②
楽しい食事、いや、ディナーは一瞬で過ぎて、十時を回る頃にレストランを後にした。
「どうだった?」
「いやあ、本当に美味しかったです! 幸せでした」
「そうか、そりゃよかった」
来るときは多くの車が行き交っていた道路だが、今はぽつぽつと通るのみ。ビルからは徐々に明かりが消えていく。その間を駆け抜ける風は肌寒く、頬に当たる砂埃が一日の終わりを実感させた。
「寒いですねえ」
「そうだな。秋って感じだ」
「まあ、まだ昼間は暑いですけどね」
「そうだな。まだクーラーつけてる?」
「昼間はバイトですからね。ほとんど付けてないかも」
「そうかあ」
そんな、季節の変わり目を感じさせる会話をしながら、二人で肩を並べて歩く。
先輩に誘われた時は、気まずいなあ…と思っていたが、今はそんなことは無かった。恋心を捨てて、一人の後輩、いや、友達として、先輩と接することができているような気がした。
帰ったら、いつもお供えしているご飯とは比べ物にならないくらい美味しいものを食べたことを、サダハルに自慢してやろう。そんなことを思うと、自然と笑みがこぼれた。
「ちょっと遠回りしようぜ」
先輩が言う。私は、迷うことなく頷いた。
「ええもちろん。お腹休めで歩きましょう!」
その時、ふわっと、甘い香りが鼻を擽った。
花…とは少し違う。食欲をそそるような、お菓子の香り? バニラエッセンス…とは少し違う。とにかく、嗅いだことがあるような無いような、そんな香りがしたのだ。
次の瞬間、くらっと視界が歪む。
脚の力が抜け、危うく転びそうになったところを、先輩が支えてくれた。
「大丈夫か?」
「あ…」
私の肩に触れる、先輩の手。ごつごつとした感触…。
途端に、私の心臓が、焼けるような感覚に襲われた。
反射的に、胸に触れる。だけど、違和感は既に消え失せていて、薄い皮膚越しに伝わるのは、私の鼓動だった。
なんだったんだ? 今のは…。
「おい、大丈夫か?」
先輩の声で我に返る。顔を上げると、先輩が笑っていた。
「どうした? ワインで酔ったか?」
「あはは、そうかも」
そんなはずはない。いや、そうなのか? これが「酔う」ってやつなのか? でも、ちゃんと歩けているし、身体が熱いとか、思考が定まらないとか、そういう感覚はしないし…。
「でも、だ、大丈夫です」
違和感を振り払い、頷いた私は、また歩き始める。
なんだろう…怖い。この感じ。そう思った時だった。
先輩が私の横に並ぶ。一歩、私の方に踏み出した。
かすかに擦れる、私の腕と先輩の腕。布越しに、先輩の気配を感じる。
そして、先輩は何も言わず、私の肩に手を回し、抱き寄せた。
「…………」
肩越しに、先輩の体温を感じる。
先輩がふう…と息を吐いた瞬間、私の思考が停止した。
一秒、二秒、三秒、四秒、五秒経ってようやく再起動。頭の中でめぐり始める。
あれ? 先輩、何やってんの? なんで抱き寄せてんの? もしかして、後ろから自転車が来ていたとか? いや、そんなわけが無いし…。じゃあ、なんで? 寒いから? いや、確かに肌寒いけど、抱きしめられるほどのことじゃないし…。
あ、聞かなきゃ…。
「あの、先輩…」
「ここ、寄って行かないか?」
私の声を遮って、先輩がある建物を指す。
彼の指の先には、ピンク色のネオンが妖艶に輝く、ラブホテルがあった。
ラブホテル。そう、男女の営みに使われる、愛の巣。
「……………」
さらに強い力で、私を抱き寄せる先輩。また、私の思考が停止した。
一秒、二秒、三秒、四秒で起動。
あれ? 先輩って、彼女いたよな? 城山さん…って女の子が、いたよな? うん、城山さんだ。城山あずささん。可愛くて、お金持ちで、優しくて、頭が良くて、みんながうらやましがる彼女さんがいるはずだ。
あれ? なんで先輩、私をラブホテルに誘っているんだろう?
「あの…」
「いいだろう?」
先輩の甘い声が、私の耳にささやいた。途端に、また、心臓に焼けるような感覚がした。
「前の、お詫び」
いや、お詫びなら、さっき。
私の返事を聞かないまま、先輩がホテルへと踏み出す。
ラブホテルの自動扉がみるみる近づいてくる。
次の瞬間、私は全身に鞭を振ったように動き、先輩の肩を突き飛ばしていた。
先輩が面食らったような顔をする。
私は半歩下がり距離を取ると、水から上がったように息を吸い込んだ。
「先輩…、これは、何のつもりですか?」
「なんのつもりって、わかるだろ…」先輩は少し動揺を覆い隠すように笑った。「お前に、お詫びがしたかったんだ」
「お詫び…。これがですか?」
横目で、ラブホテルを見る。
「これが、あの時の、お詫び、ですか?」
「うん。そうだよ。だって、お前、オレのこと好きなんだろう?」
「好きです」そこははっきりと頷く。「前に言った通り、大好きです。確かに、えっちだって、したいとは思っていました」
「だったら、いいじゃないか。ほら、行こうぜ」
先輩はにこっと笑うと、またホテルの方を指した。
「まったく、急に突き飛ばされるから、傷ついちゃったじゃないか」
「でも、先輩、城山さんがいますよね?」
その言葉に、先輩の表情が固まった。
「これが、あの時の、お詫び? 私が先輩を好きだから、やってもいい?」
腹の底に、みるみる困惑と怒りが溜まっていくのがわかった。
「これは少し、違うんじゃないですか?」
そう言われて、先輩はため息をついた。頭をぽりぽりと掻き、言いにくそうに言った。
「あー、悪い、実は、言ってなかったんだけど、あずさとは別れたんだ」
「え…」
「ほら、結構迷惑かけただろ? だから、逃げられた」
「それは…」
「寂しかったんだよ」
先輩がぽつりと言う。急に、境遇を語り始めた。
「オレ、親に虐待されてな。人に愛されずに育ったんだよ。だから、人肌が恋しいっていうか…。誰かと一緒に居ないと、落ち着かないんだ…。だから、頼むよ」
先輩が私に一歩近づく。
軽く手を広げるのが分かった。だけど、なぜか身体が動かず、そのまま抱きしめられる。
ふわっと鼻をくすぐる香水。先輩の腕の力強さと、胸板の厚さに、視界が歪んだ。
「まって、先輩」
「頼むよ」
「お願い、先輩。やめて」
「なんで抵抗しないの? そういうこと、だろう?」
「やめて、先輩…。怖いです」
まるで、蛇に睨まれた蛙のように、身体が動かない。そのまま、丸のみにされるみたいに、強く抱きしめられる。
これは、明らかに、何かがおかしかった。
私が震え出したのを見て、先輩は「大丈夫」と甘い声で言うと、さらに強く、抱きしめた。
「大丈夫。優しくするから」
「そういうのじゃ、な、くて…」
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