サダハルに促され、私はツツジの陰から飛び出すと、足音を消して近づいていき、ポストに、何やら膨れた手紙を入れようとした女の前に立ち塞がった。

「…こんばんは」

 女が固まる。

 私は心臓の鼓動を感じながら、女に聞いた。

「…なに、やっているんですか?」

「郵便物を確認しているだけですよ…」女はこちらを振り向かず言った。「…こんなものが、届いていたので…」

 五〇二号室のポストから、入れかけていた手紙を抜き出した。

 私は唾を飲み込み、まくしたてた。

「じゃあ、あなたは、五〇二号室の人間なのですか?」

「…………」

「私の知る限りでは、五〇二号室には、友達の城山さんが住んでいて…」

 次の瞬間、女が持っていた手紙を私に投げつけた。

 回転し、空を裂きながら飛んできた手紙が私の胸に当たる。

 意識が手紙に逸れた瞬間、女が突風のように迫ってきて、私の胸を突き飛ばした。

「きゃあっ!」

 悲鳴をあげてよろめく。その隙に、女は私の横を通り過ぎて逃げようとした…。

『させるかよ!』

 見ていたサダハルが、何とも心強い声をあげた。

 次の瞬間、いつの間にか空を覆っていた暗雲が黄金に輝いた。

 ゴオオンッ! と、爆発するような轟音を響かせ、暗雲から雷が放たれる。そして、傍にあった木に命中。マグマのような赤い光が四散し、衝撃波が心臓を揺らした。

 竹のように焼き割れた木が、ゆっくりと倒れる。

「きゃあああっ!」

 女はその場に尻もちをついた。

 その隙に、私は立ち上がると、落ちていた手紙を覗き込んだ。

 手紙の中にはキャップが緩められた小瓶が入っていた。中には液体。何の液体なのかはわからないが、なんとなく、危ないものだと思った。

 手紙を片手に、腰が抜けて動けないでいる女に近づく。

「逃げないでください!」

「く、来るな!」

 女はそう威嚇したが、構わず近づく。

「どうして逃げるんですか?」

「来るな! 来るな来るな!」

「この封筒に入っていた瓶は、なんですか?」

「このっ!」

 女が落ちていた小石を拾い上げ、投げつけてきたが、私には当たらずに逸れていった。

「答えてください。これは、何ですか?」

 逃げられないと判断したのか、女は歯を食いしばり、項垂れた。

 帽子を脱ぐと、髪をくしゃくしゃと掻く。そして、諦めたように言った。

「塩酸よ」

「…………」

 これで、悪事の証拠は押さえられた…。

「私を殴ったのも、あなたですよね?」

「そうよ…。悪い?」

 あっさりと認め、開き直ったように言った女は、顔を上げ、私をじっと見つめてきた。

 その顔に、私は見覚えがあった。

「あ…、あなたって、確か…」

 猫のような目に、通った鼻筋。唇は薄く、頬骨が少し出ているが、逆三角形のバランスのいい輪郭をした顔。

「ええと…」

「佐伯よ。佐伯若菜」

 名前を思い出せずにいると、女はそう言った。

「あんたと同じ、テニスサークルに所属していた、佐伯若菜…」

「あ、そうだ…」

 ぽんっと手を叩く。

 急に名前が出てこないのも無理はない。彼女がテニスサークルに所属していたのは、半年以上前のことだ。しかも、学年が違っていたし、幽霊部員だったということもあり、私とは何の接点も無い人だった。

