第七章『それは善意ですか?』
①
大学に到着した私は、階段を速足で駆け上り、扉を開けた。
「おはようございます」
と、いつもの挨拶をしたのだが、誰も「おはよー」と返してくる者はいなかった。
一瞬、最近独り言が多いから、狂人と認定されてハブられているのか? と心配になったが、そんなことはなく、部員たちは部屋の隅に固まり、何やら物々しい雰囲気で話し合っていた。
「あの…、どうかしたのですか?」
女子の輪の中を覗き込む。そこには、肩を震わせて泣いている城山さんがいた。
「え…、本当に何があったの?」
思わずつぶやくと、輪の端にいた明美が振り返り、私の唇に人差し指を押し当てた。それから、私の額をぱしっと叩くと、首根っこを掴み、外に連れ出した。
炎天下の中に出た瞬間、私は慌てて謝った。
「ご、ごめんって。来たらすごく物々しかったから、つい…」気を取り直して、聞く。「それで、何があったの?」
「城山さんのテニスシューズの中に、画びょうが入ってた」
「が、画びょう?」物騒な言葉に、声が裏返った。「それで、城山さん、怪我をしたの?」
「うん、一本が足に刺さってね。大した怪我じゃないんだけど…」
明美が言い淀む。腕を組み、上目遣いに私を見た。
「一応聞くけど、やってないよね?」
「やってないよ!」
「だったらいいんだけど…。まあ、これが初めてじゃないらしくてね」
「初めてじゃ、ない?」
「うん、私たちには言ってなかったけど、城山さん、ずっと前から、靴に画びょうを仕込まれたり、鞄の中に悪口を書いた紙を入れられたり、あと、気持ちの悪い人形を送りつけられたりしていたんだってさ」
「へ、へえ…」
私は心臓が妙に逸るのを覚えながら、隣を漂うサダハルを見た。
私の言いたいことを理解して、サダハルが「よっしゃ」と頷く。そのまま、扉をすり抜けて部室に入っていった。
「ほら、この前、誠也先輩と別れる別れないって騒動があったでしょう? あの頃、いろいろ精神的に来てたらしくて…。それでも我慢していたみたいなんだけど、今日に爆発しちゃったって感じかな?」
「そうなんだ…」
靴の中に画びょうを仕込んだり、悪口を書いた紙を入れたり、気持ちの悪い人形を送りつけたり…か。明らかに人間の仕業だな。
「多分、誠也先輩と付き合っている城山さんに嫉妬している人がいるってことだろうけど…」
明美が再び私を見た。
「本当に、やってないよね?」
「だからやってないって!」
私が強く訴えると、明美は何とも言えない表情で腕を組んだ。
「なんか、ごめんね。城山さんって、人気者だから、犯人捜しで少し雰囲気が険悪になってるの。まあ、もともと仲のいいサークルじゃないけど」
「犯人捜し…」
ああ、そうかって思う。
「部室を出入りできるのはテニス部員だけだから、女子テニス部の中に犯人がいるのか」
「そういうこと。ちなみに、一番疑われているのはあんた」
「だから、やってないってえ…」
とはいえ、サダハルと共謀して呪ったことはあるが…。
そうこう話していた時、ガンガンッ! と、部室棟の階段を踏みしめ、誰かが昇ってきた。
見ると、それは誠也先輩だった。
「あ、誠也先輩! おはようございます」
「おう、栞奈、おはよう。服替えたのか? 似合ってるよ」
「え、そうですか?」
唐突に褒められたため、頬が熱くなる。
くらくらとする私の脇腹を小突き、明美が誠也先輩に聞いた。
「誠也先輩、何の用です? ここは女子棟ですけど」
「ああ、明美。悪いけど、あずさを呼んでくれないか?」
「あ、はあ…」
明美が、「なんだ、もう伝わっていたのか…」って顔をする。
「でも、城山さん、足を怪我しているから…」
「なるほど、わかった」
静かに頷く誠也先輩。
次の瞬間、先輩は明美をやんわりと押しのけると、扉のドアノブを掴んだ。
そのまま開き、女子の汗と制汗剤と香水の匂いが充満した部室に入っていく。
