その夜のことだった。軽くシャワーを浴び、顔パックをしつつ、日課となっている腹筋で身体を鍛えた私は、眠るために布団に潜り込んだ。

 居酒屋街を歩き回って疲弊していたこと、そして、酒を飲んでいたこともあって、目を閉じ、深呼吸をするだけで睡魔がやってきた。そのまま、夢の世界に落ちていく…。

『おい…』

 頭上から、若い男の声がした。

 上階に住む人が喋っているのだと思い、私は気にせず寝返りを打つ。

『おい…、おい』

 今日は疲れたなあ…。

『おい…、おーい…』

 家賃三万だからなあ…。横の壁も薄けりゃ、天井の壁も薄い…。

『おいこら! おい! 目え開けろ!』

 欠伸をした私は、いよいよ夢の世界に半歩踏み出す。

『おい! お前! 起きろ! 起きろ! 無視をするな! おい!』

 次の瞬間、私の胸に、何やら堅いものが落ちた。

「うるさい!」

 我慢の限界に達した私は、布団をはぐって身体を起こした。

 ゴロン…と、買い置きしてあったミネラルウォータ―のボトルが転がる。

 それを無視して、立ち上がると、玄関に向かって歩き始めた。

「人の安眠の邪魔をして! 一言文句言ってやる!」

 そうして、上の階の住人に苦情を入れようと、扉の手を掛けた時だった。

『待て待て! 濡れ衣だ! 上の階の奴は悪くない!』

 すぐ後ろから、さっきと同じ男の声が聴こえた。

「ああ?」

 私は声を裏返しつつ振り返る。

薄暗闇の中、黒い人影が立っていた。

「…………え」

 私はまばたきをすると、頬をパチン…と叩いた。それから、抓る。

 それだけじゃ何とも言えず、今度は瞼を摘まみ、引っ張り上げる。

 もう一度まばたきをしてみたが、やはり、目の前の黒い影は消えなかった。

「ええと…」

 頭を抱えると、俯く。もう一度顔を上げる。やっぱり、そこには黒い影が立っている。

「なるほど…」

 神妙に頷いた私は、影をすり抜けて部屋に戻ると、台所に立った。そこに置いてあった塩のケースを手に取ると、大匙一杯の塩を掴む。振り返ると、まだ黒い影はそこにいた。

 深呼吸を一つして、右脚を軸に、左脚を大きく上げる。腕を振り絞ると、往年の村田兆治を思わせるマサカリ投法で、握っていた塩を…。

「悪霊退散!」

 投げつける。礫の如く飛んでいった塩は、黒い影を貫き、そして、その奥にあった扉にピシピシッ! と命中。玄関に落ちた。けれど、黒い影は消えない。

「なんで?」

『落ち着けよ! オレは悪霊じゃない!』

 男の声で黒い影が言う。

「しゃ、喋った!」

『さっきから喋ってんだろうが!』

 黒い影は怒った口調で言うと、天井の吊り下げ式照明を指した。

『ほら、さっさと明かりをつけろ!』

「ああ、そうか、幽霊って光に弱いから…」

『だから、幽霊じゃねえって言ってんだろうが!』

 とりあえず、手を伸ばして照明の紐を引く。

 カチッ! と乾いた感触とともに、蛍光灯の明かりが灯された。白い光に目をくらませつつ、目の前にいた黒い影を見ると、それは影ではなくなっていた。

 少年だった。

 ぼさぼさの髪に、人を挑発するような三白眼。鼻筋は通っているがそこまで高くなく、唇は薄く、不機嫌さからか一文字に結ばれている。そして、令和の時代には似合わない、薄茶色の着物を身に纏っていた。

 身長は一五〇センチくらいで、見た目は十五歳ほどと、かなり若い印象を受けた。

 少年は私を見るなり、『どうだ』と言わんばかりに鼻を鳴らした。

 少年を見た私は、ため息をつく。

「ねえ、君、少年法に守られてるからって、犯罪はやっちゃダメだよ? お姉さんが一緒におうちまで連れて行ってあげるから…」

『不審者じゃねえよ!』

 少年のツッコミを右耳から左耳に流しつつ、私は壁にもたれかかった。

「まあ、冗談よ。あんたが不審者じゃないことくらい、なんとなくわかるから」

『わかってんならややこしいこと言うなよ…』

「それで? なに? 『女の子の部屋に侵入するエロ幽霊』なのか、『女の子の寝顔を覗こうとした変態幽霊』なのか…、どっちなの?」

『どっちも不審者幽霊じゃねえか!』

 少年はそう叫び、拳を握りしめたが、すぐに空気が抜ける風船のようにその腕を下げた。どうやらツッコみに疲れたらしい。そして、半ば強引に自己紹介に移った。

『オレは…、神さまだよ』

「神さま?」身に覚えがあることに、胸がざわつく。「神さまって…、もしかして」

『ああ。お前、さっき、オレの社にお供え物をして、願っただろ?』

「うん、願ったけど、まさか…」

『オレが、その社に住みついていた神さま』

 少年は自分の口元を指して、自信満々に言った。

 脳裏に浮かぶのは、あの薄暗い路地にひっそりと佇む社。

 私が「あ…」と口を覆ったのを見て、少年…じゃなく神さまはにやりと笑った。

『おう。あの社の神さまだ。敬え』

「いや…、神さまとあろうものが、女の子の部屋に侵入して、『敬え』って言っても、説得力が無さ過ぎて…」

『悪かったな』

 神さまはそう吐き捨てると、背後にあった扉に触れた。するとどうだろう。まるで水面に手を入れるかのように、彼の手が扉の向こうに沈んでいった。

 これにより、この少年が正真正銘、人外で、この世の者ではないことが判明した。

『なんなら、外で話すか?』

「いや、いいよ。どうせあんた、他人には見えないんでしょう? 一人でしゃべっているところを見られたら、私が狂人って思われるかもしれないし…」

『もう十分狂人だと思うけどな』手を引っ込めた神さまは、話の続きをした。『オレがお前のところに駆けつけたのは他でもない、お前の願いを聞き入れるためだよ』

「私の願い…ですか」

『なんで敬語使ってんだよ。気持ち悪いな…』

 いや、あんたが『敬え』って言ったんでしょうが!

「ええ、ええと、願いなら、お賽銭を置いた時に念じたはずなのですが…」

『神さまが万能な存在だと思うなよ。人の心を読むのは専門外だ…』

 なるほど…、だから直接押しかけてきたのか…。

 神さまが指を鳴らす。すると、何も無い場所から、くたびれた千円札が現れた。多分、私が賽銭箱に入れたお金だと思う。

『あと、あの場で声に出したところで、願いは叶えられない』

「それ、どういうことですか?」

『対価を提示してないってこと』

「いや、そこに浮いている千円が対価じゃないんですか?」

『馬鹿言え、こんなはした金で願いが叶えられるかよ。こいつは、神さまと契約する権利代にしかならん』

「神さまと、契約する権利代…?」

『この金を払ったやつだけが、オレに願いを叶えてもらう権利を貰えるんだ。もちろん、ただじゃない。別に、オレに代償を支払わなけりゃならん』

「ああ、弁護士の着手金みたいな…」

『まあ、そういうことでいいよ』

 あ、面倒くさいから逃げたな…。

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