③
「そういうのじゃ、な、くて…」
身体が、動かない。抵抗したいのに、抵抗できない。
大丈夫…と言って、先輩が私の頭を撫でる。その瞬間、また、私の中から力が抜けた。
下腹部がどうしようもなく熱くなって、足ががくがくと震えはじめる。
薄れゆく意識の中、霞みの中をチラつくみたいに、「この人を受け入れたい」「この人と一緒に居たい」という感情が湧きあがった。
これはおかしいことだった。私は今、先輩に怒りと恐怖を抱いているはずだ。だから、あの手を払いのけた。それなのに、頭の中に詰まったそれらの感情の中に、無理やり、恋心をねじ込まれているような…そんな気がした。
脳を、直接弄られているような…。
「せ、せんぱい…」
立っていられなくて、先輩に体重を預ける。
先輩は優しく笑うと、私の肩を支えつつ、ホテルに向かって歩き始める。
甘ったるいネオンの明かりに照らされて、私は「もういいや…」と思い、自力で立った。
そして、自ら、隣の先輩に手を差し出した。
私の冷えた指に、先輩の指が絡まる。
その生々しい感触を覚えた瞬間、脳裏に白い火花が弾けた。
パンッ! と乾いた音が響く。
先輩の手を払いのけた私は、先程と同じように、荒い息を吐きながら、下がった。今度は、三歩。四歩、五歩…。六歩、距離をとっていた。
「せ、んぱい…」
先輩は意外そうな顔をして、はじかれた自分の手を覗き込んだ。そして、肩を竦めた。
「栞奈、お前みたいな、心の強い女の子は初めてだよ」
「…は?」
「大抵の女の子は、あれだけで落ちるんだけどね。お前は性欲とは少し違う場所で生きているみたいだ…」
早く先輩から距離をとらないと、また、変な気持ちになる気がした。だけど、足が動かない。
心じゃなくて身体が、先輩に近づきたいって、思っている…。
「辛いだろ?」
先輩が一歩こちらに踏み出す。私は半歩下がる。
「来ないで…」
「そういうわけにもいかん。オレは、お前のことが本当に、好きになったみたいだ」
心を撫でるような言葉に、また、意識が飛びかける。
歯を食いしばり、再び先輩を見据えた時、彼の横に、女の子が立っていた。
「あ…」
食事前に見た、あの女の子だった。
白い肌に、低い鼻、唇は薄い。眠たげに閉じられた瞼の隙間からは、吸い込まれるような瞳がこちらを覗いている。風に揺らめく髪は、相変わらず月光のような存在感を放ち、華奢な身体に纏った黒いドレスと相まって、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。
何処から出てきた? という疑問は、心臓の音にかき消される。
残ったのは、「これはやばい」という、結論。
逃げないと…。早く、逃げないと…。
「こ、来ないで」
脚に錘を付けたかのようにぎこちなく後ずさる。
少女が私に近づいてきたが、その足はブーツを履いているというのに、音が何もしなかった。
私と少女の感覚が、目と鼻の先になる。
私に顔を寄せた少女は、鈴を鳴らすような声で、こうつぶやいた。
『恋は、幸せなことなの』
少女の小さな手が私の顔を包み込む。だけど、触れられている…という感覚が無い。
一瞬だけ、少女の輪郭が揺らいだような気がした。
「あなた、まさか…」
目を動かして、先輩の方を見る。先輩は笑いながら、Tシャツの内側に指を入れると、そこから紐でぶら下げた何かを摘まみ、引っ張り出した。
それは、桃色のお守り…。何か刺繍が施されているようだが、何と書いてあるのかはわからない。でも、なんとなく、わかった。
数週間前に、風花さまから言われた言葉を思い出す。
…あそこの神社の神は、厄病神よりも悪質なので…。
「ま、まさか…」
震える目で女の子を見た。
女の子は無表情のまま舌なめずりをすると、唇を尖らせる。
「ま、まって」
何をされるのか想像がついた私は、慌てて訴えた。
だけど、まるで聞こえていない…とでも言うように、女の子は躊躇なく私に身を寄せ、尖らせた唇を、私の唇に重ねた。
その瞬間、心臓が爆発したように脈を打ち、藍色の視界が、赤く染まる。力が抜けて、膝から崩れ落ちた。
わずか一センチの距離で、女の子の目と私の目がかち合う。
口の中に、舌を入れられるような感覚がした。
「あ…」
ぽんっ…と頭の中で何かが弾けるような音。
意識が、途切れた。
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