翌日、再三の精密検査の末、退院許可が出た私は、一度アパートに戻った。

 決戦に供え、炊飯器で四合のご飯を炊くと、私、サダハル、風花さまで分け合って食べた。

 それから、額の包帯に注意しながらシャワーを浴び、出ると、何やらサダハルと風花さまが喧嘩をしていた。

「何やっているんですか?」

『この祓神が、動きやすい恰好が良いっつって、こんなダサい服を選んでやんの』

 見ると、風花さまの足元に、私の高校の時のジャージが畳まれて置いてあった。

 風花さまもムキになって言う。

『こちらの厄病神が、抱かれた時のために! 何て言って、こんな露出の多い服を栞奈さまに着せようとしているんです!』

 見ると、サダハルの足元に、私がひそかに買っていたちょっとエッチな下着と、胸元の開いたドレスが畳まれて置いてあった。

「サダハル様…、また私のクローゼットを勝手に開けたんですか?」

『そりゃそうだ! オレはてめえを誠也と結ばせなきゃいけないからな!』

「もう…、どっちも良いんで、早く服を返してください。私をいつまで裸のままでいさせるつもりですか…」

『栞奈さま! これを着なさい!』

『栞奈! これを着ろ!』

 ジャージ、下着、ドレスが同時に飛んできて、私の顔面に激突。

 私は「ふぎゃっ」と唸り、後ろに倒れ込んだのだった。

 結局、いつもの黒いワンピースに着替えた私は、護身用として傘を持ち、アパートを出た。

『これから向かうのは、城山さまのマンションですね』

「そうですね。多分、私より城山さんが狙われると思うので…」

 頷くと、足を早める。

 サダハルは私の頭上を浮遊して、背後から怪しいものがついてきていないか確認していた。

 そうして、神さまのボディーガードを受けながら、私は城山さんのマンションに到着した。

 時刻は午後八時。帰宅ラッシュを過ぎて通りの人気は無く、代わりに、民家から暖かな光が洩れだし、楽しそうな団らんの声が聴こえた。

 秋が近づいているのか、昼間の暑さは消え去り、少し肌寒い。

 サダハルが、「ちょっと様子を見てくるわ」と言って浮かび上がると、マンションの五階…五〇二号室に飛び込んでいった。すぐに出てくると、降りてくる。

『ちゃんといるぜ。二人とも』

「わかりました」

 私は心臓が逸るのを覚えながら拳を握りしめた。

「これは、護りがいがありますね」

『とりあえず、集合ポストが見える、植え込みに隠れましょうか』

 風花さまに言われて、私はツツジの木の裏に隠れた。

「サダハル様、どうですか?」

『大丈夫だ。向かいからじゃあ、お前の姿は見えんよ』

 定位置が決まった私たちは、その時が来るまで、待つことにした。

 だが、やはり…と言うべきか、一時間経っても、二時間経っても、それっぽい人がやってくることは無かった。来る者と言えば、仕事帰りのサラリーマン、酔っぱらった若い男、彼氏らしき男を連れ込む若い女に、くたびれたおばさん…。

「来ないですねえ」

『こんなもんだろ』サダハルはなんてことないように頷いた。『大体、まだ十時だぜ? 人間様はみんな起きてる。これからだよ。これから』

「…そうですかね?」

『栞奈さま、もう少し根気強く待ってみましょう』

「そうですね」

 私は持ってきたおにぎりを齧ると、また、ツツジの陰から集合ポストの方を見つめた。

 それから一時間、二時間経ったが、やはり、怪しい者が来ることは無かった。さらに一時間経つ頃には、もう誰もマンションを出入りする者はいなくなった。

 昨日今日の疲れが出てきた私は、少し、うとうとし始める。

 それに気づいたサダハルが、目を覚まさせる目的で聞いた。

『そう言えば、栞奈、お前…。入院したよな?』

「え…」

『お前の母ちゃんと父ちゃんは、なんで見舞いに来なかったんだ?』

「あ、ああ…」

 私は声を押さえ、顔を顰めた。

 私の表情から事情を察した風花さまが、サダハルを咎める。

『サダハル殿。そういうのは、あまり人に聞いてはいけませんよ』

「いや、風花さま、ありがとうございます」

 今日は来そうにないと思ったので、私は声を押さえながら言った。

「私…、親とあんまり仲が良くないんですよ…」

 その言葉に、サダハルと風花さまが口を噤んだ。

 私は、ははっと笑うと続ける。

「お父さんが、若い頃に好き勝手やりましてね…。高い予備校に通いながら二浪して…、私立大学に進学したんです。だけど、その大学も、そこまで偏差値の高いところじゃなくて…、就職したのは良いものの、給料の低い中小企業。予備校と私立の借金だけが残りました。それなのに、結婚して、派手な結婚式を挙げて、頭金なしに家を買って…、それで…、お母さんを育児ノイローゼにして自殺させました…」

