目が覚めた時、私は病院のベッドの上だった。

 ああ、またかあ…。と思いながら、目だけを動かしていると、隣に誰かが立つのが分かった。

 サダハルだな…。

「すみません、サダハル様…」

 そう言って横を向いて、仰天する。

 そこには、誠也先輩が立っていて、安堵した目で私を見下ろしていたのだ。

「せ、誠也先輩…」

「目が覚めたな。よかった…」

 誠也先輩は笑うと、私の頬の絆創膏を撫でた。

 その感触に我に返った私は、慌てて謝った。

「ごめんなさい。先輩…。迷惑を、掛けてしまって…」

「お前が…、あずさに嫌がらせをしてくる犯人を見つけてくれたんだよな…」

「本当に、すみません…」顔を覆う。「私なんて…、先輩と無関係なのに…。出しゃばっちゃって…。結果、先輩に迷惑を掛けて…」

「まあ、確かに…。警察沙汰になっちゃったし、お前が怪我をしちゃったからな」

 その言葉に、人生終了を悟る。

「…すみません」

「でも、嬉しかったよ。お前が、オレとあずさのために、身を呈して佐伯を捕まえてくれて…」

 本当に、ありがとう。

 誠也先輩は、私に深々と頭を下げた。

「栞奈のおかげで、助かったよ」

「…はい」

 それから先輩は、夜が明けるまでずっと私の横にいてくれた。

 恥ずかしくて何も話せなかったけど、彼はずっと、私の横顔を見つめてくれていた。

 そうして、七時頃に、病院を後にした。

 その頃は、外はすっかり明るくなっていて、涼しい風が吹いていた。

「家まで送るよ」

「いや、いいですよ」

「お前は危なっかしいからな。そのくらいさせてくれ」

「そ、それじゃあ」

 これ以上彼といたら、私の体温が上がりすぎて蒸発してしまいそうな気がしたが、勇気を振り絞って頷く。

「アパートまで…、一緒に…」

「うん。任せろ」

 二人で並んで、朝の路地を歩く。

 人の気配はおろか、鳥すら飛んでいない。涼しい風が火照った頬を撫で、私の理性を何とか胸の奥に引き止めていた。震えた足を踏み出す度に、ブーツがコツコツ…と音を立てる。それは先輩のサンダルと合わさって、何とも奇妙な音楽を奏でていた。きっと、これからもずっと耳にこびりついて、忘れないのだろう。

 ふとした拍子に、先輩の指先に、私の指が触れる。たった一瞬。掠った程度。

 それなのに、朝焼けのコーンポタージュのような、柔らかな熱が私の爪に宿った。

 なんだかとっても、幸せだった。

「それじゃあ、ここが私のアパートなので」

 永遠とも思える幸せな時間を過ごした私は、アパートに辿り着くと、先輩に言った。

「送ってくれてありがとうございました」

「おう。気を付けて」

「はい、今日はもう、ゆっくり休むことにします」

 先輩に手を振る。先輩も私に手を振り返し、背を向けた。

 そのまま歩いていくのかと思ったが、先輩は立ち止まり、再び私を振り返った。

「なあ、栞奈」

「は、はい、なんでしょう」

 先輩が息を吸い込み、言った。

「お前、オレのこと好きなの?」

「へ?」

 その瞬間、微睡みの時間が終了する。

 鳥が鳴き声をあげて飛び立ち、羽が散る。塀の上で眠っていた猫は大きなあくびをして、私の前を横切る。背後にあるアパートからは、一階の住人が設定した目覚ましが鳴りだし、向かいの民家では赤子が鳴き喚いた。

 先輩の背後を、自転車が無機質な音を立てて通り過ぎ、それを追うように、軽自動車が結構なスピードを立てて過ぎ去った。

 涼しい風が勢いを強める。しかし、みるみる上昇する私の体温を抑え込むには至らなかった。

「あ、ああ、ああ…」

 脳裏を過るのは、あの時のこと。

 佐伯さんに言われて、ムキになって、天を仰いで…、叫んだ…。

「あ、ああ、ああああああああああっ!」

 私はその場に跪くと、顔を覆って、首を激しく振った。

「違います! 違います! 嘘です! 冗談です! あの時言ったのは、冗談です!」

「冗談だった…のか?」

「違います! 冗談じゃないです! だけど…。その!」みるみるパニックに陥っていく「ああ、ごめんなさい! 私みたいなのが…、ごめんなさいごめんなさい!」

 ダッ…と地面を蹴る音。

 先輩の気配が近づいてきたと思ったら、次の瞬間、頬を撫でられる。

「違うの?」

「…いや、その…」

 息をすることを思い出した私は、小さな声で絞り出した。

「…好きです…」

 顔覆っていた手を下げ、先輩の目を見つめる。

「…大好きです」

 ぼろぼろと涙がこぼれて、頬の絆創膏に染みこみ、その奥の傷が痛んだ。

 しゃくり声をあげながら、決して開かれることのない彼の心に打ち付けるように、言った。

「ずっと、ずっと…、大好きでした…」

「…うん。ありがとう」

 先輩は私を抱きしめると、頭をぽんぽんと撫でる。そして、寂しそうに、つぶやいた。

「…ごめんな」

 近くで、鳥が鳴いている。道路を、車が通り過ぎる。

 壁の向こうからは、まな板で何かを切る音。

 いつもの日常。平常運転の世界。

 ずっと恋焦がれていた人。追いつきたかった人。

 そのために、頑張った。自分を磨いた。

 長い、長い道のり。それが今、途切れた。

 それなのに、私の心はなんだか、穏やかだった。

 私は先輩の背に腕を回すと、強く抱きしめる。

 そして、静かに、涙を落とした。

 そうして私は、三年前の初恋に、終止符を打った。

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