『ああ、もう! 埒があかん!』

 しびれを切らしたサダハルが、半歩前に出た。上体を捻り、腕を振り絞る。

 雷を落とすつもりなのだと気づいた風花さまが慌てて止めた。

『サダハル殿、下には栞奈さまが…』

『うるせえっ!』

 制止を無視して、腕を振る。次の瞬間、通りの向こうから生温い突風が、私と、その上に跨る佐伯さんに吹きつけた。

 ゴオッ! と、空気が擦れる音とともに、一帯の民家からは窓ガラスが揺れる嫌な音。

 風は勢いを強め、佐伯さんの髪を激しく揺らした。そして、よろめく。だが、彼女を吹き飛ばすには至らなかった。

『サダハル殿、これ以上強めると、他人に迷惑が掛かりますよ』

『わかってんじゃい! 厄病神舐めんなよ!』

 サダハルが言った…、次の瞬間。

 ガンッ! ガンッ! ガンッ! と、何やら重いものが地面を転がる音がした。

「え…」

 嫌な予感を覚えた佐伯さんが目を向ける。その先から、交差点の角に置いてあったはずの「ただいま工事中」の看板が、風に煽られながら、こちらへと迫ってきていた。

「あ…」

 佐伯さんが、その場から飛び退く。その拍子に風に煽られ、地面を転がった。

 飛んできた看板は私のすぐ上を掠め、ツツジの木をなぎ倒しながら見えなくなった。

『どんなもんじゃい! これが厄病神の、不幸を呼び込む力よ!』

「私が死ぬところでしたけどね!」

 風が止む。自由の身になった私は手をついて立ち上がると、腰を抜かして動けないでいる佐伯さんに飛びついた。

「おとなしくしてください!」

「くそ! 放せ! このっ!」

 佐伯さんが抵抗する。

 力が強かったのは…。

「このくそ猫!」

 佐伯さんの方だった。

 佐伯さんに突き飛ばされた私は、しりもちをつく。またもや、先程と同じ展開になるのかと思いきや、佐伯さんは髪を振り乱し、カッターナイフを振り上げた。

 街灯に照らされた刃が、ギラリと光る。

 鈍い弧を描きながら、私の右目に突き刺さる瞬間、私は横に転がり、それを躱した。

 地面にぶつかるナイフ。パキンッ! と折れる。その破片が飛んできて、私の頬を掠めた。

 血が散る。それでもひるまず、私は佐伯さんの胴にタックルした。

 二人もつれあってアスファルトの上を転がる。今度は私が上になり、佐伯さんに訴えた。

「おとなしくしてください!」

「嫌よ! 私はあの泥棒猫に復讐するんだから!」

「だったら! 面と向かって言えばいいじゃないですか!」

 金切り声に近い声で言った。その言葉に、一瞬、佐伯さんの力が緩んだ。

「そ、そ、そんなこと…」

「なんで言わないんですか! あなた、誠也先輩の彼女さんなんでしょう? 誠也先輩と愛を深め合った仲なんでしょう? だったら、言えばいいじゃないですか!」

「そ、そ、そ、そ…、そんなこと」

 壊れたレコードのように同じことを繰り返し始める佐伯さん。

 なんだか押し切れそうな気がしたので、私はさらに続けた。

「こんな、人のポストにナイフを入れたり、ゴキブリ入れたり、塩酸入れたりするなんて、そんな卑怯なこと、誠也先輩が喜ぶと思いますか? 誠也先輩は、まっすぐな人が好きなんです!」

「誠也くんに頭撫でられたくらいで偉そうに! じゃあ、あんたがやって見なさいよ!」

「うっ!」

 後ろめたいことがあるおかげで、その返しに言葉が詰まる。

 今度は佐伯さんが反撃する番だった。

「ほら! やって見なさいよ! 自分ができないくせに! 部外者のくせに! ほら!」

 隣ではサダハルが白々しい顔をしていて、『自分のことを言われているのに、他人の話にすり替えるのは、自分の負けを認めているってことだからな』と言っていた。

 確かにそうなのだが、それでも、佐伯さんの言っていることは事実。

「う、うう…」

 誠也先輩に対して何もできず、城山さんに奪われ、そして、厄病神と契約して姑息な手段に出た…という過去の自分が、容赦なく私の首を絞めた。

 佐伯さんはにやりと笑い、さらに続ける。

「ほら! この根暗! 言いなさいよ! 自分ができないくせに! 人に強要するな! 私の邪魔を…するな!」

「う、う、うるさい!」

 喉に何かが詰まる感覚を覚えながら、私は叫んだ。

 佐伯さんの腕を掴むと、アスファルトに押し付け、キスでもするんじゃないか? ってくらいの距離まで顔を近づけた。

「やってやろうじゃないの! 言ってやりますよ!」

「あ? なによ!」

 顔をのけ反らせ、天を仰ぐ。そして、空の暗雲を貫く勢いで、叫んだ。

「誠也せんぱあああああいいっ! 好きじゃああああああっ!」

 誠也せんぱあああああいいっ! 好きじゃああああああっ! 