 なるほど、この人もテニスサークルの関係者だから、城山さんのロッカーの位置や、彼女のシューズを把握する可能なのか…。

 どうして、今更…。と思いつつ、言った。

「あの…、やっぱり、こういうことは良くないので…」

「そんなことわかってるのよ」吐き捨てる佐伯さん。「でも…、悔しかったのよ」

「く、悔しかった?」

 声を震わせる佐伯さんに、思わず耳を傾けようとした…その時だった。

 突然、佐伯さんが持っていた鞄を私に投げつけた。

 私の視界が奪われた隙に立ち上がる佐伯さん。今度は逃げない。何処からともなくカッターナイフを取り出すと、素早く、私に切り込んだ。

 咄嗟に腕でガードしたが、よく研がれたナイフの刃は、布を裂き、その奥にあった肉を抉り、血を吹きださせた。

「いったっ!」

『栞奈!』

『栞奈さま!』

 私の胸を突き飛ばす佐伯さん。流れるような動きで足を掃うと、私をコンクリートの上に押し付けた。

「動くな!」

 私の喉にナイフを突きつけ。佐伯さんが言う。

「動くな、動いたら、喉を裂く。今度は、金属バットで殴られるだけで済むと思うなよ」

「…お、お、お、落ち着いてください…。お願い、落ち着いて…」

「誠也先輩に好かれている女が、私に口答えするな!」

「す、好かれてる…?」

 聞き捨てならない言葉に、私は声を裏返した。

 興奮した佐伯さんは、唾を吐き散らしながら言った。

「見たんだからな! あんたが、誠也くんと一緒にファミレスでご飯を食べているところを!」

「そりゃあ、先輩後輩なんだから、食事くらい…」

「誠也君は、私のものなんだ!」

 ぐっと、刃を首に押し付けられる。少しだけ皮膚が裂けて、血が滲むのがわかった。

「わ、私のものって…、その、どういうことです?」

「私は誠也君と付き合っているんだよ!」

「へ?」

 その意味不明な言葉に、傍で見ていたサダハルが肩を竦めた。

『おい、この女、完全に狂ってやがるぞ』

『まあ、カッターナイフを持ち歩いて、人を切り付けるくらいですからね…』

 サダハルはため息をつくと、指を鳴らした。

 たちまち、空の暗雲がゴロゴロ…とぐずり始める。

『とりあえず、落雷で気絶させるか』

『いや、ちょっと待ってくださいよ。下に栞奈さまがいるのですよ?』

『栞奈のことだから、まあ、大丈夫だろ。それに、威力は落とすし…』

「ちょっと! 待ってくだいよ!」佐伯さんとサダハル、両方に言う。「付き合っているって…、誠也先輩は城山さんと付き合っているじゃないですか…」

「はあ? 私が先に付き合ったの!」

「ということは、別れたんですか?」

「別れてないわ! ずっと付き合っているのよ!」

「じゃ、じゃあ、誠也先輩が浮気しているとか?」

「違うわ! あの泥棒猫が誠也君を奪ったのよ!」

「ということは、誠也先輩の心が、城山さんに移ったんじゃ…」

「そんなことないわ! あの女が、ずっと誠也君を束縛しているのよ!」

 噛みあわない会話に、いよいよサダハルが、天を仰いで大笑いした。

『見ろよ! 祓神! こいつの頭、マジでぶっ壊れてるぜ! いやあ、男の一人や二人で法に触れるなんて滑稽滑稽!』

『サダハル殿、少し黙りましょうか? あ、一応、落雷の準備はしておいて』

「待ってくださいって!」

 佐伯さんと風花さま、両方に言った。

「あ、あなた、本当に、誠也先輩に告白されたんですか?」

「セックスをしたのよ!」

「え…」

 突如佐伯さんの口から放たれる衝撃の事実。いや、この様子を見る限り、その真偽は怪しかったが、それでも、私の後頭部を殴打するような衝撃が走った。

 私の目がぐるぐると回る。

「ろ、ろく?」

「ええ! セックスしたわ!」

「そ、そ、それって…、せ、先輩の…」

「ええ! 貫かれたわ!」

「ぐはあっ!」

 心臓を槍で貫かれたような痛みに、私は白目を剥いて、悲鳴をあげた。

 慌ててサダハルが叫んだ。

『おい栞奈。こんな狂ったやつの言うことなんざ、嘘に決まってるだろうが! しっかりしろ!』

「そうだったそうだった!」

 我に返った私は、目を見開き、首を擡げる。

「そ、それで、気持ちよかったですか?」

「気持ちよかったわ!」

「ぐはあっ!」

 再び白目を剥いて倒れる私。

 傍で見ていた風花さまが、呆れたようにため息をついた。

『なんか、心配して損した気がします…』

『栞奈っ! ふざけてる場合かっ!』

 隣で繰り広げられている、神々の会話なんてつゆ知らず。どんどん興奮してきた佐伯さんは、肩で息をしながら私を睨んだ。首には、カッターナイフの刃を押し当てたまま。

「それに、ホテルに誘ってくれる前に、好きだって言われたわ…。その後に、抱いてくれたの! これが告白じゃなくて、何なの? それなのに…、城山が…。城山が…」

「二人は…」

「あんたもそうよ! 黒宮さん! あんたも、誠也くんに頭を撫でられていた! 誠也くんの手は私のものなの!」

「セックスしたあんたの方が良い思いしてるじゃないですか!」

『だから嘘だって言ってんだろうが! 栞奈っ!』

「誠也くんと食事をしていいのは、私だけなの!」

「セックスしたあなたは、もっといいものしゃぶったでしょうが!」

『何言ってんだ栞奈あッ!』

 知能の低い会話に、サダハルが突っ込む…。という混沌の光景を目の当たりにして、風花さまが深いため息をついた。

『あの…、私、社に帰っていいですか?』

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