いきなり入ってきた男に、部室は一瞬悲鳴があがりかけたが、それが誠也先輩だと気づいた瞬間、困惑の声に変わった。
着替え途中で、ブラジャーを丸出しにした女子もいたが、それに目もくれず、まっすぐ、城山さんがしゃがみ込んでいる方へと歩いて行く先輩。
「おい、あずさ、大丈夫か?」
「せ、先輩…、すみません」
「立てるか?」
「はい…、なんとか」
城山さんが頷くと、先輩は彼女の頬の涙を拭った。そして、その華奢な身体を抱え起こす。
呆然としている女子の中をすり抜け、部室の外に出てきた。
城山さんを抱え直した先輩は、優しいまなざしを私に向けた。
「おい、栞奈」
「は、はい! なんでしょう! なんなりとお申し付けください!」
「この後時間があるなら、あずさの荷物を、届けてくれないか?」
「わかりました! 先輩のためなら、私、例え火の中水の中!」
「あずさのマンションだな。また住所送るから、頼むよ」
「はい、わかりました!」
後輩が元気よく頷くのを見て、先輩は笑い、階段を降りて行った。
数秒遅れて、部室から女子たちが一斉に出てきた。皆、通路の柵から身を乗り出すと、部室棟の前を横切り駐輪場の方へと歩いていく先輩の背中を見つめる。
誰かが言った。
「かっこいい…」
それに便乗して、皆口々に、先程の先輩を褒めたたえた。
「恋人が傷つけられ途端、練習を辞めて駆け付けるなんて…」「しかも、女子部室に躊躇なく入ってきたよ」「自分の好きな女の身体以外興味ない…ってのが痺れるね」「やだあ、私ブラジャー見られちゃった」
隣にいた明美さえも、先輩の姿に頬を赤らめていた。
「いやあ、なんか、わかるわ。あんたが先輩に恋をする理由も」
「そ、そうでしょう?」
明美にも、誠也先輩の魅力が伝わってくれたようで、なんだか嬉しくなる。
そう。アレだよ。あれ。ああやって、辛い思いをしている人がいれば、周りの眼なんて気にしないで、一直前に駆けつけ、助けてくれる。そして、心を奪っていく。
私の時もそうだった。私が、熱中症で気を失いかけているとき、応援を辞めて、真っ先に私のところに来てくれた。そして、私の様子に気づかなかった人たちを、一括してくれた。
頭を、撫でてくれた…。
『おい、栞奈』
部室から、サダハルが出てきた。
『確かに残っていたぜ、残穢が』
そうですか。の意味を込めて頷く。まだ色めき立っている部員たちの間をすり抜け、階段を降りると、そのまま部室棟の裏に回り込んだ。
「それで、サダハル様、呪った人はわかるのですか?」
『残念ながら、わからん』サダハルは舌打ち交じりに肩を竦めた。『呪いの気配が薄すぎるんだよ。厳密に言えば、こりゃ呪いじゃなくて、恨みだ』
「…どういうことですか?」
『呪い殺してやる…って思って起こる負の気配が呪い。死んでしまえばいいのに…って思って起こる負の気配が恨み。簡単に言えば、信仰心の違いだな。前者はこれから起こることを信用しているが、後者はそうじゃない』
「………」
まだ意味が分からないような顔をしている私に、サダハルはさらに噛み砕いて教えてくれた。
『極論…、ただの嫌がらせだよ』
「嫌がらせ、ですか」
『だから、オレがどうこうできるものじゃねえ。寿司屋に金魚の餌を作れって言っているようなものさ…。あの祓神の言った通り、こいつは程度が低い』
「じゃあ、どうするんですか?」
『簡単な話じゃねえか。たかが金魚の餌だぜ?』
サダハルが肩を竦め、私の胸を小突いた。
『お前が、そいつを捕まえればいい話だ』
サダハルの三白眼が、厄病神らしくいやらしく光った。
『なんたって、お前は、誠也からの好感を買わなきゃいけないからな』
「…はい」
私は唾を飲み込み、頷いた。
『安心しな。オレがついてる。てめえの勇姿を、誠也にしっかり見せつけるんだな』
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