⑤
目が覚めた時、私は病院のベッドの上だった。
ああ、またかあ…。と思いながら、目だけを動かしていると、隣に誰かが立つのが分かった。
サダハルだな…。
「すみません、サダハル様…」
そう言って横を向いて、仰天する。
そこには、誠也先輩が立っていて、安堵した目で私を見下ろしていたのだ。
「せ、誠也先輩…」
「目が覚めたな。よかった…」
誠也先輩は笑うと、私の頬の絆創膏を撫でた。
その感触に我に返った私は、慌てて謝った。
「ごめんなさい。先輩…。迷惑を、掛けてしまって…」
「お前が…、あずさに嫌がらせをしてくる犯人を見つけてくれたんだよな…」
「本当に、すみません…」顔を覆う。「私なんて…、先輩と無関係なのに…。出しゃばっちゃって…。結果、先輩に迷惑を掛けて…」
「まあ、確かに…。警察沙汰になっちゃったし、お前が怪我をしちゃったからな」
その言葉に、人生終了を悟る。
「…すみません」
「でも、嬉しかったよ。お前が、オレとあずさのために、身を呈して佐伯を捕まえてくれて…」
本当に、ありがとう。
誠也先輩は、私に深々と頭を下げた。
「栞奈のおかげで、助かったよ」
「…はい」
それから先輩は、夜が明けるまでずっと私の横にいてくれた。
恥ずかしくて何も話せなかったけど、彼はずっと、私の横顔を見つめてくれていた。
そうして、七時頃に、病院を後にした。
その頃は、外はすっかり明るくなっていて、涼しい風が吹いていた。
「家まで送るよ」
「いや、いいですよ」
「お前は危なっかしいからな。そのくらいさせてくれ」
「そ、それじゃあ」
これ以上彼といたら、私の体温が上がりすぎて蒸発してしまいそうな気がしたが、勇気を振り絞って頷く。
「アパートまで…、一緒に…」
「うん。任せろ」
二人で並んで、朝の路地を歩く。
人の気配はおろか、鳥すら飛んでいない。涼しい風が火照った頬を撫で、私の理性を何とか胸の奥に引き止めていた。震えた足を踏み出す度に、ブーツがコツコツ…と音を立てる。それは先輩のサンダルと合わさって、何とも奇妙な音楽を奏でていた。きっと、これからもずっと耳にこびりついて、忘れないのだろう。
ふとした拍子に、先輩の指先に、私の指が触れる。たった一瞬。掠った程度。
それなのに、朝焼けのコーンポタージュのような、柔らかな熱が私の爪に宿った。
なんだかとっても、幸せだった。
「それじゃあ、ここが私のアパートなので」
永遠とも思える幸せな時間を過ごした私は、アパートに辿り着くと、先輩に言った。
「送ってくれてありがとうございました」
「おう。気を付けて」
「はい、今日はもう、ゆっくり休むことにします」
先輩に手を振る。先輩も私に手を振り返し、背を向けた。
そのまま歩いていくのかと思ったが、先輩は立ち止まり、再び私を振り返った。
「なあ、栞奈」
「は、はい、なんでしょう」
先輩が息を吸い込み、言った。
「お前、オレのこと好きなの?」
「へ?」
その瞬間、微睡みの時間が終了する。
鳥が鳴き声をあげて飛び立ち、羽が散る。塀の上で眠っていた猫は大きなあくびをして、私の前を横切る。背後にあるアパートからは、一階の住人が設定した目覚ましが鳴りだし、向かいの民家では赤子が鳴き喚いた。
先輩の背後を、自転車が無機質な音を立てて通り過ぎ、それを追うように、軽自動車が結構なスピードを立てて過ぎ去った。
涼しい風が勢いを強める。しかし、みるみる上昇する私の体温を抑え込むには至らなかった。
「あ、ああ、ああ…」
脳裏を過るのは、あの時のこと。
佐伯さんに言われて、ムキになって、天を仰いで…、叫んだ…。
「あ、ああ、ああああああああああっ!」
私はその場に跪くと、顔を覆って、首を激しく振った。
「違います! 違います! 嘘です! 冗談です! あの時言ったのは、冗談です!」
「冗談だった…のか?」
「違います! 冗談じゃないです! だけど…。その!」みるみるパニックに陥っていく「ああ、ごめんなさい! 私みたいなのが…、ごめんなさいごめんなさい!」
ダッ…と地面を蹴る音。
先輩の気配が近づいてきたと思ったら、次の瞬間、頬を撫でられる。
「違うの?」
「…いや、その…」
息をすることを思い出した私は、小さな声で絞り出した。
「…好きです…」
顔覆っていた手を下げ、先輩の目を見つめる。
「…大好きです」
ぼろぼろと涙がこぼれて、頬の絆創膏に染みこみ、その奥の傷が痛んだ。
しゃくり声をあげながら、決して開かれることのない彼の心に打ち付けるように、言った。
「ずっと、ずっと…、大好きでした…」
「…うん。ありがとう」
先輩は私を抱きしめると、頭をぽんぽんと撫でる。そして、寂しそうに、つぶやいた。
「…ごめんな」
近くで、鳥が鳴いている。道路を、車が通り過ぎる。
壁の向こうからは、まな板で何かを切る音。
いつもの日常。平常運転の世界。
ずっと恋焦がれていた人。追いつきたかった人。
そのために、頑張った。自分を磨いた。
長い、長い道のり。それが今、途切れた。
それなのに、私の心はなんだか、穏やかだった。
私は先輩の背に腕を回すと、強く抱きしめる。
そして、静かに、涙を落とした。
そうして私は、三年前の初恋に、終止符を打った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます