31 お兄さん
兄の祖母の四十九日が終わったくらいでしょうか。また兄は体調を崩すようになりました。整理が終わって張りつめていた糸が切れたのでしょう。それに、兄の祖母は兄にとって大事な人でしたから。
食欲がない、と訴えるようになりました。唯一食べてくれたのはハンバーグでした。兄の祖母からレシピを教えてもらっていて助かったと思いました。
僕を鞭で打つ気力もなくなり、幼子のように僕に甘えました。僕がいなければ着替えさえ自分でせず、一日中ベッドで過ごしていました。
兄は不安を口にするようになりました。僕に捨てられ、一人ぼっちになることを何よりも恐れていました。
未遂を起こされてはたまりません。僕が薬を管理しました。精神科と薬局にもついて行きました。薬の待ち時間に、喫茶店でコーヒーを飲みながら、タバコを吸うのがお決まりになっていました。兄は呟きました。
「俺、一生薬の世話になることになるのな……」
僕は優しく言いました。
「じゃあ、僕が一生面倒みてあげる。だから大丈夫だよ、兄さん」
兄の病気は完治することはないと言われていました。寛解といって、症状を落ち着かせることはできると。それには家族の協力が不可欠でした。
僕なりに調べて、兄を励まし続けました。ワガママも沢山聞いてやりました。僕はもはや、兄の父であり、母でした。彼らが与えなかった分の愛情を、僕が注ごうと決めたのです。
ぽつりぽつりと、兄が昔のことをこぼす時もありました。数少ない父との思い出話がほとんどでした。兄は電車が好きだったようで、誕生日やクリスマスにはそれを買ってもらっていたそうです。
「今は、電車の名前なんてすっかり忘れたけどよ……線路作って、ぐるぐる走らせてたのは覚えてる。あの頃は、楽しかったなぁ……」
そんなことを言うので、僕は電車の玩具を買ってきました。寝室の床いっぱいに広げて、線路を組み立てました。
それが功を奏したのでしょうか。兄は身の回りのことを自分でするようになりました。
美容院にも一人で行きました。ただ、長めの髪型が気に入ったのか、ウルフカットにしていました。赤いインナーカラーも入っていました。
「思いきったね、兄さん」
「二十代の時は金髪だった。久しぶりにカラー入れたよ」
兄の誕生日がきました。兄が外出する気を起こしてくれたので、クルージングに行きました。甲板に出ると、冬の風が冷たく吹き付けてきましたが、それすら僕たちは楽しんでいました。
船の中で食事をして、僕はプレゼントにネックレスを渡しました。兄はすぐにそれを身に付けました。
「似合うか、瞬」
「うん、とっても似合ってる」
「なんだか瞬に首輪かけられたみたいだな」
そんなつもりはなかったのですが、兄がそう思うのなら、それでもいいという気がしました。
いつもと違う感じにしたかったので、僕は窓から海の見えるホテルを予約していました。夜景を眺め、キスをしました。
「俺、生まれてきて良かったよ」
兄がそんなことを言うので、僕は泣けてきました。絶対に死なないで、と胸に飛び込みました。
夜通し僕たちは愛し合いました。見つめ合い、指を組み合わせ、呼吸を感じて。
「兄さん、愛してる、兄さん」
「俺も愛してる、瞬」
罪深い僕たちにも、時間は平等に与えられました。長い夜でした。結局一睡もせずにモーニングを食べ、チェックアウトの時間を送らせて仮眠を取りました。
兄は社会との繋がりを取り戻すことに決めたようです。バイト先に戻ってきてくれました。皆が温かく迎えました。遺産の管理もありますし、以前よりはシフトを減らしていましたが。
安心した僕は、また絵理さんのバーへ通うようになりました。彼女の店は年齢層が高く、僕と同い年くらいのお客さんと会うことは滅多にありませんでした。
いくつか誘惑はありました。それに勝てずに、女性と寝たこともありました。三十代くらいのお姉さんでした。
「瞬くん、可愛いね。私のものになる?」
悦んでくれたのでしょう。そう言われました。
「実は僕、もう誰かのものなんですよ」
「じゃあ、私とは浮気? 悪い子だ」
僕はお姉さんの柔らかな胸に埋もれました。女性にしかない魅力でした。僕は本来、女性の方が好きなのでしょうね。兄に曲げられただけで。ただ、一度男性の肉体を知ってしまうと、戻れなくなったのです。彼女には悪いけれど、やはり兄の方がいいなと思いました。
そして、十二月になり、バイト先に新しく女の子が入ってきました。
「これからよろしく、奈々ちゃん。お兄さんのことは、そうだなぁ……瞬さん、って呼んでいいよ」
「はい、瞬さん」
ぞわり、と胸がうずきました。また、始まったのです。そして、そのことは、兄もお見通しでした。
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