「彼女は、『だから私は、仕合わせになるために、仕合わせになれるものを信じています』と締め括りました。それはトオトロジーというものではないかと思いましたが、彼女の知らないかもしれない言葉を出すことに然程意味を感じられなかったので、私はただ、そうかもしれませんと返しました。実際、それ以外に返す言葉もなかったのです。

 彼女の強さを、犇々と感じていました。女だから、若いからと云う理由で、彼女にこれまで何も話してこなかった自分を恥じました。彼女は私が思うよりずっと強く、強かで、そして聡明でした。だから私は彼女に恋い焦がれていたし、彼女のことを信じていました。それは信仰とすら呼ぶべきものでした。恋とは信仰なのだと、私はこのとき、初めて気が付いたのでした。

 彼女は、これで話は仕舞だとでも云うように、火鉢を持って立ち上がりました。その一挙手一投足が美しくて、神々しくて、ただ隣の土間に行くだけの彼女が名残惜しくて、私はその背中に思わず、あなたは何を信じているのかと問いました。

 私を信じていると、そう云って欲しくなかったと云えば、嘘になります。けれど、彼女が私だけを信じているとは、有り得ない話だとも勘付いていました。彼女は、彼女の幸せに必要なものはすべて信じているのでしょう。その中に、私も居るのであれば、それは有難いことではありますが、とても恐ろしいことであるとも思います。私は彼女を仕合わせにすることができるのでしょうか。私が彼女の信仰を裏切れば、彼女は不幸になるのでしょうか。私には、彼女を不幸にして平然としていられる胆力はありませんでした。しかし同じくらい、彼女を生涯仕合わせにする自信もなかったのです。実のところ、金はそろそろ貯まってくる頃でした。大学時代の恩師から、実入りのいい仕事を紹介してもらえる話も取り付けていましたので、次男坊でも、暫くは安心して暮らしていける目処は立ちそうでした。私が彼女を愈々妻にする踏ん切りがつかなかったのは、金の工面が心配だからではありませんでした。彼女の仕合わせを、人生を、抱え切れるほど私は大きな人間ではないかもしれないと、私と出逢わなければ、彼女にはよりよい人生が待っていたのではないかと、そんな詰まらないことが気掛かりだったのです。

 彼女は僅かに振り返って、布巾を両手で持ったまま、思案するように首を傾げ、『あなたに裏切られたら、私は自分の見る目の無さを呪いながら、他に信じられるものを探します』と云いました。

 彼女の云い方は、人によっては冷たく捉えられるのかもしれませんが、私には優しく甘く響きました。そして、彼女はきっと、それを分かって、私のことをよく分かって、その云い方を選んだのだろうと思われました。本当に聡明で、強い女性でした。私は彼女のそういうところを信じていました。

 へやから一歩出た御嬢さんは、またすぐに顔を覗かせました。手にはまだ火鉢がありました。彼女は顔だけ出したまま、そういえば、もうすぐクリスマスですねと云いました。

 私は急に変わった話題に面食らいながら、最近巷で話題になっているようですねなどと、面白くもない返事をしました。

 良い子にしていると、サンタというお爺さんが贈り物をくれるといった、そういう西洋の文化については、私も聞いたことがありました。私は良い子だったでしょうか、と彼女が尋ねるので、私は、良い子だったのではないでしょうか、と答えました。彼女は突然、『私、サンタは信じることにしました』と、まるで今決めたとでも云わんばかりに、私に向かって宣言しました。彼女は私の好きな笑顔で笑い、そして、『期待していますね』と一言残して、今度こそ寒い土間へと引っ込んでいきました。

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