなのかは知らないけれど、私がそうなった理由は自分でよく分かっている。


 明確な関係があれば、振舞い方の最適解を出せる。姉らしく、子供らしく……みたいに。最適な仮面を選んで周囲と接することができるから、楽なのだ。


 そうすれば、大嫌いな『私』をやらずに済むから。


「うん、大丈夫」


 お味噌汁を小皿にとって、味見をする。

 失敗する要素なんてほとんどないけれど、しょっぱすぎたり薄すぎたりしないか、確認はしておきたい。とりわけ、今日は彼がいるから。


 得意料理のだし巻き玉子と、何の変哲もない普通のウインナー。

 どちらも程よく焼けたはずだ。さて、盛りつけようか、と思っていたところでトタトタと元気な足音が聞こえた。

 振り向けば、化粧やらヘアセットやらを終えた雫がいる。


「おっはよーございますっ! ……って、あれ? 先輩、もしかして寝ちゃってる?」

「そうみたいだよ。私がご飯作ってる間にうとうとしてたから」

「うわぁ。なにそれ、子供みたい」


 くすくすっと笑いながら、雫が彼のもとに近づいていく。

 それからそっと髪の毛を撫で、母が子に向けるかのような慈愛の眼差しを彼に向けた。


 ――ああ、やっぱり


 もう何度目になるのか分からない気付きを得る。

 気付きではなく、思い知りなのかもしれない。春休み初日、顔合わせをした日にはもう分かっていたことだから。


 私のセフレこと百瀬友斗は、私の最愛の妹である綾辻雫の知り合いだったそうだ。

 なんでも、小学校の頃によく遊んでいたのだとか。受験期に「友達と勉強する」と言っていてママも私もサボっているんじゃないかと不安になった時期があったのだけど、実際には百瀬に勉強を見てもらっていたのだろう。


 自分が通っている高校にいきたいと言う、可愛い後輩。

 そんな後輩の勉強を見て、二人三脚のように高校受験に寄り添っていた百瀬にとって、雫はいったいどんな存在なのだろう。


 少なくとも雫にとって、百瀬が特別な存在であることは分かる。


『お姉ちゃん。私ね、好きな人ができたの』


 随分と前に告げられた雫の秘め事を思い出す。

 あの瞬間、私は雫がか弱い存在ではなく、むしろ私なんかよりもずっと強くて眩しい存在なのだと気付かされた。


 あのとき、雫が精いっぱい想っていたのは百瀬だったんだ。

 そう思うと、きゅぅとお腹の奥が苦しくなる。彼に何度も貫かれた女の部分が、性悪に疼いて堪らない。


「……おはよう、雫」

「あっ、うん! お姉ちゃん、おはよー」


 なんとか気持ちが零れないように優しく微笑んで、朝を始める。

 顔をあげた雫はくんかくんかと匂いを嗅いだ。


「あったかい匂い。お味噌汁ー?」

「うん、そうだよ。具はわかめと豆腐と、油揚げ」

「やった。油揚げ、好き!」


 知ってる。昨日、百瀬と買い物したときにきっちり油揚げを買ってきてたしね。お味噌汁を作るときには入れてって意味だと解釈したから、きちんと入れておいた。

 わかめと豆腐だけだと何だか寂しいのに、油揚げを入れたお味噌汁だと少し豪華な気分になるのは何故だろう。私たち姉妹だけかな?


「それじゃあ、すぐ盛りつけるから百瀬くんを起こしてくれる?」

「うんっ!」


 百瀬を起こすのは雫に任せて、私はキッチンに戻る。さっさと盛りつけてご飯にしよう。

 そう思っていると、


「せーんぱいっ。起きないと襲っちゃいますよっ♪」

「うおっっっ⁉」

「わっ」


 雫の思わぬ一言に、ドキッとする。

 他意なんてあるわけがない。でも、何度か「襲うから」とか「襲ってよ」とかセフレとして言ってきた身としては、妙に意識しちゃうわけで。

 ううん、とかぶりを振って盛りつける。


「もうっ! 超びっくりしたんですけど!」

「あ、ああ、悪い」

「まったくもう。朝ご飯待っている間に寝ちゃうとか何考えてるんですか……」

「うっ、面目ない」

「本当だよ、百瀬くん。気付いたら寝てたからちょっと心配したからね」

「はい、マジですみません」


 ほんとはちょっとだけ、嬉しかったけど。

 寝顔とか凝視しちゃったけど。

 それくらいは内緒にしておくべきだ。秘密は女を女にするってどこかの誰かも言ってたし。


「まぁ、雫がすぐ起こしてくれたからいいけどね」

「えっへん! 先輩の扱いならお任せだよ、お姉ちゃん」

「うん、よろしくね」

「なんか面倒なペット扱いされてない? 大丈夫?」

「ペットを引き合いに出すなんて失礼なことしないよ」

「それ、どう考えてもペットに失礼って話だよなっ⁉」


 三人でけらけら笑いながら食卓につく。

 いただきます、と三人で言ってから食べ始めた。つい百瀬の方を見てしまうと、黙々と箸を進めていた。

 ……感想、くれないんだ。

 少しムッとして、それからムッとしている自分に苦笑する。


 そんなこんなで食べ進め、ほとんど食べ終わったとき。

 雫が思い出したように、


「そういえば先輩。今日からは一緒に登校するってことでいいんですよね?」


 と言い出した。

 え?と思ったのは私だけじゃないらしい。百瀬は当然のように否定し、なんだかよく分からない理屈を持ち出して説明をしだす。

 でも、雫は納得していないようだった。恋する乙女としては好きな人と一緒に登校したいって気持ちは分からないでもない。

 ただまぁ、姉として言わせてもらえれば、流石に入学式翌日から上級生と登校っていうのは外聞があまりよろしくない気がする。


「雫。流石に初日から先輩と一緒に登校っていうのは、色々と誤解を呼んじゃうんじゃないかな。中学校は別々なんだし、猶更だよ」

「俺も綾辻に同意。いきなり悪目立ちするのはよくないだろ?」

「むむむ……自意識過剰な気はしますけど。でも一理あるのも事実ですね」


 雫は物分かりがいい。

 私たちの言葉を聞いて、ふむふむ、と納得した素振りを見せる。

 ――が、あくまでそれは『素振り』でしかなかった。


「そういうことなら分かりました。一緒に登校するのは諦めます」


 一呼吸おいて、雫はにかっと笑いながら言う。


「た・だ・し! お昼は一緒に食べたいので、先輩はお姉ちゃんと食べてオッケーなくらい仲良くなっておいてくださいね」

「「は?」」


 私を経由することで、上級生と一緒にお昼を食べていても不自然じゃないように演出する。なるほど、意外と筋が通ったプランだ。

 問題は、私と百瀬が仲良くなる必要がある、ということ。

 しかもたった一日、というか午前中のうちに、である。


 雫が私たちのことを気遣って言ってくれたことは、何となく分かる。雫からすれば私と百瀬は他人だ。だから、少しでも仲良くなってほしくて、私たちに理由をくれているのだろう。


 それでも、やっぱり戸惑う。

 セフレの関係を上書きして、それでいいと思える新しい関係。それはいったい、どんな形をしているんだろう。



 ――そうして迷いに迷って、四時限目。

 私は、


「綾辻さんに学級委員なってもらえると助かるんだけど、……どうですか?」


 私たちが出会ったときのことを思い出していた。

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