 私の過去の話に、風花さまが顔を顰める。

『栞奈さま、辛いなら言わなくても…』

『それでそれで?』

 サダハルに促されて、私は続けた。

「お母さんを失ってから、お父さん荒れちゃって…。家のローンも残っているのに、酒浸り。一応仕事はしていたんですけど、成績不振とパワハラが原因でやめさせられました。しばらくは、おばあちゃんに助けてもらっていたんですけど、おばあちゃんに嫌われちゃいまして…」

『嫌われた?』

「ええ。出来損ないの息子の娘だからだそうです…。食事を抜きにされたり、ロープで縛られて、納屋に括りつけられましたねえ。いやあ、あの時は本当に辛かった」

 ははっと笑う。

「そのうち、ひねくれちゃいまして…」

 中学、高校時代の嫌な思い出が脳裏を過った。

「周りの人間が、みんな憎く見えるんですよね。親がいる子、お金をたくさん持っている子、頭が良い子、運動ができる子、顔が良い子に、スタイルが良い子…。つまり、恵まれている子…。みんな、憎くて、憎くて、仕方がなかったんです…。だから、友達は全くいませんでした。文化祭とか、体育祭とかのイベント、全部冷めた目で見ていましたよ。もちろん、部活にも入っていませんでした。とにかく、嫌いだったんです」

『今のてめえとは大違いだな』

「そうですね。だけど、そんな私を変えてくれたのが、誠也先輩なんです…。先輩は体育祭の最中、熱中症になった私を助けてくれて…、優しく笑いかけてくれて、そして、頭を撫でてくれました…」ふふっと笑う。「それで、気づいたんです。私が恵まれている人を嫌っているのは…それを羨ましく思っているからだって。それを、欲しいと思っているんです。だけど…、私は恵まれていない人間だから…、自分で取りに行くしかない。お金がないなら、頑張ってバイトをすればいい。物覚えが悪くても、人の倍勉強すればいい。顔が平凡でも、化粧で何とかなる。スタイルだって、毎日ランニングして、筋トレをすれば、それなりに絞れるんです」

『なるほど…』

 黙って聞いていた風花さまが、ふふっと笑った。

『そうやって努力したから、今の栞奈さまがいるのですね』

「そうですね。おかげで、先輩と同じ大学に通えましたし、高校ではちょっとだけモテました。まあでも、これが限界ですね。お金がある人は、それ以上に自分の魅力を磨けますから…」

 肩を竦める。

「実際、先輩を射止めたのは、お金があって、顔も良くて、頭のいい、城山さんだったから…」

 自嘲気味に笑った時、風花さまが、半透明の手で私の頬を撫でた。

 慈愛に満ちた声で言う。

『大丈夫ですよ。栞奈さま。あなたのその誠実な心は、いつか、誠也さまに伝わります。伝わらなくとも、きっと、貴方のことを理解してくれる人は現れますから』

「…だと、良いんですけどね」

 そう呟いた、その時だった。

『静かに!』

 サダハルが叫んだので、私は口を噤む。

 恐る恐る、ツツジの陰から見ると、道路を渡り、黒い人影がマンションの方へと歩いてくるのが見えた。

 気が緩んでいた私は、どうせ帰宅中の人だろうと思い、身構えることはしなかった。

 黒い影がマンションの敷地に立ち入る。街灯に照らされて、その者の姿が浮かんだ。

 身長は一六〇センチほど。顔は帽子を目深にかぶっているためわからないが、背中を流れる黒髪と、黒いジャージ越しにわかる華奢な体型から、女だと思った。

 女はふらふらとした足取りで、集合ポストへと歩いていく。

 この時はまだ、「どうせ、郵便物を確認しようとするマンションの住人だろう」と思った。

 ジャージ姿の女が、五〇二号室のポストに手を伸ばす。その瞬間、確信した。

『行くぞ』

「…はい」

『栞奈さま、お気をつけて』

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