第十一章『幸せですか?』
①
『それって、オレのことか?』
サダハルの姿を見た途端、私は身体の力を抜いてその場に座り込んだ。
まだお腹が痛いけれど、それもどうでもいいと思えるくらい、安堵した。
「馬鹿じゃないですか? いるなら、早く出てきてくださいよ…」
『てめえの口上があまりにも面白くてな! 悪かった。はい! 謝罪終了!』
「ほんと、馬鹿みたい…」
私が呆れると、隣の壁から、にゅるん…と風花さまが顔を出した。
『立派な口上でしたよ。栞奈さま。私とサダハル殿、心の底から賛辞を送りましょう』
「何処から出てきているんですか?」
『隣のお客様の情事を覗いておりました』
「話聞いてないじゃないですか!」
思わずツッコんだ瞬間、頭頂部が疼き、顔を顰めた。
足もとに転がった金盥を見て事情を察した風花さまは、青白く光る手で私の頭を撫でる。
『癒しの光でございます。膨れ上がったたんこぶは治りませんが、痛みは消えますよ』
そう言った通り、波が引くように私の頭から痛みが消えた。
それから、風花さまは私のお腹に触れる。
『女の子のお腹を蹴るなんて、とんでもない男でございますね』
「そうですね…」私はもう、誠也先輩を庇う真似はしなかった。「ほんと、最低な男でしたよ」
その言葉に、先輩がむっとした顔をする。
お腹の痛みを消して手を離した風花さまは、私の頬を撫でた。
『大丈夫ですよ。これから、サダハル殿が天誅を下してくれますから』
サダハルの方を見る。彼の口元はにやりと笑っていたが、目は笑っていない。こめかみには青筋が浮いて、身に纏った着物は風が無いというのに揺らめいていた。
カタカタカタ…と、床の上の金盥が震え、また、照明が点滅を繰り返した。
チカチカとする視界の中、サダハルは恋愛成就の神の方を振り返って言った。
『よお、男垂らし神、何年ぶりだ?』
『わ、私は垂らしじゃないから…』
『ありゃ、確か、米騒動でオレの供え物が少ない時期だったからなあ。おい、栞奈、何年前だ』
「え、急になんですか?」
『大体…百年か。ひさしぶりってわけじゃないな』
そう独り言のように言ったサダハルは、何ともおぞましい声で言った。
『お前ら、うちの栞奈に手え出して、ただで済むと思ってんのか?』
完全なるヤクザのセリフに、場は凍り付く。
おぞましい言葉を吐きだしたサダハルは、硬直している誠也先輩の方を横目で見た。
『この餓鬼、呪ってやろうか?』
何か言いかけたが、唇を結ぶ恋愛成就の神。
サダハルは地獄の底から響くような声で続けた。
『ガキだけじゃねえ。一族皆殺しだ。火事、交通事故、病…、ありとあらゆる災厄をばら撒いてやろうか? このガキが子を産もうが、早死にさせる。ずっと憑りついて、悪夢を見させてやる。でも殺さない。死ぬこともさせない。目を見開いた状態で、こいつが大切に思う人間を皆、不幸にして地獄に落としてやる…』
再び恋愛成就の神の方を向き直るサダハル。
『それでいいよな? うちの栞奈を傷つけた落とし前は、ちゃんとしてもらうぞ』
『待って…』
やっと口を開く恋愛成就の神。青い顔をしていた彼女だったが、深いため息をついて呼吸を整えると、毅然とした態度で言った。
『それをするのなら、私も、それ相応のことをするよ』
『…へえ、言ってみろよ』
彼女の視線が、私の方を向いた。
何をしようとしているのか察したサダハルは、鼻で笑った。
『てめえごときの力で、栞奈は落ちねえよ。こいつは強い子だ』
強い子…。その言葉に、傍で聞いていた風花さまも頷いた。
『栞奈さまは強い意思を持たれています。おそらく、無駄なあがきになるかと…。春香殿…、どうか、ここは下がっていただけないでしょうか? サダハル殿は私が説得いたしますから』
『おい祓神、てめえ、なに勝手に仕切ってやがる。オレは本気だぜ?』
『災厄を納めるのは祓えの神の仕事です。気持ちはわかりますが、一族皆殺しはやりすぎでございます』
『人を不幸にするのが、厄病神の仕事だろうがよ』話が逸れたために、元に戻した。『それで? どうする? まだ何か、弁明でもするか?』
『私の力を舐めないでくれる? 本気を出せば、あの小娘の心ぐらい、簡単に支配できる』
『だったら、今この場で雷落して、このガキを殺そうか?』
サダハルの提案…いや、脅しに、恋愛成就の神はまた黙った。
睨み合う二人。十秒、二十秒、三十秒、四十秒…と経過し、その緊迫な空気を打ち破ったのは、サダハルのため息だった。
『あ~、やめやめ。くっだらねえ。人の信仰心が無いと存在を保てない、神のなりそこない同士が喧嘩なんて、くだらなすぎてため息が洩れちまう』
『…くだらない?』
恋愛成就の神が聞いたが、それを無視して、サダハルは踵を返した。
ふわっと浮かび上がり、私の方に飛んでくる。
『オレは皆殺しでもよかったんだがな…』そして、私の頬を撫でた。『こいつは、そうは思ってないだろう?』
神さまは霊体だ。撫でられたところで感覚なんて無い。だけど、なぜか、暖かかった。
『栞奈は、優しい子だ』
その慈しむような声に、風花さまが意外そうな顔をした。
『サダハル殿にも、そんな顔ができるのですね』
『うるせえ』
そう言って風花さまを一蹴すると、私に『それでいいよな?』と確認をとった。
『これで決着だ』
「…はい」
私がうなずくと、サダハルは満足げに笑い、恋愛成就の神と、誠也先輩の方を振り返る。
『次に栞奈に手を出して見ろ。どうなるかは、さっき言った通りだ』
「………」
『まあ、お互い様だ。お互いの領域を犯さないよう、自由にやろうや』
サダハルに促されて、私は立ち上がった。その時にはもう、身体は完全に動くようになっていて、痛みも消えていた。ただ、風花さまの力は、痛みを消すだけのようで、手からは相変わらず血が滴っていた。とにかく、早く帰って手当をしよう…。
サダハルが念力を使って、扉のドアノブを捻った。
『それじゃあな…』
ガチャリ…と軋む音を立てて扉が開く。
いざ出ようと顔を向けた時、そこに広がっていた光景を目の当たりにして、仰天した。
『うわあああああっ!』
「きゃああああああっ!」
『なんてことを…』
三人間抜けな声をあげて後ずさる。
扉を開けた先…そこには、二十人以上の男女が立っていたのだ。
服を着た者、バスローブを身に纏った者、一糸まとわぬ者と、格好は様々。しかし、全員一貫して、ガラス玉のような虚ろな目をして、こちらを見ていた。
その者たちは、扉が開いた途端、部屋になだれ込んでくる。
人波に押され、私は部屋の奥へ奥へと引き戻された。
霊体なのですり抜けるだけのサダハルと風花さま。
何が起こっているか気づいたサダハルが、振り向きざまに叫んだ。
『おい! てめえ!』
その先にサダハルが見たのは、入ってきた者たちに、腕、脚、首を掴まれて羽交い絞めにされた私の姿だった。
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