 喉を解放し、放たれたガラガラ声は、一日を終えて寝静まる住宅街を揺らし、反響した。

 時の流れを告げるかのような静寂。

 胸に宿る鉄の味を飲み込んで、私は再び、佐伯さんを睨む。

「さあ、言ってやりましたよ! こそこそしてるあなたと違って、言ってやりましたよ。簡単じゃないですか! どうしてこれができないんですか!」

「うるさい!」

 これで話が通じれば、どれほどよかっただろうか?

 佐伯さんは金切り声をあげると、私の手を振り払った。

 胸を突き飛ばされ、よろめく。なんとか踏みとどまろうと腹に力を込めたが、そのお腹…おへその下あたりに、佐伯さんが放った拳がめり込む。

 内臓に響く衝撃。私は悲鳴をあげて転がった。

『栞奈!』

『栞奈さま!』

 傍観していたサダハルと風花さまが私を護るようにして寄ってきたが、お腹を押さえた私は、小さな声で泣くばかりで、言葉を返すことができなかった。

 お腹の中に爆弾を仕込まれたような感覚。鈍い痛みが続き、少しでも動けば爆発してしまいそうな気がした。

 その間に、佐伯さんが立ちあがり、私を見下ろした。

 サダハルが舌打ちをする。

『おい、もうこいつ、話し合いの通じる相手じゃねえぞ?』

『そうですね。サダハル殿、もう一度風を吹かせて…』

「ま、待ってください…」

 私は喉の奥から食べたものを吐きながら言った。

「まだ…」

『もうダメだ。オレはお前を護らなきゃいかん』

『栞奈さま。私たち神さまに任せてください』

 そうして、これ以上見ていられなくなった神々が、佐伯さんに粛清をしようとした時だった。

「何やっているんだ!」

 暗闇を照らすような、誠也先輩の声が辺りに響き渡った。

 私を蹴ろうとしていた、佐伯さんの身体が固まる。私も喉に込み上げた苦いものを飲み込み、声がした方を見た。

 マンションの照明を背に、寝間着姿の先輩がこちらを見ていた。

「あ…」

 佐伯さんが明らかに狼狽える。

 誠也先輩だけじゃない。見上げると、マンションの明かりが次々に灯り、窓が開き、ベランダに出た住人達が「何事?」とこちらを見下ろしていた。

 再び先輩に視線を向ける。

「誠也くん、違うの…。これは違うの」

 佐伯さんが、先輩が歩み寄って来るよりも先に弁明した。だが、先輩には通じず。彼は目を吊り上げて寄って来ると、佐伯さんの腕を掴んだ。その感触に、少しだけ嬉しそうな顔をする佐伯さん。その喜びをかき消して、先輩の怒りのこもった声が言う。

「おい、佐伯…。これはなんだよ」

 二人の足元には、頬と腕から血を流し、お腹を押さえて泣いている私がいた。

「お前…、栞奈に、なにやったんだ」

「これは…、その。その…」佐伯さんは少し言い淀んだ後、開き直ったように笑った。「この子が悪いのよ。誠也くんに近寄るから…」

「今まで、あずさに悪いことしてきたのも、お前か?」

「そ、そうよ。だって、あの子が、私の誠也くんを奪うから…」

 その言葉に、誠也先輩は深いため息をついた。

「オレは、お前のものになった覚えなんて無い…」

 佐伯さんが引き吊った声をあげた。

「そんな…、セックスだって、したじゃない」

「そんなことをした覚えは無い」

 そう食い気味に言われた途端、佐伯さんは糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 焦点の合わない瞳で足元を見つめた後、はっとした顔を上げる。みるみる彼女の頬が赤くなっていき、そして、爆発したように叫んだ。

「嘘よ! 嘘嘘! 絶対に、嘘! 一緒にやったじゃない!」

「やってない」

 佐伯さんの腕を捻り上げる誠也先輩。

 佐伯さんは呻いて、俯いた。

 遠くから、誰が呼んだのか、パトカーのサイレンが聴こえた。

 マンションの駐車場にパトカーが滑り込んで、佐伯さんを連行していくまで、誠也先輩はずっと彼女の腕を掴んでいた。対して佐伯さんは、痛みに悶えながら、悔しさのこもった罵詈雑言を、私と城山さん、そして、誠也先輩に向けて吐き散らしていたのだった。

 そして私は、気を失った。

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