「そういうのじゃ、な、くて…」

 身体が、動かない。抵抗したいのに、抵抗できない。

 大丈夫…と言って、先輩が私の頭を撫でる。その瞬間、また、私の中から力が抜けた。

 下腹部がどうしようもなく熱くなって、足ががくがくと震えはじめる。

 薄れゆく意識の中、霞みの中をチラつくみたいに、「この人を受け入れたい」「この人と一緒に居たい」という感情が湧きあがった。

 これはおかしいことだった。私は今、先輩に怒りと恐怖を抱いているはずだ。だから、あの手を払いのけた。それなのに、頭の中に詰まったそれらの感情の中に、無理やり、恋心をねじ込まれているような…そんな気がした。

 脳を、直接弄られているような…。

「せ、せんぱい…」

 立っていられなくて、先輩に体重を預ける。

 先輩は優しく笑うと、私の肩を支えつつ、ホテルに向かって歩き始める。

 甘ったるいネオンの明かりに照らされて、私は「もういいや…」と思い、自力で立った。

 そして、自ら、隣の先輩に手を差し出した。

 私の冷えた指に、先輩の指が絡まる。

 その生々しい感触を覚えた瞬間、脳裏に白い火花が弾けた。

 パンッ! と乾いた音が響く。

 先輩の手を払いのけた私は、先程と同じように、荒い息を吐きながら、下がった。今度は、三歩。四歩、五歩…。六歩、距離をとっていた。

「せ、んぱい…」

 先輩は意外そうな顔をして、はじかれた自分の手を覗き込んだ。そして、肩を竦めた。

「栞奈、お前みたいな、心の強い女の子は初めてだよ」

「…は?」

「大抵の女の子は、あれだけで落ちるんだけどね。お前は性欲とは少し違う場所で生きているみたいだ…」

 早く先輩から距離をとらないと、また、変な気持ちになる気がした。だけど、足が動かない。

 心じゃなくて身体が、先輩に近づきたいって、思っている…。

「辛いだろ?」

 先輩が一歩こちらに踏み出す。私は半歩下がる。

「来ないで…」

「そういうわけにもいかん。オレは、お前のことが本当に、好きになったみたいだ」

 心を撫でるような言葉に、また、意識が飛びかける。

 歯を食いしばり、再び先輩を見据えた時、彼の横に、女の子が立っていた。

「あ…」

 食事前に見た、あの女の子だった。

 白い肌に、低い鼻、唇は薄い。眠たげに閉じられた瞼の隙間からは、吸い込まれるような瞳がこちらを覗いている。風に揺らめく髪は、相変わらず月光のような存在感を放ち、華奢な身体に纏った黒いドレスと相まって、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。

 何処から出てきた? という疑問は、心臓の音にかき消される。

 残ったのは、「これはやばい」という、結論。

 逃げないと…。早く、逃げないと…。

「こ、来ないで」

 脚に錘を付けたかのようにぎこちなく後ずさる。

 少女が私に近づいてきたが、その足はブーツを履いているというのに、音が何もしなかった。

 私と少女の感覚が、目と鼻の先になる。

 私に顔を寄せた少女は、鈴を鳴らすような声で、こうつぶやいた。

『恋は、幸せなことなの』

 少女の小さな手が私の顔を包み込む。だけど、触れられている…という感覚が無い。

 一瞬だけ、少女の輪郭が揺らいだような気がした。

「あなた、まさか…」

 目を動かして、先輩の方を見る。先輩は笑いながら、Tシャツの内側に指を入れると、そこから紐でぶら下げた何かを摘まみ、引っ張り出した。

 それは、桃色のお守り…。何か刺繍が施されているようだが、何と書いてあるのかはわからない。でも、なんとなく、わかった。

 数週間前に、風花さまから言われた言葉を思い出す。

 …あそこの神社の神は、厄病神よりも悪質なので…。

「ま、まさか…」

 震える目で女の子を見た。

 女の子は無表情のまま舌なめずりをすると、唇を尖らせる。

「ま、まって」

 何をされるのか想像がついた私は、慌てて訴えた。

 だけど、まるで聞こえていない…とでも言うように、女の子は躊躇なく私に身を寄せ、尖らせた唇を、私の唇に重ねた。

 その瞬間、心臓が爆発したように脈を打ち、藍色の視界が、赤く染まる。力が抜けて、膝から崩れ落ちた。

 わずか一センチの距離で、女の子の目と私の目がかち合う。

 口の中に、舌を入れられるような感覚がした。

「あ…」

 ぽんっ…と頭の中で何かが弾けるような音。

 意識が、途切れた。

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