22 約束

 最初に兆候が現れたのはバイト中のことです。兄は些細なミスを繰り返しました。オーダーを間違えたり、皿を割ったり。夜に兄の部屋に行くと、酒を飲んでそれを忘れようとしていました。


「瞬。笑うなよ。夢にあの女たちが出てくるんだ。青白い顔して、俺を睨んでくる」


 そう言い始めたのです。入浴も億劫になってしまったようで、僕が風呂場に引きずっていき、身体を洗いました。睡眠もあまり取れていないようでした。

 精神科に行く必要があると感じました。僕はそれを口に出しました。


「精神科なら世話になってたことある。そっか、やっぱり薬飲まないとダメか」


 あの日、コーヒーに混ぜて僕を眠らせた睡眠薬。それは、過去に処方されたものでした。予約が取れたのは一ヶ月後で、年末ギリギリになって受診しました。

 僕も精神科には同行しました。そこは不思議な場所でした。オルゴールの音色が流れていて、事務の人たちが最低限の会話をする以外はとても静か。待合室にいる人たちは、みんな精神を病んでいるとは思えないくらい普通に見えました。

 診察室までには着いてこなくていいと言われたので、そのまま待ちました。うつ病かもしれないと言われたとのことでした。

 病んだ兄を一人にするのは不安だと僕が言うと、兄の祖母のいる田舎にしばらく帰ると言われました。それで、僕も年末年始は実家に帰りました。


「おかえり、瞬。今回も初詣、行くだろ」


 父の方からそう言ってくれました。一緒にビールを飲み、年を越しました。僕が気にしていたのは、やはり兄のことでした。人を二人殺したことは棚にあげ、兄の回復を祈願しました。

 おみくじは、僕が末吉で父が小吉。今年はパッとしないな、なんて言って、おみくじを木に結びました。


「あれ、買うだろ。りんご飴」


 去年のことを父は覚えていてくれました。僕は大きな口でかじりつきました。そして、家に帰って、父の部屋で、こう切り出されたのです。


「瞬。そろそろ、言っておかないといけないことがある」


 僕は身構えました。


「瞬にはお兄さんがいるんだ。母さんとは二回目の結婚でな。一回目の結婚の時にできた子で、もう三十代になってる」


 やっとこの日がきたか。でも、僕は驚いたフリをしなければなりませんでした。


「父さんにもしものことがあったら、その人と連絡を取らなくちゃいけない。戸籍を辿ればわかるんだ。その時びっくりしないように、今のうちに言っておく」

「兄さんが……兄さんがいるの?」


 僕は父の手を握りました。


「僕、会いたい。今どうしてるの?」

「さあ……離婚する時に、もう会わないって決めたからな。連絡も禁止されて。どこで暮らしているか知らないんだよ」


 嘘を言っているのは、確実に父だと思いました。僕に兄のことを隠し通してきた父です。そのくらいの嘘は涼しい顔でつけるのでしょう。


「兄さんの名前は何ていうの?」

「伊織。父さんがつけた」

「僕の名前も、父さんががつけたんだよね」

「うん」


 僕は一番聞きたかったことを尋ねました。


「父さんは……兄さんのこと、愛してる?」

「ああ。一日だって忘れたことはなかった」


 それが本心なのかどうなのか、その時の僕には判断ができませんでした。父の表情は真剣そのものに見えましたしね。僕はこれ以上の追及はやめておこう、と自分の部屋に戻りました。

 時刻はすっかり深夜になっていましたが、兄に連絡をしました。まだ起きていたようだったので、電話をしました。


「兄さん、明けましておめでとう」

「ああ、おめでとう、瞬」

「父さんから……兄さんの話、聞いたよ」

「どうだった」

「兄さんのこと、一日だって忘れたことはなかったって」

「……嘘だな」


 兄は、兄の母と離婚をする前後のことを話してくれました。父は朝帰りが多くなり、それで口論が絶えなかったそうです。兄の母を殴ることもあったといいます。

 兄は、兄の母を守ろうとしたそうです。十四歳の少年なりに。どうか殴らないでくれと頼みに行った時、こう言われたそうです。これはしつけだから、と。


「あの時の父さんは恐ろしかった。俺、何にも言えなくなってな。母さんが殴られるのを黙って見てるしかなかった。離婚するってなって、ホッとしたんだよ」


 そして、住んでいた家を引き払い、兄が出ていこうとした最後の時。父は兄を抱き締め、頭を撫で、誕生日を祝うことと会いに行くことを確かに約束したそうです。


「だからまだ、俺は愛されてるんだと思った。思い込んでた。最初の年は忙しいのかなって考えた。そうじゃなかった。俺、俺……ずっと、待ってたのに」


 兄は涙声でした。今側にいれば、抱き締めてあげられるのになと思いました。僕は言いました。


「兄さんは、父さんのこと、好きだったんだね」

「認めたくはないけど、そうだ」

「ごめんね。僕が父さん取っちゃって」

「瞬は悪くない。瞬のせいじゃない。俺が父さんの思うように育たなかったから、捨てられたのかもしれない」


 兄は嗚咽を漏らしました。男性がこんなに激しく泣くのを、僕は兄以外で聞いたことがありません。

 長い間、電話を繋いだままにしていました。兄の寝息が聞こえてきて、そこで切りました。父を想って泣く兄は、とてもいじらしくて、僕が何とかしてあげなくては、と強く思ったのですよ。

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