「御嬢さんが余りにも普段と変わらぬ調子できっぱりとそう云ったので、私は気が削がれてしまいました。彼女の言葉は、沼の中で藻掻きながら徐々に沈んでいた私に降りてきた、一条の白い蜘蛛糸でした。身体に纏わりつくような曇天に差す、柔い光の筋でした。

 私は重苦しい気分がすっかりどうでもよくなってしまって、そして、僅かばかりの反発の気力が生まれました。幾ら御嬢さんでも、私の尊敬する人を貶され、黙って胡坐を掻いているわけにはいきませんでした。

 『それはあんまりな物云いではないですか』と、私は云いました。御嬢さんはすぐに、『だって、詰まるところ自死でしょう』と云い返しました。

 それはそうかもしれないが、でも、単なる自死とは違うんだと、私は思いながら、それを適切に言葉にする術を探っている間に、彼女がまた、『自死なら独りですればよいと思います』と云いました。

 それは、私がかねてから彼女にしていた理解からすると、意外な発言でした。私は、彼女が自死を肯わない質だと考えていました。だから今、殉死を馬鹿だと云い、それについて、殉死は自死より貴いという話を私はする積りで用意を始めていました。だから私の考えていたことは、どうやらすべて捨てなければいけないようでした。私は単純な、馬鹿みたいな質問をするよりほかありませんでした。真っ直ぐに私を見据えたままの彼女の前で、小手先での賢い振りなどしている暇はないように思えました。

 私は、自死はいいのですかと問いました。御嬢さんの答えは、こうでした。

 つまり、自死は、勝手にしたらよいと云うのです。独りですればよい、けれど、その理由を他に求めるのは違うと、そう彼女は云うのでした。

 私は彼女の主張を、頭の中で反芻しました。それは、正しいことを云っているようにも思えました。しかし、同時に残酷でもありました。私は、その残酷な言葉を受け入れるわけにはいきませんでした。まるで貴方と、貴方の語ってくれた物語に出てきた人々と、それから世の中すべての人間の代表になったような心持で、私は彼女への反論を捻り出そうと試みました。

 私は、何かを信ずることは貴いことだし、信じたもののために死ぬことも、また貴くあるべきではないですか。少なくとも、独り善がりの自死よりも、遥かにましなものではないかと論を展開しました。しかし、彼女は揺らぎませんでした。ただ、信じたのは貴方の勝手だと云いました。

 彼女は――この言葉が紡がれる間、彼女は私の目をじっと見て離しませんでした――貴方の死の責任を、貴方の信ずるものに、貴方は負わせるのですかと訊きました。

 私はその数秒の間――私にはもっと長く感じられたのですが、今思えば実際は数秒だったと思います――彼女の瞳に、捕捉され動けませんでした。それが恐くもあり、しかし、心地よいと感じてしまっていることにも、私は気が付きました。

 信じたのは貴方の勝手です、と、彼女は念を押すように、同じことを二度繰り返しました。それから、『私は貴方を信じています。けれど、例えばもし貴方にこっ酷く棄てられて、路頭に迷って死を選んでも、貴方の所為には致しません。貴方を選んだ私の勝手です』と、漸くここで目を伏せました。

 例え話とは分かっていながら、私は恐る恐る、そんなことはしないつもりだと進言しました。彼女はにっこりと笑いました。それはいつも通りの笑顔でした。そして、有難うございますと云わなくてもいい礼を云い、そうだといいと信じています、と、信じるという言葉を、恐らく敢えて使いました。

 また、彼女はこうも続けました。人は、自分の仕合わせのために、自分で信じたいものを信ずればよいのだ、信ずるもののために死ぬなんて、馬鹿みたいだと。

 信じたいものを、と、私は彼女の言葉をただ繰り返しました。そうしてしまってから、間が抜けていると私は赤面しましたが、彼女は私を間抜けとは云いませんでした。ただ、人は自分で自分の仕合わせを選ぶべきであると繰り返し、それから、『それが出来ずに自死を選ぶのは、ただ、生きるのが下手なだけです』と云いました。

 私は貴方の話してくれたことを、私の信じてきたものを、あっさりとこうも一言で片付けられてしまったことに、もしかしたらもっと憤るべきだったのかもしれません。しかし、その感情が湧き起ってこなかったのですから反射的に怒ることができなかったのです。反射で怒れなかったものを、あとから如何するのが難しいことは、貴方もよくご存じのことと思いますので、どうかご勘弁いただきれば幸いです。それよりもただ、生きるのが下手の一言で片づけられてしまった彼らに――嘗て思い悩み、死へと堕ちていった彼らに、ただ今までは自分を重ね、縋り、ひょっとすると依存すらしていたのが、今は急に、愛しさが感ぜられる気がしました。

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