返書 友人と彼女
森音藍斗
一
「『もっと早く死ぬべきなのに、何故今まで生きていたのだろう』と、私のノートの端に書付けてあるのを、私は御嬢さんに決して見せる積りではなかったのです。
見せる積りはないと云いながら、その実見付けられるように広げて置いて、御嬢さんに心配させる試みだったのだろう、心配されたかったのだろうと、或いは貴方は思うかもしれません。その疑いをすっかり拭ってしまう言葉を、私は残念ながら持ち併せてはいませんので、ただただ本心だと叫ぶ他在りませんが、私はともかく私の心に正直な言葉を、此処に残しておくことにしましょう。私は御嬢さんの笑顔に一点の曇りも落とすことを喜ばなかったし、そもそも無意識に落とされた此の一文は、遠い昔に貴方から聞いた話の中の手紙の断片であって、私の心から出た言葉では在りませんでした。それが私の心に燻っていて、確かに私をしてノートの隅に走り書かせたことは否定しようもありませんが、しかし、決して御嬢さんを心配させるようなことではなかったのです。私は特段死ぬ予定もなかったし、また死にたいとも思っていませんでした。ただ、その言葉を遺して死んだ人と、その言葉に漸々殺された人と、その二人の切実を如何に咀嚼すればいいか分からぬまま静かに私に打ち明けてくれた貴方という良き友人に、思いを馳せるだけでした。
だから私は、其の拙いインクの痕が御嬢さんの目に触れたと知ったとき、慌てて
御嬢さんは、あら、いやだわ、と云ったのみでした。存外落ち着いているように見えました。まるで、私がお茶を台無しにしてしまったことにも、火鉢の火を消してしまったことにも――そして、ノートの暗く不穏な文言にも、さして気を留めていないようでした。
御嬢さんは、『またどうせ、難しいことを考えていらっしゃるのでしょう』とくすくすと笑いながら、傍にあった布巾で、畳に掛かった水分を抑えました。私は、そうでもありませんがと、もごもご濁すよりほかありませんでした。私はただ、自分が不用意に狼狽を表へ出してしまったことに、極まりが悪くなったのです。
そうでもありませんか、と、御嬢さんは私の口籠りをなぞる様に云い、楽しそうににこにこ笑っていました。彼女は何時だって楽しそうで、それはもう悩みなど無さそうにあっけらかんと笑っていて、それが私には不可解でした。
私は出し抜けに『最近あった嫌なことは、何ですか』と訊きました。それは御嬢さんにはさぞ唐突に聞こえたことでしょう。畳から顔を上げた御嬢さんは、目を丸くして暫く私を見つめたあと、『畳に茶渋が付くのが嫌です』と云いました。また、続けて『お気に入りの火鉢が暫く使えないのも嫌です』とも云いました。
私は一言、それは申し訳ないと謝って、それから首を横に振って、話の筋を戻そうと試みました。『そうではなくて、もっと、大きなことです』という、この言葉はしかし、御嬢さんのお気に召さなかったようでした。御嬢さんは、私のお気に入りの火鉢は大きくないですかと頬を膨らませました。私は自然、『人生を賭すほど悩みはしないでしょう。火鉢は買い換えればよろしい』と答えたのですが、これは間違いでした。
『火鉢を買い換えられるぐらいお稼ぎになってから仰って下さいまし』と、御嬢さんは強く云い放ちました。『あなた、それで、いつ祝言の資金は貯まるんです』
しまった、これは迂闊だったぞ、と、私が慌てて御嬢さんを宥めようと身を正すと、御嬢さんは、また急にくすくすと笑い出し、そして、それはそれは心底可笑しそうに、口元に手を当てながら、可愛い人だと云ったのです。
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