「私の文章が未熟なので貴方はまだ掴めていないかもしれませんが、御嬢さんは、平生からこんな調子だったのです。私は常々、家族には無愛想だと云われ、友人には朴念仁だと蔑まれ、教師には愛嬌がないと罵られて育ったのですが、御嬢さんは私を何時も可愛いと云い、そして楽しそうによく笑うのでした。

 流石に一寸気を悪くした私が、何がそんなに可笑しいですかと問うと、御嬢さんは、可笑しいんじゃありません。貴方と居るのが幸せなんですと、聞いたこちらがむず痒くなるような台詞を平然と吐きます。それも、今となっては何時ものことでした。恥ずかしい限りですが、大切なことですので判然はっきり申し上げておきます。むず痒いし、顔を赤らめ俯く以外にどうしたらいいかも分からないのですが、私は、嫌ではなかったのです。

 御嬢さんは話を戻そうとしてくれたようで、それで、あなた、何か嫌なことがお在りでしたかと尋ねました。しかし、それは私が脱線する前にしていた話とは、少し違いました。私は、貴女には何か悩み事はないのかと訊きたかったのだと答えました。

 御嬢さんの返事は早く、そして、さっきとは少し違っていました。御嬢さんはただ、貴方が早く娶ってくれませんと云いました。それは、私にはもう重々承知で、御嬢さんも承知の上で口に出したのだと分りつつ、私は何度目かの謝罪の言葉を述べました。御嬢さんは、謝って済むのならお巡りさんは要りませんと、矢張り毅然と云い放ちました。御尤もでもあり、私は彼女の、こういう際に云い包められない聡明さも好きだったので、最早黙り込むしかありませんでした。

 御嬢さんは、畳よりかは幾分か大きい悩みでしょうと云いました。私は全くその通りだと思い、そして、負けを悟ったので、ただ参りましたと畳に手を付きました。御嬢さんは、素直で大変宜しい、と勝ち誇ったように微笑んで――そんなところにも惚れてしまっている私の完敗でした――、そして、『それで、私の悩みなど聞いて、如何するお積りですか』と訊きました。

 如何ということもなかったので、私はまた口籠りました。私は恐らく、貴方を含めて嘗ての男たちがそうだったようには、もう強くは在れないのでしょう。何も云わずに死んだ人と、それを妻にも打ち明けずに消えた人と、それを、例え上手く咀嚼できなかったにしろ、他人に引き継ぐことができるまで待つことができた貴方のようには、私は激動の時代を生きていないし、忍耐も気概もありませんでした。だから惚れた女の見えるところに、こんな他人の辞世の句を、ひけらかして見せてしまったのかもしれません。それは決して私が望んでしたことではなかったけれど、或いは私の精神は、解放を冀っているのかもしれませんでした。

 私はとうとう、話を切り出しました。御嬢さんに、貴方のしてくれたような話をそっくりする用意など、まったく出来ていなかったことを此処に白状します。しかし、吐き出さずには居られなかったのです。それは、準備が出来ていない故でした。私が貴方にこの話を聞いたのは、もう随分と前のことでしたね。それから私は、さも当たり前のように、変わらぬ日々を送ろうと努めていましたが、しかしふとした瞬間に、責め苦が私を襲っていました。もちろんそこに関して、貴方が責任を感じる必要は在りません。ただ、落胆はされるかもしれませんが、それは私には避けようがないことを、先に断っておきます。ただ、私の上には貴方の影はもうないことは、この先を読んでいただければ分るかと思いますので、今は順を追って話を続けます。正直に申し上げますと、私は耐え抜ける器を持っていませんでした。大切な友人が徐に打ち明けてくれた、それを聞く相手が自分でよかったのかという迷いと、友人が私を話をすべき相手だと認めた理由が分からぬ恐ろしさと、これを誰かに継承していく能力がない焦りが、私を事あるごとに責め立てていました。夜独りで床に就いたとき、何かの用向きが済んだ帰り道、書から顔を上げた一瞬の間でさえ、私は見もしない真っ黒なへやの鮮血と、例の言葉が脳裏を過るのを、見過ごせないでいたのです。それは恐らく、私がその鮮血の嘗ての主に、余りに思い入れすぎていたからでした。己の信じる道をただ信じ、その為に死を選ばざるを得なかった人に、私は共感の念を抱いていたのです。そして、その日がいつか自分にも訪れることを、薄らと悟っていたのでした。もしかしたら貴方はそう云った私のシンパシーに、私の価値を見出してくれたのかもしれませんが、残念ながら、私は貴方が思うよりもずっと弱かったようです。

 『殉死とは、許されるべきものでしょうか』と私は御嬢さんに問いました。

 その言葉は、決して女の前で出すべきものではありませんでした。特に、若い女の前では酷でした。惚れた女の前では、絶対に出すべきではない話題でした。それぐらいの気概なら、温温と生まれ育った私にもまだ理解出来ます。けれど、私はそこまで考えが至らぬ程、そのときはもう滅入っていました。独りで抱えていることが、出来ませんでした。

 殉死ですか、と御嬢さんは、先と同じように目を丸くして、しかし、それ以上の驚きは見せずに、『馬鹿のすることだと思います』と、それはもう男勝りに云い切ったのです。

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