その後、練習が終わって、汗が滲んだテニスウェアから着替えていると、脇に置いていたスマホにメッセージが入った。見ると、誠也先輩からで、「忙しいのに悪いな」という文言とともに、城山さんの住むマンションの住所が添えられていた。

 サダハルと目配せをすると、私は城山さんの荷物を持って、部室を出たのだった。

 大学を出て、二キロ程進んだ場所に、城山さんのマンションはあった。

 私の暮らすオンボロアパートとは大違い。外観は清潔感溢れる白色で、目立った汚れはない。十階建てで、上階からの景色も素晴らしそうだ。その向かいには住人専用の公園があり、そこでは子供たちが楽しそうに遊んでいた。マンションを取り囲む住宅も新築が多く、平穏な空気が漂う良い住宅街だと思った。

「ええと、城山さんの部屋の番号は…」

 そう言いながら、誠也先輩からのメッセージを確認したが、書いていない。

「誠也先輩、書き忘れてるよお…」

 仕方なく、『何号室ですか?』と打とうとすると、集合ポストを眺めていたサダハルが言った。

『五〇二号室だな』

「え…、どうしてわかるんですか?」

『このポストから、画びょうと同じ残穢が溢れ出てる』

「え…」

 サダハルに促され、私はポストに駆け寄った。周りを見渡し、人がいないことを確認してから、開ける。

 ぱさっ…と乾いた音を立てて、若干膨れた封筒が足元に落ちた。

「こ、これは…」

 嫌な予感を覚えつつ封筒を拾い上げ、裏を確認する。だが、住所や宛先人らしきものは書かれていなかった。当然、消印も。

『直接投げ込まれたんだろうなあ』

「ということは…」

 義務感に背中を押されつつ、私は封がされていない封筒の中身を覗き込んだ。

 次の瞬間、発狂して封筒を放り出す。後退ってよろめいたところを、サダハルが支えた。

『おい、何が入っていたんだ?』

「ごき、ごきごき、ごき…」

『なるほど、油虫か…』

 地面に落ちた封筒からは、ゴキブリの死骸がはみ出ていたのだった。

 何か嫌なものが入っていると心構えた上で覗いたものの、ゴキブリはやはりきつい。

 全身に鳥肌を立てて震えていると、階段の方から声がした。

「おっ! 栞奈! 来てくれたのか、ありがとうな」

 誠也先輩の声。

 途端に、現実に引き戻され、私は先輩の方を振り返った。

 こほん…と咳ばらいをして、甘えた声を出す準備をすると、肩に掛けていた城山さんのショルダーバッグをかかげる。

「先輩! 持ってきましたよ。城山さんの荷物!」

「おう! ありがとう!」

 ゴキブリに気づかず、先輩は私の方に駆けよると、ショルダーバッグを受け取った。

「助かったよ。オレ、あずさの傍から離れられなかったからさ。本当に、ありがとう」

 そう言って、犬をあやすように私の頭を撫でる。

 私はまんざらでもなく、ちょっとだけ彼の手に額を押し付けたのだった。

 そうして一瞬の幸せの時間を味わった後、私は恥ずかしくなって半歩下がった。

「じゃあ、私はこれで」

「いや、待てよ。ちょっとお礼をさせてくれ。練習終わってすぐに来たから、腹が減っているだろう?」

 ショルダーバッグを抱え直した先輩が言う。

「奢らせてくれ」

「でも、先輩は城山さんと一緒に…」

「あずさなら、今は安心して眠っているんだ。お前をただ働きさせる気は無いよ」

「そ、そう言うのなら…」

 胸がキュンッとする。流石先輩だ。常に人のことを思っている。

「とは言うが、あずさが目を覚ますかもしれないから、近くのファミレスでいいか?」

「どこでもいいです! 先輩と一緒なら、何処でも五つ星ですから!」

「あははは! 言うねえ」

 先輩はからからと笑うと、鞄を持って、一度城山さんの部屋へと戻っていった。

 待っている開に、サダハルが言った。

『なんでえ、お前、結構誠也に好かれてんのな』

「まあ、高校からの先輩ですからね」

 大学に入ってからは、周りの女子に邪魔されて、なかなか話す機会が得られなかったが、それでも、入学を伝えた時は、抱きしめられて喜ばれたものだ。

 よくやった。流石、オレの後輩だ! って。

 あの時の先輩の抱擁を思い出すと…。

「…むふっ」

『なんでえ、気持ちの悪い』

「恋する乙女の微笑みと言ってください」

『千年の恋も一瞬で冷めるだろうな…』

 と、くだらない話をしていると、誠也先輩が戻ってきた。

「すまんな、ちょっと着替えた」

 さっきまでジャージ姿だった先輩は、ジーパンに、胸元が開いたTシャツ。その上にジャケット…と、余所行きの格好に着替えていた。靴はナイキの厚底で、腰のあたりでチェーンが音を立てつつ、銀色に輝いている。

「お前とのデートなんだから、着替えないとな」

「いえいえ、そんな…、気にしなくていいですよ!」

 ここは、「なぜ城山さんの部屋に誠也先輩の着替えが置いてあったのか?」なんて野暮な質問は無視をしよう。

 とにかく、先輩のその恰好を見て、心臓を高鳴らせる私とは対照的に、サダハルは「おえええええ」とわざとらしい嗚咽を洩らした。

『ジーパンなんて履きやがって。ありゃ、もとは作業着だぜ? どこぞの山に金塊でも堀りに行くのかよ。靴もナイキ。しかも厚底。しかもスポーツ用。ヤダねぇ…。マラソンの流行りに乗って、走らないくせに靴を買うやつは』

 この人って、意外に世俗にまみれているな…。

 私の表情から考えていることを読んだのか、サダハルは続けていった。

『まあ? 六〇〇年も暇な時間を過ごしてるからな。世を知るのには抜かりが無いのさ』

 そんなにひねくれた考えを吐露するくらいなら、もう少し寛容に知見を広めてほしかった思いもある。

「それじゃあ、行くか」

 先輩に促されて、私は歩き始める。が、サダハルが付いてこなかった。

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