③
部屋を出て、テニスコートがある方へと歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「お! 黒宮じゃないか!」
その、ハスキーで、私の心に直接響くような声は、間違いなく誠也先輩のもの。
びくりと肩を震わせた私は、振り返ろうとして一度立ち止まる。ふにゃりと緩んだ顔を一度叩いて強張らせてから、改めて振り返った。
「先輩! おはようございます!」
「おう! おはよう!」
爽やかな笑みを浮かべた誠也先輩が、手を振りながら歩いてきた。
隣では、サダハルが『今の動き必要あった?』と聞いてくるが、当然無視をする。
「もう着替えたの? 早いな」
「いやぁ、毎日暑いですからね! この格好の方がマシなので!」
「いやいや、日焼けするぞ? 大丈夫か?」
「え!」
私の肌を心配してくれる発言に感激の声が洩れそうになったが、ぐっと飲み込み、Tシャツの裾をまくって、腕を回した。
「大丈夫ですよ。日焼け止めクリーム塗っていますし」
「そうかあ?」先輩は首を傾げて笑った。「あんまり無理をするなよ。また熱中症になって、オレの手を借りることになっても知らないぞ?」
「あははは…、そうしましょうかねえ」
はあ…、三年前のことを未だに覚えてくれているなんて…。好き。
せっかく引き締めていた頬が緩んでいることにも気づかず、先輩が私に構ってくれている…という幸せを噛み締めていた。
すると、先輩は思い出したように…と言うよりも、わざとらしく言った。
「ああ、それで、あずさはどうしてた?」
「へ?」
「あずさだよ」
「ああ、城山さんですか」
彼女のことを下の名前で呼ぶのは、誠也先輩くらいなものなので、一瞬わからなかった。
「城山さんなら、まだ着替えてましたよ」
「そうか」
「待ち合わせしているんですか? 呼んできましょうか?」
「あー、いや…」
先輩は一度断りかけたが、すぐに頷いた。
「そうだな。頼む」
「わかりました」
先輩に一礼した私は、照り返しの強いアスファルトの上を駆けだした。
サダハルが私に並走する。
『なんだよ、憎き女を、男に近づけるのか?』
「まあ、それが先輩の望みだからね」
階段を駆け上がり、部室の扉を開けようとドアノブに手を伸ばしたその瞬間、扉が開いた。
勢いよく迫った扉が、私の顔面に激突する。
「ふげえっ!」
私は悲鳴をあげ、その場に転がった。
「だ、大丈夫? 黒宮さん」
そう言って駆け寄ってきたのは、テニスウェアに着替えた城山さんだった。
「し、しっかりして」
「だ、大丈夫大丈夫」
デジャブのようなものを感じつつ、私は身体を起こす。
「それよりも、誠也先輩が呼んでましたよ…」
「あ、そうなの?」あからさまに嬉しそうな顔になった。「あちゃあ、ちょっとお話しすぎたなあ…。知らせてくれてありがとうね」
そう言って、自分の額をぺしっと叩いた彼女は、立ち上がり、階段を降りて行った。
私も立ち上がり、落下防止の柵から見下ろすと、誠也と城山さんが仲睦まじく話しているのがわかった。
誠也先輩が私に気づき、手を振る。
「呼んでくれたありがとな!」
「いえいえ、私にできることがあったら何でも言ってください」
私もにこやかに手を振り返す。
私に背を向けた二人は、手を繋ぎ、テニスコートの裏手へと消えていった。
『なるほどねえ。大体の関係は掴めたよ』
私の着替えを含め、すべてを見ていたサダハルが、私の横に立った。
『とりあえず、あの優男が、お前の想い人だな』
「…はい」
『そして、あの横にいた女が、優男の恋人と…』
「そうですね」
『いやあ、こりゃあ、難しい』
他人事のように言ったサダハルは、からからと笑い、手を叩いた。
『単に男を射止めるためなら、裸になって部屋に押しかけりゃいい話だが…、恋人がいるなら無理だな。不倫になっちまう』
「いや、不倫以前に、裸になって押しかけるのは人としてどうかと思いますが…」
『そういう積極性が無いから他所の女にとられるんだよ…』
「あ?」
私が身構えたのを鬱陶しそうに見ながら、サダハルは続けた。
『つまり、栞奈が誠也と結ばれるには、誠也があの…誰だっけ? あのあばずれ』
「…あばずれなんて人は知りませんが、誠也先輩と付き合っているのは、城山さんですね」
『ああ、城山ね。つまりそういうことだ』
「誠也先輩と付き合うためには、城山さんと誠也先輩が別れることが大前提ってことですね」
私の頬を冷汗が伝う。
いきなり、目の前にエベレストが立ち塞がったような感覚だった。
だが、サダハルは余裕を感じさせる笑みを浮かべていた。
『こりゃ、厄病神の腕が鳴るね』
「いやあ、これ、無理じゃないですか? 誠也先輩も、城山さんも聖人みたいな人なんですから…。別れるメリットが無いというか…」
『馬鹿言え、非の打ち所がない人間なんざいたら。今頃神になっとるわ』
「私の中じゃ、神さまなんですけどね」
『そういう次元の話をしているんじゃない』
ふわっと浮かび上がったサダハルは、部室棟の屋根の辺りから、テニスコートの向こうを見ていた。
『どんな人間にも、欠点はある。それが小さいか大きいかの違いさ』
「どんなアイドルでも、トイレに行く…みたいなものですか? 否定はしませんが、それが何の役に立つって言うんです?」
『大いに役に立つね』
そう言ったサダハルは、半透明の腕を天に掲げた。
着物の袖が重力によってまくられ、細い腕が現れる。
『アイドルが本当に便所に行かないのなら、便所に籠ってカメラを構える意味は無いが、便所に行くというのなら、見られる確率は低くとも、便所に籠る意味はある』
「なんか汚い話ですね」
『誠也や、城山にも欠点はあるわけだ。そこを突いてしまえば、別れる確率だって高くなる。無意味なことじゃねえんだよ』
「なんか性格悪いことしているような…」
サダハルが指をパチンッ! と鳴らす。
『なんたって、オレは厄病神だからな』
次の瞬間、サダハルの指先に閃光のようなものが弾け、それから、黒い雲のようなものが現れた。それを口元まで持って行くと、ふっと息を吹きかける。それだけで、雲のような物質はかき消えた。
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