第十一章『幸せですか?』

『それって、オレのことか?』

 サダハルの姿を見た途端、私は身体の力を抜いてその場に座り込んだ。

 まだお腹が痛いけれど、それもどうでもいいと思えるくらい、安堵した。

「馬鹿じゃないですか? いるなら、早く出てきてくださいよ…」

『てめえの口上があまりにも面白くてな! 悪かった。はい! 謝罪終了!』

「ほんと、馬鹿みたい…」

 私が呆れると、隣の壁から、にゅるん…と風花さまが顔を出した。

『立派な口上でしたよ。栞奈さま。私とサダハル殿、心の底から賛辞を送りましょう』

「何処から出てきているんですか?」

『隣のお客様の情事を覗いておりました』

「話聞いてないじゃないですか!」

 思わずツッコんだ瞬間、頭頂部が疼き、顔を顰めた。

 足もとに転がった金盥を見て事情を察した風花さまは、青白く光る手で私の頭を撫でる。

『癒しの光でございます。膨れ上がったたんこぶは治りませんが、痛みは消えますよ』

 そう言った通り、波が引くように私の頭から痛みが消えた。

 それから、風花さまは私のお腹に触れる。

『女の子のお腹を蹴るなんて、とんでもない男でございますね』

「そうですね…」私はもう、誠也先輩を庇う真似はしなかった。「ほんと、最低な男でしたよ」

 その言葉に、先輩がむっとした顔をする。

 お腹の痛みを消して手を離した風花さまは、私の頬を撫でた。

『大丈夫ですよ。これから、サダハル殿が天誅を下してくれますから』

 サダハルの方を見る。彼の口元はにやりと笑っていたが、目は笑っていない。こめかみには青筋が浮いて、身に纏った着物は風が無いというのに揺らめいていた。

 カタカタカタ…と、床の上の金盥が震え、また、照明が点滅を繰り返した。

 チカチカとする視界の中、サダハルは恋愛成就の神の方を振り返って言った。

『よお、男垂らし神、何年ぶりだ?』

『わ、私は垂らしじゃないから…』

『ありゃ、確か、米騒動でオレの供え物が少ない時期だったからなあ。おい、栞奈、何年前だ』

「え、急になんですか?」

『大体…百年か。ひさしぶりってわけじゃないな』

 そう独り言のように言ったサダハルは、何ともおぞましい声で言った。

『お前ら、うちの栞奈に手え出して、ただで済むと思ってんのか?』

 完全なるヤクザのセリフに、場は凍り付く。

 おぞましい言葉を吐きだしたサダハルは、硬直している誠也先輩の方を横目で見た。

『この餓鬼、呪ってやろうか?』

 何か言いかけたが、唇を結ぶ恋愛成就の神。

 サダハルは地獄の底から響くような声で続けた。

『ガキだけじゃねえ。一族皆殺しだ。火事、交通事故、病…、ありとあらゆる災厄をばら撒いてやろうか? このガキが子を産もうが、早死にさせる。ずっと憑りついて、悪夢を見させてやる。でも殺さない。死ぬこともさせない。目を見開いた状態で、こいつが大切に思う人間を皆、不幸にして地獄に落としてやる…』

 再び恋愛成就の神の方を向き直るサダハル。

『それでいいよな? うちの栞奈を傷つけた落とし前は、ちゃんとしてもらうぞ』

『待って…』

 やっと口を開く恋愛成就の神。青い顔をしていた彼女だったが、深いため息をついて呼吸を整えると、毅然とした態度で言った。

『それをするのなら、私も、それ相応のことをするよ』

『…へえ、言ってみろよ』

 彼女の視線が、私の方を向いた。

 何をしようとしているのか察したサダハルは、鼻で笑った。

『てめえごときの力で、栞奈は落ちねえよ。こいつは強い子だ』

 強い子…。その言葉に、傍で聞いていた風花さまも頷いた。

『栞奈さまは強い意思を持たれています。おそらく、無駄なあがきになるかと…。春香殿…、どうか、ここは下がっていただけないでしょうか? サダハル殿は私が説得いたしますから』

『おい祓神、てめえ、なに勝手に仕切ってやがる。オレは本気だぜ?』

『災厄を納めるのは祓えの神の仕事です。気持ちはわかりますが、一族皆殺しはやりすぎでございます』

『人を不幸にするのが、厄病神の仕事だろうがよ』話が逸れたために、元に戻した。『それで? どうする? まだ何か、弁明でもするか?』

『私の力を舐めないでくれる? 本気を出せば、あの小娘の心ぐらい、簡単に支配できる』

『だったら、今この場で雷落して、このガキを殺そうか?』

 サダハルの提案…いや、脅しに、恋愛成就の神はまた黙った。

 睨み合う二人。十秒、二十秒、三十秒、四十秒…と経過し、その緊迫な空気を打ち破ったのは、サダハルのため息だった。

『あ~、やめやめ。くっだらねえ。人の信仰心が無いと存在を保てない、神のなりそこない同士が喧嘩なんて、くだらなすぎてため息が洩れちまう』

『…くだらない?』

 恋愛成就の神が聞いたが、それを無視して、サダハルは踵を返した。

 ふわっと浮かび上がり、私の方に飛んでくる。

『オレは皆殺しでもよかったんだがな…』そして、私の頬を撫でた。『こいつは、そうは思ってないだろう?』

 神さまは霊体だ。撫でられたところで感覚なんて無い。だけど、なぜか、暖かかった。

『栞奈は、優しい子だ』

 その慈しむような声に、風花さまが意外そうな顔をした。

『サダハル殿にも、そんな顔ができるのですね』

『うるせえ』

 そう言って風花さまを一蹴すると、私に『それでいいよな?』と確認をとった。

『これで決着だ』

「…はい」

 私がうなずくと、サダハルは満足げに笑い、恋愛成就の神と、誠也先輩の方を振り返る。

『次に栞奈に手を出して見ろ。どうなるかは、さっき言った通りだ』

「………」

『まあ、お互い様だ。お互いの領域を犯さないよう、自由にやろうや』

 サダハルに促されて、私は立ち上がった。その時にはもう、身体は完全に動くようになっていて、痛みも消えていた。ただ、風花さまの力は、痛みを消すだけのようで、手からは相変わらず血が滴っていた。とにかく、早く帰って手当をしよう…。

 サダハルが念力を使って、扉のドアノブを捻った。

『それじゃあな…』

 ガチャリ…と軋む音を立てて扉が開く。

 いざ出ようと顔を向けた時、そこに広がっていた光景を目の当たりにして、仰天した。

『うわあああああっ!』

「きゃああああああっ!」

『なんてことを…』

 三人間抜けな声をあげて後ずさる。

 扉を開けた先…そこには、二十人以上の男女が立っていたのだ。

 服を着た者、バスローブを身に纏った者、一糸まとわぬ者と、格好は様々。しかし、全員一貫して、ガラス玉のような虚ろな目をして、こちらを見ていた。

 その者たちは、扉が開いた途端、部屋になだれ込んでくる。

 人波に押され、私は部屋の奥へ奥へと引き戻された。

 霊体なのですり抜けるだけのサダハルと風花さま。

 何が起こっているか気づいたサダハルが、振り向きざまに叫んだ。

『おい! てめえ!』

 その先にサダハルが見たのは、入ってきた者たちに、腕、脚、首を掴まれて羽交い絞めにされた私の姿だった。

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